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Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

ワードローブ (Part-3)。

2007-06-03 | 物質偏愛
【参考記事】:
ワードローブ。
ワードローブ (Part-2)。」】


 さて、三週間前にオーダーをしたスーツが出来上がってきた。
一言で仕上がりの感想を云うならば、「成る程、そういうことか。」といった感じだ。つまり、良くも悪くも、事実確認の域を出なかったということであり、それはある意味、オーダーであることの目的をきちんと果たしてくれたと云い換えることもできよう。

というわけで、以下に今回のオーダーの点数をつけてみる。

1) 着用時のシルエット ⇒78点
 ジャストサイズを意識して作ったことがありありとわかる。
胸の邪魔さ、もったりかつ鬱蒼とした感じはかなり抑えられている。しかしサンプルとして持ち込んだジャケットよりも更にウエストを絞ってあるようで、もしかしたら若干動きにくいかもしれず、今後改善の余地がある。
背中部分はかっちりとした骨格をよく生かしてシャープに、肩部分は逆に幅を抑えて静かな風情でまとめてある。余計な皺がないので総合では合格点である。
 
2) 縫製 ⇒82点
 印象では、「緩い縫製」。丁寧に見えるので、あとは使用してみて今後の経過を観察してみたい。
生地の取り方には若干の雑さが見られるが、重要なところではきちんとストライプを合わせてきているので一見したところの減点はないと見てよい。

3) 首周りと襟 ⇒80点
 首が細いために詰めた首幅はジャストサイズにまとまり、緩みや余りがないのは非常に好ましかった。その分だけ左右に広がってしまって肩幅が広く見えがちになることが予想されたが、まあ許容範囲と云えよう。
女性用であるため、テーラー襟でも若干の丸みを(ほんとに若干だが)感じさせるのは致し方ないのであろう。

4) 前ボタン位置 ⇒81点
 胸で襟がぱかっと開いてしまうのを防ぐため、胸下ぎりぎり(鳩尾あたり)に上ボタンが配してある。上ボタンのみを留めた際のジャケットの前合わせはぴったりなことは非常によい。

5) 袖 ⇒ 72点
 アームホールは若干細めだが、動き辛い程ではない。
しかし、袖丈があと5ミリほど長いとなお嬉しい。

6) 本切羽 ⇒40点
 3つボタンのもっとも袖先のみ、糸色変更をオーダーしたが、なにを血迷ったか3つ並ぶうちの真ん中の色を変えてきやがった。面倒なのと、修繕すると生地が少なからず傷むのでこれ以上直さないが、次回ミスったら赦しません。

7) ポケット 65点
 チェンジポケットと通常ポケット、およびジャケットの下ボタン(留めないほう)との高さバランスは悪くない。
しかし、システム上ポケットに自分の好みの角度をつけることができないことが不満として残っている。点数が低いが、今回の仕上がりに対しての不満というわけではない。

8) 裾 ⇒ 54点
 スクエアカットの角に、若干の丸みが綺麗に与えてあるのが好ましい。
しかし、丈が想定より1.5~2センチ短い気がする。次回修正の余地がある。ウエストから尻のカーブにかけて綺麗に沿わせてあり余りもないが、その女性らしすぎるカーブは想定イメージと若干のズレがあった。

9) パンツ ⇒78点
 少し高めのヒップハングで、ウエストはジャストサイズ。余計な皺もなく、最大の幅で依頼したフレアも許容範囲の出来であった(※本来は、さらに太いフレアを希望していたがシステム上不可)。全てのポケットを排したことは結果的によかった。

10) 要望の再現性 ⇒72点
 a) 男性用の生地で
 b) 男前なシルエットを
 c) 身体に添わせたジャストサイズで作る
という、ある意味で矛盾した要望を出したのであるが、そもそもサンローランなどでは通常で行われている様式であるので、理解はして貰えたようであった。
バックシルエットは合格。フロントシルエットは想定よりも若干女性臭さが勝ったか。

11) コストバランス ⇒80点
 微妙に自分の身体に合わない既製品を購入することを考えた場合。
 今回の仕上がりに対する対価として考えた場合。
いずれにせよ、「得したぜ!」とまではいかないが、充分に合格点であろう。



 さて、次回のオーダーは今回の微修正を反映させるとともに、今回とは異なるオプションを加えてみることにしよう。
生地、および裏地のイメージもかなり具体的に出来上がっている。
あとは、生地のセール期間を待つだけだ。






ワードローブ (Part-2)。

2007-05-13 | 物質偏愛

【参考記事:「ワードローブ。」】



 期末に会社から少々のおこずかいを貰った。
 仕事で得たもの(※毎月の給与以外)は仕事のための投資にしたい。
というわけで手始めに、先月にはコードバンの名刺入れを購入した。
それに続いて本日は、念願叶ってスーツをオーダーしに行った。

 そもそも、女性というのは身体の凹凸が尋常でないので、スーツをフィットさせるためには男性が苦労するであろうよりも2~3倍のゲンナリがそこに存在する。男性という生き物がつくづく羨ましいと、採寸およびフィッティングをされながら嘆息したこと一度や二度ではなかった。

 通常、仕立て屋では男性用の生地と女性用の生地とが別々に陳列されているわけだが、迷うことなく男性用生地へ直行。
 初めての店であるため、今回はテストケースということで生地はしぶしぶイタリアものを諦める。仕立ての結果を見たあとで、次回以降にどれだけの贅沢やこだわりを反映させるかを決めればよい。という訳で、今回は自分にとって極めてシンプルかつ詳細な要望を提出し、体型に合わせることを最重要事項とした。


○生地は鉄紺もしくはこよなく黒に近いチャコールの地色に、ブルーのストライプ。
○キュプラ裏地はかわせみ色。
(※ストライプの色に合わせてグレーの風味が混じったライトブルーも検討したが、変哲ないので却下)
○袖裏は裏地変更して白地にスカイブルーのストライプ。

○ジャケットはノーベントの2つボタンで、ボタンは水牛の黒。
○ウエストは高い位置から絞る。
○センターはストレートカット。
○袖口は本切羽。袖先からひとつ目のボタンホールの糸色をライトブルーに変更。
○襟はシャープ目に角度をつけたテーラード。
○ポケットはシンプルなフタ付きに、チェンジポケットを追加。
○内ポケット排除。
 
○パンツはローライズ気味に、身体前側を下げる。
○ストンと落ちるシルエットをイメージし、膝上を絞った軽いフレア。
○センタープレス有り。
○ポケットは前後ともに排除。
○ベルトループも排除。

上記の要望に加え、体型に応じて肩位置や首詰めなどの補正を行う。
イージーオーダーなので、仮縫い状態での確認がない。そのため、仕上がりの心配事項は以下の3点。
1) 希望のパンツ幅より4センチ細くされること
2) ジャケットの胸開き~ウエスト上部の絞りにかけてのバランス
3) 肩位置とアームホールのバランス

 上記のように数値や項目で伝えることができない部分については、サンプルのスーツを持ち込んで計測して貰うのがよい。「これを基準にお願いします」と言えることは、当方の伝達ミス(情報・要望発信不足)という落ち度をゼロに近づけるための保険という意味においても精神衛生上大層よい。

 
 仕上がりは多分来月に入るであろう。
もし今回の仕上がりが満足のいくものであった場合に依頼する、次のスーツのイメージは既に茫洋と組み立てられつつある。

それはまた、別のお話。








JODHPUR BOOTS.

2007-03-22 | 物質偏愛
 
 雨が降ったとき。
 スーツを着て出掛けるとき。
 ちょっと長めに歩くだろうなと予測されるとき。
 旅に出るとき。
 面倒だからジーンズで出掛けたいとき。

  
   『この靴があるから、踏み出せる。』


 全く異なる気分とシチュエーションをすべて受け止めてくれる靴というものがいつも私には必要だ。このポジションの靴は頑丈でなければならず、幾度の修繕に耐え得るポテンシャルが必要なため、履き潰してしまうまでの期間は長い。確かに、この10年間を二足で済ませた訳なのだから、一足当たり五年の計算だ。靴底の修理を何度重ねたかはもはや記憶にない。

 一代目はストラップのスクエアトゥ、所謂ブリティッシュテイストのチャッカーブーツであった。色は光沢のあるダークブラウンで、極めて重量があった。二代目はキャメル色をしたポインテッドトゥのジップアップショートウエスタン。そして今回購入した三代目が、ここで紹介する黒いポインテッドトゥのジョドパー(ジョッパー)・ブーツである。

 蛇足だが、「ジョドパー」とは、インド中西部の都市ジョドプール(jodhpur)からきている。19世紀後半にこの地に駐留していたイギリス将校が考案した乗馬用ズボンの形状(腿から膝にかけてゆったりとした膨らみを持ち、膝から裾を極めて細く仕上げた独特の形状)をジョドパーズ(jodhpurs)と呼ぶ。そして、このジョドパーズに合わせて履いたのがジョドパー・ブーツなのである。つまりは一種のアンクル・ブーツなのだが、足首にクリスクロス・ストラップを巻きつけるようにして履くのが特徴と云え、正しい作りのものだと、鐙に掛かる靴裏が土踏まず部に丘のようにフィットする。

 製法は、乗馬靴ならではのグッドイヤーウェルト。これは現在用いられている工法で最も手間が掛かるものとされる。文字だけでおざなりに解説すると、中底にリブテープを張り付け、それと甲革、ウェルト(細革)をロックステッチで縫い、更にウェルトと表底とを縫い合わせて成型するもの。イギリスで行われていた手作り靴製造手法をそのままに活かした形で、19世紀の産業革命当時にチャールズ・グッドイヤー2世(米国)によって世に広められたため、この名がついた。耐久性・安定性に優れ、長時間の使用でも疲労が最小限であることが最大の特徴で、歩けば歩くほどに中底がその人独自の形に凹み、専用のインソールを入れたように足に馴染む。
 生地は勿論、耐久性のことだけを考えたオイルアップレザー(オイルドレザー)。動物油(主に魚油)でなめした革で、オイルによる撥水性により水分による劣化が少なくしっとりとした感触があるが、オイルが抜けやすいために小まめな手入れを要する。独特のぼんやりした光沢や、色むらと粗い表面が特徴だ。


 靴の靴としての本質を紹介したかったために淡々とした解説になってしまった。
 この靴を選んだポイントは、以下の通り。

○ 形が美しい(ジョドパーとして正しい作りをしている、ポインテッドトゥなど)
○ 皮が美しい
○ 頑丈さは保証されている
○ 最も疲れない5センチヒール
○ 汎用性の高さ
○ 足首・足裏のホールドの強さ

 この靴は、どんな場所に私を連れて行ってくれるだろうか。
 日常の、非日常のどんな大切な場面を、共に過ごしてくれるだろうか。
 いつか用を終えたときに、この靴を捨てることを私が躊躇うほどに。





魚の棲む石。

2007-03-13 | 物質偏愛
 多く知れば知るほど、そして深く知りたいと願うほど、世界は広くなり、相対して自分はちっぽけになる。
 
 そんなちっぽけな私にも、数少ないが特技というものがある。そのひとつが、色彩を記憶するというものだ。色彩などというものはきっととても不確かで、すべからくそれは光であると云ってしまえばおしまいだ。けれど「質量保存の法則」すらもまだ知らない幼児の私は、色彩は大きさや重さなどよりもずっと確かな存在と信じていた。遷り変わる色彩は季節を知らせてくれるし、描く絵に置く色がほんのちょっと異なるだけで大人はそれを褒めたりけなしたり、時には怯えて黙ったりもする。
色彩は、大いなる自然とも、そしてちっぽけな人間の心とも分け隔てなく直結しており、そのことが子供の私の心を捉えた。色彩を知ることは、あわよくば色彩を操ることは、世界の様々な事象に近づけることを意味していた。

 顕微鏡を覗くと、肉眼では見えない色彩がそこにあった。
 同じものを朝に、夕刻に、夜に見ると、その色彩は確実に異なっていた。
 自分の機嫌や年齢に応じて、目に留まる色彩は変わった。

 色彩の妙を示すひとつの自然現象として、鉱物を愛した。10歳を過ぎると、買って貰った鉱物標本の蓋を日々開いて眺めるのが愉しみとなっていた。15歳を過ぎると、通学途上にある客足の鈍い宝石屋に入り浸り、社長の暇潰しに付き合った。大人になった今にしてみれば、ひとりで宝石屋にふらりと立ち入った、氏素性も判らない子供の相手をよくぞしてくれたものと思う。社長は決して一度たりとも、「お母さんを連れておいで」などとは云わなかった。なんの利益も生み出さない私とまっすぐに遊んでくれた社長は、素敵な石が手に入る度に、「おいで」とこっそり別室に私を呼び、小さな煌きを私の手に乗せてくれた。恐らくとびきりの逸品揃いであったそれらの石たちの多くは、社員の目にすら触れないままに、こっそりと取引されていった。

 人間の慌しく生臭い活動が日々脈々と続けられてきた地上からずっとずっと深く潜った真っ暗な地面の奥で、圧力以外の何を餌にして育つのだろうか、煌びやかな石が生まれる。それらを所有しなくとも、その気になりさえすれば自分の眼にかつて映りこんだことのある全ての色を脳裡にまざまざと描くことができる。それは私に与えられたギフトとも云うべき美しい遊戯。

上級なシャンパンのようなインペリアルトパーズ。太陽を反射する初夏の若草のようなスフェン。向日葵そのもののゴールデンサファイア。宵闇のタンザナイト。龍の涙のような瑯坩、日本の風土には存在し得ない紅色のレッドスピネル。さんご礁の波間の煌き、パライバトルマリン。朧月夜を割く月光に似たラブラドライト。砂糖菓子のようなクンツァイト。

 色はイメージを呼び起こし、イメージそのものとなる。


キーボードを叩く左手の人差し指に居座る緑色のクリソプレーズに眼を遣る。
若い苔に覆われた僅か1センチ強の石の中で小さな小魚が身を翻し、昼下がりの日差しを受けた鱗が小さくきらりとひらめいた。
 

 

琥珀色のじかん。

2007-03-11 | 物質偏愛
 もう少しで桜が咲いてしまうと、テレビのニュースでは戦々恐々とした便りを伝えている。それなのに、赤いコートの前立てをきゅっと閉めて、猫背の早足で歩く自分の姿勢は、冬がまだ東京の上空で頑張っていることを如実に示していた。
痛みを紛らわせる為の赤い爪に目を遣る気持ちの余裕なぞ一切なく、先端まで冷え切った右手は隣を歩く黒いコートのポケットに乱暴に突っ込まれたままだ。

 強い風から逃げるように狭い路地に入り、橙色の看板に導かれていつもの店の扉を開ける。
カラン、コロンと昔の映画のような嘘臭い音を立てる扉を潜ると、深い焙煎の香りが鼻の奥をじゅっと焼く。古い木造家屋の屋根裏に登ったときのような、古材の香りや黴の香り。上質な珈琲豆の香りはそれによく似ていて、目に見える風景を途端に靄が掛かったように朧にさせる。

 只でさえ、この店は創業60年以上にもなる老舗だ。長年の煙草の煙を浴びて実質的にセピア色になった店内。そもそもから橙色のビニール貼りの床。灰皿の埋め込まれた小さなテーブルも、申し訳程度の弾力しかない赤いビニールの座布団も、まるでパンにぽつぽつとした黴が次々に生まれ出るように、様々な時代のあらゆる人の小さな物語をぽつぽつとその身に負っている。

 親友を前に、珈琲を挟んだまま居眠りをしたのもこの席。
 写真家の友を前に、無遠慮なシャッター音を浴び続けたのも。
 生駒の友を前に、数千万の着服被害を笑顔で笑い飛ばしたのも。
 芝居屋の友を前に、尊大な夢を暴露し合ったのも。
 
 けれど彼等の誰よりも、私の向かいの席にはいつも「からっぽ」が居た。
 からっぽを見詰めながら、私は長い長い時間をこの席で重ねてきた。

 10年前から気に入りの70年産コロンビアは、少し温めのデミタス。
口中を縫われた傷口にぴりりと滲みる酸味は、私よりも年かさの珈琲豆がここで重ねた時間の味。長く長く強制的に眠らされた珈琲豆の熟成期間を自らの雌伏の時間にすり替えて、私はいつも不思議と甘やかな気分でからっぽの席を見詰め続けた。私の愛する豆が重ねてきた時間、そしてこれから重ねてゆく時間。並行して流れるだけの私の時間はそれに追いつくことができない。
琥珀色のとろりとした液体を舌先で嘗めながら、次にまたこの店に来る日のことを描くのが常のしきたりだった。「からっぽ」と一緒に、またこの席に来れますように。
小一時間の逗留は、この店における私の時間を確実に熟成に導き、私の眼に映るこの店の風景を確実にセピア色へと変えていった。


 店内の景色を構成する色彩が、いつも、どうしても思い出せない。
瞼の裏にくっきりと映るのは、琥珀色した香気高いコロンビアと、それを包むカップを彩る眩しい赤色と金色。

鼻と脳の奥を焼くあの強く甘い香りに色彩どもは一斉に殺されてきれぎれになる。琥珀色した液体に浸蝕された脳に映る風景は、今現在眼に映りこんでいるそばから記憶の中のそれに至るまでが全てセピア色の魔法に掛かる。そして、そこに居る我々もまた脈々と流れる魔法に掛かって、ものがたりの一片に成り果てる。


「からっぽ」の居ない席に、桜が咲く頃にまた来よう。




Sadistic Snipe

2007-02-25 | 物質偏愛
 気に入りだった一眼レフを知人に貸して質入れされたのは、もう何年前のことだろうか。
 望遠レンズも付けて貸してしまったから、手元に残ったのは単眼の2本のみ。数年後、その状況を哀れんだ知人の知人が、手元にある沢山のカメラの中からわざわざ馴染みのPENTAXを拾い出して、その一機を私に提供してくれた。そこまでしてくれるのなら、と私はその場凌ぎの望遠レンズを購入した。

 そしてまた数年経った。窓際に置かれたあの機械が再び起動した。「遊ばせておくのは勿体ない」と、ご丁寧にリチウム電池とフィルムをその手に提げた親切な人は、数年に一人くらい現れるものなのかもしれない。
だから、寒空の中へ久々にカメラを携えて出掛けた。

 写真を撮ることは、人も動物も決して殺傷しないだけのスナイプ(狙撃)だ。
 視界を広く保って獲物を探して一方的に対象物を定め、遠くからひっそりと、あるいは双方合意のうえで狙撃する。対象物の選定にあたっては論理を必要とせず、それはいつも本能的な一瞬の判断で行われる。

 出来上がりの写真に求めるテーマや出来の良し悪しは兎も角として、そのスタイルは本当に多種多様だ。対象物を多く定める乱れ撃ち型もいれば、対象物決定から狙撃までの躊躇の時間の長短、至近距離からの狙撃あるいはその逆を好む人、対象物に対して真っ向勝負を挑む人など、一人の人間が複数の「型」を持つ。

 それはいずれのスタイルであっても、非常にサディスティックな遊戯であることに変わりはない。カメラを趣味とする人の多くが男性であることもその遊戯の性質を如実に表している。勿論、カメラと深く付き合うには機械を扱う愉しさという別の要素も含まれているが、そもそも機械の機能を熟知し、その性能を存分に手懐けたいという好奇心と欲望自体がサディスティックな側面を持つことは自明であろう。


 一方的な狙撃によって場面と時間を切り取り、手元に収める。

 一緒に楽しい時間を過ごしたときの、大好きなあの人の表情。
 一年後には跡形もなくなってしまう、大好きなあの建造物。
 その実物を所有することができない、憧れやまないなにか。
 次にいつ出逢うことができるか判らない、一瞬の色、場所、それらの表情。
  
 誰も止めることができない時間の流れ。次の一分、明日の同じ時間には決して二度と同じ表情を見せてはくれない対象物。抗えない大きなものに無力な抵抗を試み、その欠片を我が手に取り込もうとする行為は、美しいものを見た証拠として、記憶として、感動の断片として繰り返し行われる。シャッターを押すそばから老いてゆく我々と、新陳代謝を繰り返す風景。

手元に残るすべては、影。

繰り返される狙撃は、哀しいほどに逆説的な、マゾヒステイックな切望。

 




ソフィテル雑感。

2007-02-14 | 物質偏愛
―― あまりにも短命の作品となってしまったことに驚いている。
   樹状住居という集合住宅の考え方に基づいてつくったものだから、
      マンションへの改修は十分可能なのに、残念だ。
        日本はますます経済性優位の社会になって、
      文化的な価値は評価されにくくなっているのか (菊竹清訓) ――


 大学に通っていた時分、法文一号館が改修工事の最中であった。我々は根津の離れに研究室という名のプレハブを与えられた。プレハブの床はぎっしりと詰まった書籍の重みで軋み、廊下を歩くと床をぶち割りそうながつがつという無愛想で派手な音を響かせた。
研究室への行き帰りに弥生の住宅街を通る際、空を幾重にも分断する電線の向こうにいつも見上げる建物があった。
それが、ソフィテル東京だった。

 設計者菊竹清訓氏はメタボリズム(新陳代謝)という都市・建築理論の提唱者の一人であり、この建物もまたその理論に基づいて設計されている。メタボリズムを象徴するとも言い換えられる代表的建築物としては中銀カプセルタワービル(黒川紀章、1972)が有名だ。建築家の実験的な熱情の顕現と呼べる建物は、日に日に減少してきている。特に都心においては、居住性の高さ、利益効率の良さが最優先事項となった。そうして、心を揺さぶるような建物には滅多にお目にかかれなくなった。

 明らかに不安定で、揺らめきながら空へとベクトルを向けるあの建物は、日々悩める熱情のカタマリ、すなわち学究の徒であった私自身を投影するに相応しかった。賛否両論巻き起こしたあのケッタイな風貌は、カテゴライズ不能という素晴らしき存在感を示してくれた。台風がきたらポッキリと折れて倒れてしまいそうな樹状建築は、夏の眩しい陽光の下でも、夕焼けのぼんやりとした茜色を背景としても、常に心細さと茫洋とした輪郭と、そして何より確固たる意志をもってそこに居た。私は雨の日であっても傘をちょっとだけずらして、毎日それを見上げた。


 ソフィテル東京は2006年12月をもって営業を停止した。そして、その威容を惜しむ間もなく、2007年の早い内には取り壊される。多忙に追われてこの感慨を忘れ去り、ふと思い出して次にそこを見上げたときには、何の変哲もないタワーマンションがそこに建っているのだろう。
せめて私の心の中の風景には、永遠に。あの揺らめきとともに。

 -- むしろそこが空のままであったなら、よかったのに。



追) 環境への配慮を主なテーマとする愛知万博に関わった菊竹氏の意向として、解体後の建材をできるだけ再利用するよう三井不動産レジデンシャルに依頼したとされている。しかし私にとって、そんなことはこの際瑣末なことだ。





菊竹清訓氏設計の建築の例:
江戸東京博物館
九州国立博物館 ほか







BLANC CERAMIC

2007-02-11 | 物質偏愛
 

 人は土から造られたから、土にほど近いくすんだ色合いで生まれてくる。

 その中で、眼の一部と歯というほんの僅かな部分だけ、人は白という色を貰った。

 眼。
 それは美しいものや穢らわしいもの、分類不可能なものやその他記憶にも残らない雑多な「どうでもいいもの」を次々に映し続けるという厳しい役割を与えられた器官。美しくあり続けさせることが非常に困難な器官。
憤りの炎に煤け、悔し泪に曇ってもなお独力でその艶と透明度を取り戻すことを強いられる。


 歯。
 それは本来身体の中に収まっているはずの骨の一部が露出した器官。死してなお、燃やされてなお残る器官は、容易く腐敗し燃え尽きるその他の器官の動きを止めないために、日々休みなく食物を咀嚼し、体内に送り込む。
水車屋の職人のように、日々絶え間なく、その先端をすり減らしながら。


白は、人を試す。

白いシャツに腕を通し、ぱりっとした糊を身体で崩すとき。
和紙に最初の墨を下ろすとき。
実験白衣の袖を捲りあげるとき。
白い靴で出掛けた日の通り雨。
病院の屋上に並ぶ洗濯物を眺めやるときの恐怖。


それを目にし、身に付けても、心は自らのものであり続けられるか。
心が白に侵され、白の思惑に誘導されはしないか。白が汚染される恐怖と自らが汚される恐怖とを同一視して動揺したり、あるいは無意味に白を汚してみることで嗜虐的な高揚感を得たりはしないか。



白は、いつでも人を試す。

白い爪紅を贈られる私もまた、試されている。





煙草考。

2007-01-14 | 物質偏愛
 ようやく、煙草グッズが手元に揃ったのでご披露する。

 1) シガレットケース(ダビドフ)
 2) 銀ライター(S.T.デュポン)
 3) シガレットホルダー(ウサス)

 堅気な風情を微塵も感じさせないグッズであるが、気に入ったものたちでこの3点を揃えるのに何年かを要した。真剣に探せば、そして財力さえあればひと月で揃えることができたろう。しかし、遠足やイベントはその数日前が最も嬉しいのと同じように、揃えてしまう前のわくわくを無意識に長いこと愉しんでいたかったのかもしれないと、手元に全てが揃った今になると思う。

 
 シガレットケースは、一見してなんの変哲もない黒皮のシンプルなものだ。通常なら20本入り(現実にはなぜか16本くらいまでしか入らないのだが)のケース中央には仕切りがあり、その片方をライターの定位置としている。
 市場にはアルミやステンや銀製のシガレットケースが多く、可愛らしい細工を施すには、それらの材質が都合よいことも判る。しかし、私の場合はライターをそこに仕舞うという役割をも担って頂くため、皮製のものに限定される。ライターを無駄に傷つけずに済むからだ。皮製のものを探すだけでも苦労をしたが、そのうえ架空ライター氏の存在を前提として適切な形状のものを見つけるのには更に難儀をした記憶がある。因みに、それを購入したのは4年前だ。


 ライターは、デュポン以外のものは考えられない。蓋というよりもむしろ扉と呼ぶのが適切であろうかと疑いたくもなるその「蓋」を開いたときの、キン、というバネの重さを感じさせる、冷たく澄んだ銀の音が好きで好きで堪らないからだ。そして、用を成さずに佇んでいるときの、磨き上げられた銀の輝きと、計算された四角すぎるフォルムのせいで無骨さとは程遠い表情は貴族的極まりない華麗なる無言だ。重い蓋を指で蹴上げるときの音、着火させるためのローラーを横に擦る親指の上品な動き、蓋を閉じるカチリという重量感たっぷりの音。そこまでの動きを自分だけの決まりきった仕草にするために、どれだけのガスを無意味に消費させたことだろうか。 

 だから、デュポンのライターを持つことができない間は、100円の使い捨てライターをずっと使っていた。その事実は「欲しいものじゃなきゃ要らないの!」というゼロか100かという私の性格を如実に示していて、その幼児性には我ながら呆れもする。
 因みに、ライターで二番目に好きなのはサロメだ。その理由は専ら日本人の職人気質を前面に押し出している「ものづくり哲学」と秀逸なデザインに拠るものだ。しかし、私の心の奥のほうをぞくりとさせるあの音だけが、足りない。
 

 シガレットホルダーは、トルコで購入した黒琥珀のものを一時期使っていた。 
しかし、トルコ製の茫洋とした作りでは、長期間の使用に耐えきれなかったらしい。煙草を装着する部分に緩みが発生して、灰を落とそうとする際に煙草ごと抜け落ちるという危機的な状況に陥るまでになり、まともなものを新調する必要があった。
ライターと同様、シガレットケースに丁度よく収まる長さである必要があったし、今度こそは長期利用に堪えられねばならず、且つ、黒皮のケースと銀のライターとの質感と調和してくれなければいけない。ついでに、一応女性使用であるので細身で華奢でなけれなばらない。必然的に選択肢はとても小さくなり、ドイツ製のシンプルなものを選んだ。口の端で吸うことができる細い吸い口が気に入っているし、人差し指と中指で挟むことなしに4本の指で煙草を綺麗に支えられる機能性と重さのバランスが秀逸である。

 使ったことのない方のために言い訳をすると、シガレットホルダーをわざわざ使うのは、なにも美的演出のためだけではない。彼の本来の機能は、煙が口に入ってくるまでの道のりを長くして口に入ってくる煙をいい塩梅に冷やすことであり、それによって煙草を旨くすることだ。



 こうして、私の煙草グッズが揃った。
 そして、このような無駄なものたちを所有する愉しみを、それを使う仕草の面白さを共有してくれる人が傍にいることの悦びを実感するのだ。






衣食住考(1)。

2007-01-09 | 物質偏愛
 誰かの買物に付き合うのはとても愉しい。それがお洋服や装身具であれば尚更だ。
 その「誰か」を深く知っていればいるほど、その「誰か」を0.5割増にするための何かを選ぶ実験は非常にスリリングなものとなる。手持ちのワードローブは何か、足し算の人か引き算の人か。購入する品の用途は何か、目的は何か、冒険か保守か、テーマは何か。物色するその姿からそれらを読み取り、引き出し、そしてその半歩前へ。

 久々に足を運んだ伊勢丹メンズ館は、それはもうとても楽しかった。可愛らしいカフスボタンがずらりと並んだウインドウに、万年筆やボールペンが整列した壁。きっぱりとしたシルエットにスイートな柄の浮かぶシャツ。上質なスーツへといずれ生まれ変わる上質な生地の香り。もし私が男であったならば是非身に付けたいものばかりがそこに並んでいて、嘆息するにとどまらず、それを超えて私は少し不機嫌であった。
 不機嫌ついでに、衣服について思うところをのべつ幕なしに書いてみる。過去記事「ワードローブ」で、服についての思い入れを書いたので、今日は服のあわせについてだ。

 日本人のうち、若い世代ではとくに、ドレスアップという意識は低い。よって当然、ドレスダウンという意識は更に希薄だ。カジュアルという言葉がある割に、カジュアルの逆をゆくことに長けてはいない。洋装の歴史が浅いから、それは仕方のないことなのかもしれないけれども。

 理由は自分でも判らないが、私はドレスアップとドレスダウンがこよなく好きで、カジュアルは天候不順か体調不良、あるいは至極多忙という何らかの言い訳とともに自分に許容される程度のものだ。先に述べたように、本来ならドレスアップありきのダウンなのだが、ドレスアップをして出掛けることのできる機会も場もそうそうない。畢竟、私の日常着はドレスダウンの一辺倒になる。

 10年もののジーンズと履きこんだチャッカーブーツに、フォックスの毛皮を引っ掛ける。
 スーツを着た指にゴールドのマニキュアをしてスカルのリングを嵌める。
 シルクのワンピースにウエスタンブーツを履く。
 Tシャツに、デコラティブなネックレスをして、黒ムートンのコートを羽織る。

 ドレスダウンと一点豪華主義との間には、大きな格差がある。ドレスダウンは、計算式の最後に出てきたものが「ただの日常着」の風情を漂わせていなければならず、決してアンバランスであってはならず、正統という正しい公式をどこかできっちり崩していなければならないからだ。そのためには、たとえ機会がなくとも正統なるドレスアップを知っていることが肝要で、それがどうにもいちばん難しい。

 おまけに私は背が小さい。肌の色も白くない。何を着ても恰好がつくほど痩せているわけでもない。洋服を好き勝手に着るために都合のいい見てくれをしているとは決して思えない。おまけに、似合うもの好きなものを好き放題に入手するだけの財力なんてこれっぽっちもない。その中で、いかにも好き勝手に着ているように、そしてそれがなるべく美しくあるように仕立てるのがいつしか私の流儀となった。

自分を知り、自分に似合うものを知る年月は、死装束を纏うまでこれからもずっと続く。





文明の利器(2)

2006-12-22 | 物質偏愛
「身体、気をつけて。」
「ええ、それじゃぁ、ね。」

 まるで待ちきれないかのように、電話を切るよりも早く、キン、と軽い音を立てて右手の中で小さな火を点した。二度と逢うこともない私の身体がどうなろうと、私の勝手じゃぁないか。そんな皮肉を笑顔を添えて云ってやればよかったのだろうか、もう少し哀しげな素振りでも見せ付けて苦しませてやればよかったのだろうか、とか不毛な考えが頭を過ぎり、それを振り払うかのように髪をぐしゃり、とかき上げた。

 右手に収まるずしりと重い小さな銀色の箱は、暗い部屋の中で音もなくちらちらと揺れるクリスマスツリーの虹色の光を冷たく弾き返す。弾かれた光は強く冷たく、つい先頃まで虹色だった気配も見せない。
いつもよりも深く吸い込んだ煙を、ほう、と声を立てて闇に大きく吐き出した。
露出させずにぎゅっと凝固させたままの数限りない言葉と、なかったことにしてその存在を無視し続けた感情とを、一緒に。

 心に響いてしまってはいけないと思って、わざと半分以上を聞き流していた電話。それだけでは飽き足らず、大音量で流していた古めかしいロックが、電話を切ってしんと静まり返りからっぽになった室内にやけに煩わしく響く。眉間に皺を寄せて、私は音楽を止めた。

 からっぽの話に、からっぽの笑い声。
結局のところ、伝えたいことなんてたったのひとつしかないくせに、無闇に未練がましく引き伸ばされた会話。どうしようもなく陳腐な、日々世界中で幾千と再現されているたった一時間の出来事。そんな縋りようもない藁以下の脆弱なよすがだと判っているくせに、なにもかもに気付かない無神経な振りを貫いてでも、最上の演技を完遂しようとする不毛な自己満足に、自嘲の笑みを漏らす。

キン、と冷たい音が私の心を叩く。カチリと音を立てて銀の箱を再び閉じては、また開ける。
最初の煙草の火はまだ消えていない。キン、という澄んだ音は、心の外壁を多い尽くさせた重装備を、のみが削る如くに少しずつ、ほんの僅かずつ削ってゆく。

もう一度。
もう一度だけ。

乾きかけのマニキュアの先が削れることも厭わず、神経症のようなその動きを繰り返す。
仕事で苛々したときに、愉しい食事を囲んでいるときに、悪夢に怯えて目覚めた宵に、いつでも私の心に寄り添い続けてくれた音。決して発露させることができない言葉が生まれたとき、そんな言葉たちが生み出されることのない悔しさに癇癪を起こして私の身体をぎゅうと苛むとき、冷たいこの音が私を救った。

 --私は貴方のことよりも、このたったひとつの音のほうがすきなのだ。



 冷たい音を奏でる銀色の箱から流れ出る炎は、不覚にも熱い。
 冷たい言葉を発し続けた私の眼から流れ出る泪は、不覚にも真っ直ぐにするりと流れ、その熱さにむしろぞくりとした。



「すまなかった。」
誰に掛けるでもない言葉を打ち消すように、最後にもう一度だけ、心に冷たいのみを当てた。



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◇◇補足◇◇


これは、昨日頂いたサプライズプレゼントへのオマージュ記事です。
店頭でまさに物色していたところに滑り込みで購入されてしまった、大好きで堪らないデュポンのギャツビー。
フタを蹴上げる音がなにより、こよなく最高なのです。

嬉しくて堪らなくてはしゃいでいる精神状態でのオマージュ記事にも拘わらず、無闇にどす黒い仕上がりになってしまいました。御礼のつもりだったのにさ。
なんてこったい。



MEMENTO MORI.

2006-12-17 | 物質偏愛
 幼い頃から、頭骨がすきだった。
 
 10歳くらいの頃であったか、私は子供が両手で包み込むことができるくらいの頭骨のレプリカが欲しくて、親にねだった。親は「気持ちの悪い子ね」と云いながらも色々と探してくれたのだが、見つけてきてくれたものはいずれも、デフォルメされていたり仕上がりが現物からは程遠い甘さだったりで、私はその全てに駄目だしをした。

 仕舞いには、医者の知人が本物を譲ってくれるというところまでいったが、頭骨のフォルムのみを純粋に愛でたかった私としては、フォルムの背後に現実や歴史を伴ってしまう「本物」を得ることは本意ではなかった。
 そうしてこの年齢まで、頭骨というフォルムを手にすることはなかったが、その魅力は常に私を呼び寄せる。

 肉親が他界した折、その焼かれた頭骨は粉々に砕け散っており、その形状を確かめることはできなかった。しかし、投薬の影響で鮮やかな緑や蛍光ピンクのまだらに染められた薄い殻のような頭骨は、やはり私にとってメルヘンの域を出なかった。


 どくろ杯の幻影。
 胎児の直立骨格標本。
 砂漠に転がる大きな哺乳動物の頭骨。

 恐らく、肉体を伴っている折には造作や機能に出来不出来のある「あたま」という物体は、頭骨という核だけになってしまったときにはじめて、そのどれもが純粋に美しいものになり得る。そして、人は自らの頭骨を決して目にすることができないまま死んでゆく。
だから、頭骨はメルヘンだ。

 誰もが、頭骨を自らの所有物として生々しい感情とともに語ることができず、どこか非現実的な夢のムコウに存在する避けがたいリアルとしてそれを認識する。云わば、どんな生身の現実や痛みよりも強烈な現実を体現するファンタジイ。

 言葉が生まれるよりもずっと昔から、人は、それが放つ強烈な現実を忘れたくないために頭骨を描き、纏い、愛で続けてきた。
多分、1,000年後も、ずっと。



 私が決して眼にすることのない私の頭骨は、そのままの形を保っていて欲しいと切に願う。
 そうして、誰かがその頭骨の周囲を薔薇で飾ってバスケットに詰め、ピクニックに行ってくれればいいと思う。




 

ブーツ考。

2006-11-13 | 物質偏愛
 ブーツはそもそも、フェチアイテムである。


それがいつからか、秋になると百貨店にも道端にもブーツが氾濫するようになった。なんとまあ沢山の材質とフォルムが冬の足音を待つ間もない程早くに世間にびちゃびちゃと繁殖してゆくさまを見ると、ブーツがフェチアイテムから格下げになってしまった淋しさを禁じ得ない。

そういう私も、ブーツを5足所有している。
ジャスティン社のアメリカ製本格ウエスタンブーツや、サイドゴアでロングノーズのショートブーツ、高くて太いヒールが特徴的なキャメル色のストレートブーツなど。
ご愛用であったそのうちの一足、華奢なヒールの黒皮ショートブーツがそろそろお陀仏になりそうだったので、その代わりとなる一足を探して、私は難儀した。

店頭には山程のブーツが並んでいるくせに、そいつらがからきし美しくないからである。
なぜだ。
美しくないブーツなぞになんの意味があるというのだろう。


 そこで、道を歩いてゆくお嬢さんたちの足元を観察してみることにした。

 まずひとつ、ブーツには、ウエスタンやワークブーツを筆頭に、すとんとした直線的フォルムのものがある。これは、否定できないくらいに曲線的な女性の足のラインをハードな材質とメンズライクな直線的フォルムで覆い隠すことによるアンビバレンツな美をそこに醸すためにあるものだ。よって踵は総じて低く太く、歩けばゴツゴツと音がしそうな風情が漂う。男性が身につけるのとはまた異なる色香がその「ゴツゴツ」という音から発せられることは容易に想像がつく。

 ふたつ、これはより直接的に、女性の足の曲線ラインに沿うような華奢な材質で、まるで足の形のままにぴったりと寄り添うようなものがある。これは、極端に言えば「ストッキングがブーツになった」とでも云うべきもので、筒の部分が1センチ刻みで選べたりする場合もある。自らの足に不自然なくフィットさせることにより、まるで素肌のようにブーツを纏うことによるボディコンシャスな美である。

 みっつめ。これが私にとって最も難解で、今年になって最も多く目にするタイプだ。上記両方のタイプの流れを汲むことができるようだが、くしゃくしゃとした皺をブーツの表面に与えて、ドレープのようなぐったり感を前面に押し出すものである。
「ドレープ」とは、本来ならばその脆弱で不安定な揺らぎがラグジュアリーで優雅な装飾美を提供するはずのものだ。それがブーツに与えられたからといって、皮革という材質と、複雑に縫い合わせた筒という形状の限定により、脆弱な感性すら生み出さず、儚げな揺らめきも伝えない。むしろ、「足を包むもの」としてある程度限定されてしまうフォルムを不必要に乱し、ブーツそのものの存在の美しさも、それが包む足の美しさすら損なってしまう。嘆息するよりほかはない。


 ブーツは、衣服とは異なり、あらゆる装飾が許される分野ではない。
 ブーツは、防寒や乗馬という機能美が不要になったところに生じる無駄である。
 ブーツは、無駄であるからこそ、削ぎ落とした機能美が際立って美しい。

ブーツとは、本来そういういきものだ。


長い行脚の末に入手した、ぬるりとした質感が艶かしいアンクルブーツは、これから何年私とともに居てくれるだろうか。



少年の夢 -SPEED-。

2006-11-05 | 物質偏愛
「これを買ってあげるともし言ったら、君はそれを喜ぶかい?」
 
 誰かから、突然に、何かを貰うことは本当に思いがけず、嬉しく、そしてこそばゆいものだ。

私の部屋の玄関を上がってすぐの廊下の幅を半分弱占拠している本棚、その上は数少ない娯楽場になっていて、違う大陸から運ばれてきた石や、コインや、そして沢山のミニカーで埋もれている。そのミニカーの半分はフェラーリのそれで、その真っ赤な並びに今日新しい仲間が加わった。それは20センチ以上はある真っ赤なイヴェコのトランスポーター。つまり、F1マシンを戦地まで運ぶトレーラー。そして、面白半分で購入したセイフティカー。

小さくて軽い車たちを左手に下げてぷらぷらと揺らしながら帰宅すると、私はまるで子供のようにわくわくと、眉間に皺を寄せながらその配置を考え、どうにか定位置を定めて飾りつけを完遂させた。満足気ににたりと笑う私の顔は、幼い少年が虫かごに入れた戦利品を眺めるときのそれときっと同じだ。

思えば私は子供の頃から車が好きだった。
三歳にも満たないような子供が車のことを「ぶーぶ」と表現したりするような頃、私は頑固に首を横に振り、「チガウの、あれは、トアック(*「トラック」と言えていない)。」などと、バスやショベルなど幾つかの種類を分類することに拘り、大人たちの機嫌を少なからず悪くさせた。

小学生にもなると、夏の旧盆の支度の一部は私の担当だった。
胡瓜の馬と、茄子の牛を作った。そして、その意味を知った。私は子供心に、「馬の足がいくら速いと言っても、ご先祖様は何人もいるのだし、馬が一頭きりじゃ限度があるに違いない。」と思った。そしてある日の学校帰りに、私は近所の玩具屋に寄って、小さなミニカーを大事に抱えて帰宅すると、自慢気に仏壇にそれを並べた。

それはくすんだ黄色をしたロータスホンダ。
どうしても待ちきれなくて、すぐにでも逢いに来たいと思ったら、ご先祖様はこれに乗って来ればいい。子供の私にとって、この世で最も速い乗り物はF1だった。
「運転できるのかしら?酔っちゃうかもしれないわよ。」
そう云って、親は苦笑した。

何年か経って、旧盆の仏壇にはロータスホンダの隣に、90年代当時の真紅のフェラーリと、ブリティッシュグリーンのジャガーが並ぶようになった。エンジン音が各社で異なることを知り、車の安定やら形の美意識やらも知り、ご先祖様の好みによって選択の幅があったほうがよいと思ったからだ。

あれからもう15年も経った今でも、あのときのフェラーリが私の傍にずっと居る。
新幹線を知り、リニアモーターカーを知り、戦闘機を知った今でも、多分私にとって「この世で最も速い乗り物」である実感を与えてくれるものは最高級な車なのだ。私に少年期というものがもしあったとしたならば、それは未だに輝きを放ち続ける少年の夢そのものだ。


実家にあるはずの残り2台が今でも旧盆の仏壇に並べられているかを私は知らない。
そして、ご先祖様がそれを一度でも利用したことがあるのかどうかも。






ワードローブ。

2006-10-03 | 物質偏愛
 久方ぶりに、しつこいが本当に久々に、お洋服を買いにいった。
二年間の都落ちの期間は完全なる禁欲生活であったし、江戸に戻ったと思えば骨を折って骨折者用の服を揃えるのに一苦労。仕事が軌道に乗れば乗ったでなにやら忙しかったり、都落ちの間に無沙汰をしていた友人たちとの交際費がかさむ。そんなこんなでお洋服屋さんから足が遠のいていた。

 きっかけは、オーダースーツの生地サンプルを見せて貰ったこと。小さな生地の切れ端が並んで、デザインサンプルが書いてあって、それはまた私の想像力を喚起する。男に生まれていたらよかった、と思うことはしばしばあれど、今回もまたその詮無い欲求に取り憑かれたのは事実。嬉々として出来上がりを待っている横顔を見るのは悔しいから、無理にでもと思って偏頭痛をぶら下げながら同行した。そこはとてもシンプルで小さな町工場のような店で、「これから私たちが貴方のからだにぴったりと寄り添うの。それはとても心地の良い感触なのだから、試してご覧なさいよ」と誘惑する生地たちがどさどさと積み上げられている。うっかりその誘惑に触れてしまったら最後、と思い距離を置いて待機していたものの、我慢は身体にどうにもよくない。まんまと私は罠にかかった。

  濃いグレーに深緑のピンストライプの生地だったら、裏地だって悪趣味に緑にしたい。
  黒字に赤やピンクのピンストライプだったら、裏地は臙脂か京紫がよいか。いやむしろ淡いクリーム色も悪くない。
  合わせはシングルだけど、襟は勿論ピークド。それならばバックはダブルベンツ。
  パンツの裾は、ひざ上を少し絞って、軽いフレアにして貰おう。
  袖口のボタンは本当なら4つ欲しいところだけれど、これは考慮の余地ありだ。

ふふふ、愉しい。
私は新たなおもちゃを見つけた。


  ・・勢いというものは恐ろしい。
帰り掛けに、改装を終えたばかりの某百貨店を覗いてみた。以前よりもコンセプトが一層判らぬ出来栄えとなっていた。意図するフロアのターゲットが不明瞭で、私が同カテゴリに整理していた店のフロアはてんでばらばらに分離され、私は各階をうろうろせねばならなかった。
そうして汎用性はあるだろうが明らかに無駄なデザインの羽織りものと、デコラティブなワイドパンツを購入した。ふぁさふぁさした毛皮の襟が欲しかったが、衝動買いはよくないので、次回にした。

 お洋服は、できるだけ無駄なものが愛らしい。「どこに着ていくの?」「なにと合わせるの?」と自分に問いたくなる服がないこともない。
だって、シンプルで潰しのきくデザインのお洋服なんて、運動着と同じで、つまらない。

できるだけじゃじゃ馬なお洋服であればあるほど、それを手懐けたあとの一体感といったらこのうえないのだから。