今日は何の日だっただろうか。
ただ阿呆のように晴れ渡り、住宅街の間を抜ける風は折々に強くなって新聞の切れ端やビニール袋を厭な音をたてて巻きあげたりして、そんな無邪気な不安定さをこれ見よがしに突きつける季節。
いや、季節なんてほんとうはいつもそんなものだ。季節はその美しさを私たちのために演じてくれるのではないし、意地悪にも私たちを不快がらせるための悪戯を仕掛けてくれるのでもない。季節はいつも不安定で、だからこそ情緒的で、そのくせとっても論理的だから腹が立つ。結局のところ私はそれに手出しができなくて、それを享受するしかなくて、だいいち私はそれに惑わされて、そんな自分に満足するようにできている。
季節というのは、その顕現というのは、だからこんなにも厄介だ。
だからというわけではないけれど、今日は私の記念日だ。
人形になれなかった記念日だ。
彼は私に云った。
「君の肌はこんなにも柔らかくて湿っていたっけ。」
つい一瞬前まで、彼にしがみついてどこか遠く東欧あたりの夕焼け空の色を脳裡に描いていた私は、その言葉によって冷や水を浴びせられ、現実に引き戻された。
彼は私の肌、特に背中や腕のあたりを撫ぜる癖があった。私はいつも、自らの肌の上を飽きずに往復する掌の感触のお陰で、自分がそこに在ること、自分の肌とそれ以外のものとの境界を知り、安堵して眠りに落ちるのが常だった。
それなのに、彼はまるで私の境界を初めて知った人のような言葉を発した。
「知らなかったの?」
そう云おうとして、やめた。
仮に、彼がそれを知らなかったのならば、どんなにか。
「えぇ、残念ながらね。」
そう云い換えて、くるとうつ伏せに起き上がって、煙草に火を点けた。
彼は押し黙ったまま、煙を吹かす私の背中にその掌を往復させた。そのとき、彼のまなざしが何処を向いていたのかを私は知らない。
湿気た肌。熱い熱情を内に押し込んだ肌。
それを知りながら、かつてはそれを愛しながら、なにかを知ったがためにいつしかそれを拒否して、ついには忘れた。
短くなった煙草を挟んだ指先にちょこんと乗る、紅の爪紅。ちりと胸の奥が焦げるような音がしたから、私は煙草を持ったままの爪の先をきりりと噛んだ。
無闇に近付いた煙が私の顔をふわと包んで、煙の痛さに泪を流した。
紅い爪をしていたって、所詮私は泪を流すことができる。
※【硝子の眼(Ⅰ~XI)。】まではこちらから
ただ阿呆のように晴れ渡り、住宅街の間を抜ける風は折々に強くなって新聞の切れ端やビニール袋を厭な音をたてて巻きあげたりして、そんな無邪気な不安定さをこれ見よがしに突きつける季節。
いや、季節なんてほんとうはいつもそんなものだ。季節はその美しさを私たちのために演じてくれるのではないし、意地悪にも私たちを不快がらせるための悪戯を仕掛けてくれるのでもない。季節はいつも不安定で、だからこそ情緒的で、そのくせとっても論理的だから腹が立つ。結局のところ私はそれに手出しができなくて、それを享受するしかなくて、だいいち私はそれに惑わされて、そんな自分に満足するようにできている。
季節というのは、その顕現というのは、だからこんなにも厄介だ。
だからというわけではないけれど、今日は私の記念日だ。
人形になれなかった記念日だ。
彼は私に云った。
「君の肌はこんなにも柔らかくて湿っていたっけ。」
つい一瞬前まで、彼にしがみついてどこか遠く東欧あたりの夕焼け空の色を脳裡に描いていた私は、その言葉によって冷や水を浴びせられ、現実に引き戻された。
彼は私の肌、特に背中や腕のあたりを撫ぜる癖があった。私はいつも、自らの肌の上を飽きずに往復する掌の感触のお陰で、自分がそこに在ること、自分の肌とそれ以外のものとの境界を知り、安堵して眠りに落ちるのが常だった。
それなのに、彼はまるで私の境界を初めて知った人のような言葉を発した。
「知らなかったの?」
そう云おうとして、やめた。
仮に、彼がそれを知らなかったのならば、どんなにか。
「えぇ、残念ながらね。」
そう云い換えて、くるとうつ伏せに起き上がって、煙草に火を点けた。
彼は押し黙ったまま、煙を吹かす私の背中にその掌を往復させた。そのとき、彼のまなざしが何処を向いていたのかを私は知らない。
湿気た肌。熱い熱情を内に押し込んだ肌。
それを知りながら、かつてはそれを愛しながら、なにかを知ったがためにいつしかそれを拒否して、ついには忘れた。
短くなった煙草を挟んだ指先にちょこんと乗る、紅の爪紅。ちりと胸の奥が焦げるような音がしたから、私は煙草を持ったままの爪の先をきりりと噛んだ。
無闇に近付いた煙が私の顔をふわと包んで、煙の痛さに泪を流した。
紅い爪をしていたって、所詮私は泪を流すことができる。
※【硝子の眼(Ⅰ~XI)。】まではこちらから
遠く触れずに愛でる愛も好きですが、力で壊して失って実感する愛もありますね。まあ、愛というよりもそ瞬間の刹那的な感覚把握でしかないのかもしれませんが・・・。
先日、primeroseに行きましたよ。
相変わらずのご夫婦の笑顔。
ベーコン、パン、ピクルスと身体によい品々をいただきました。
お二人からマユさんの様子を尋ねられました。
お元気ですか?
お変わりありませんか??
お気に入りのフレーズ↓
一度口付けをされたなら、またして欲しいと思うだろう。
今のsaorrにぴったり!(なにがや)
「人形になれなかった記念日」、人形が彼のもとを離れたのに、いまだに人形に縛られているということでしょうか。
こうなると何だか破滅に向かって突き進んでいくような気がします。
次は人形視点で、お願いしますね。(笑)
なんだか嬉しいです。
すぐまた見にきますね。
冷や水。って、時折かぶるわ・・・
おなかがキュゥゥッとなりました。
とても普通なことを、何気なく、悪気なく質問をする。。。それだけなのに。
とても、悲しく、恐ろしい。
人って、とても簡単に、他人を恐怖に陥れることができるんですね。
でも良すぎて、僕なんかが軽いコメントするのも気が引けてしまっていつも見てるだけでした(笑)
胸を締め付けられて、鳥肌がサッと立ってしまうような感覚によく陥ります。
いや、誘われてるのかもしれませんが。。
今回も、読みながら「ううぅ」っと唸ってました(笑)
>alice-room さま
壊す気もないときに、人は人を壊す。
壊さんと願ったときには、なかなか人は壊れない。
人というのは、愛というのは果てさて不思議なものです。
>pita さま
ご無沙汰です。なかなかそちらに行けずにごめんなさい。
今日、店の息子からメールを貰いました。
既に私が居ないはずの色んな土地に、私の残滓がある。
これもまた、とんでもなく不思議で、とても素敵なことです。
>saorr
落としどころを決めないまま、延々と長くなってしまっていてごめんよ(笑)
全部読んでくれてありがとう。
今後はそんなに長引かないと思うのだけど・・・
いや、長引かせると、破綻するし。きっと。
ご無沙汰の更新をしました。
ずっと気には留めていたのですが、このシリーズを書くにはそれなりにまとまった時間が必要で、ついのびのびになってしまいました。
記憶に刻み込まれていたはずの人間の皮膚の温度が、人形への想いと憧憬によって浸蝕され、彼の頭のなかで「愛すべきものの肌の感覚」は冷たく冷ややかなものへと勝手に修正されてゆく。
爪を紅く彩り、彼をどんなに愛しても、自分の温度が彼の頭(心)の中から失われてしまった以上、「にんげん」にも「ニンギョウ」にもなれない女。
さて、ご希望の「人形目線」ですが、順番でいくと丁度次回になりますね。「例の場面」をやってみましょうか。
さてどうなりますか、おなぐさみ。
>ヨーコ
ようこそいらっしゃい。
一昨年の夏頃から書いているので、結構溜まっていますよ。
お暇なときに、どうぞ漁ってください。
私の文章はたぶんかつての通りの色をして、そしてかつてよりも更に痛みと美しさを増しているはずです。
>IQ.0 さま
キュゥゥってなってくれて有難うございます。
不意にみぞおちを突かれたような、目の前で愛猫が傷つけられたような、あの唐突で残酷な寒さ。
それが何らかの愛を伴うか、もしくは何らかの愛の喪失であれば、なおさら。
無邪気な刃。
こんなにも哀しく、鋭く、諸刃の刃。
>有坂 さま
コメントを本当に有難う。
自分の心が感じたことのある寒さ、痛さ、おののき、ざわめき。
そんな捉えどころのないものを伝えるために、私はことばを使います。感じてください。
どんな感じのコメントでもいいので、これからは気軽に感じたことをこぼしていってね。
若いからこそ持ち得る、そして私の持ち得ない、あるいは失ってしまった言葉が、貴方の中から零れ落ちることがきっとあるでしょう。
そんな言葉を、わたしはとても愛します。