夢中人

sura@cosmic_a

2009年07月25日 | Weblog
ターシャ・テューダーの生活はステキ。
「ターシャ・テューダーの世界」という本を買って、ステキな写真とターシャの言葉を読み返しています。
ターシャ・テューダーの世界―ニューイングランドの四季
ターシャ テューダー,リチャード ブラウン
文藝春秋

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この本を読み返していて思ったんですけど、外国にあるものでステキだなと思ったものは、同じような物が日本にも必ずあるんですよ。
このターシャの生活も日本のどこかにあるはずだ、どこにあるんだろうと思っていたら、みつけました。
それは、「禅」でした。「禅」の生活こそが、ターシャの生活に共通するものでした。

「禅シンプル生活のすすめ」という本を読みました。
その本は、写真はないものの、ターシャの生活に共通することが沢山かかれてありました。
日本には、あの生活が「文化」として根付いていたんですね。
禅、シンプル生活のすすめ (知的生きかた文庫)
枡野 俊明
三笠書房

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この本には、「日本人の理想とする生活。最も美しいとする生活。それは隠遁生活であると言われます。
鳥の声や水の音を聞きながら静かに書物を読む。酒を一人飲みながら、杯に映った月を眺める。
近くに動物がやってくれば一緒に遊ぶ。常に自由な心で、あるがままの姿で生きている。
そういう生活を理想としてきたのです」とありました。
鳥の声や水の音を聞きながら・・・常に自由な心で、あるがままの姿で生きている・・・」まさにターシャの生活と共通するものがあります。
ここにわたしは、「花鳥風月」という言葉を思い浮かべました。
花鳥風月・・・自然の美しい風物。「花鳥」は鑑賞の対象なり、詩歌、絵画などの題材とされる自然の景物の代表としての「花」と「鳥」を意味し、
「風月」は自然の風景の代表としての「風」と「月」を意味し、狭義には「清風」と「明月」をさす。
転じて、そうした自然の風物を鑑賞したり、それらを題材として詩歌、絵画などの創作にあたるなど風雅の遊び、風流韻事をいう。

私は、仏教とは己を知るもの。己を映し出すものだと今の所そう解釈しています。
「禅」とは、仏教の考えを軸において、人間としての豊かさを見出すものなのかなと感じてきました。
ある意味これってイノベーションだったのかな。仏教をみてみると、人間というのは、欲によって生かされているかのようです。
でも、それじゃ苦しい。生きていくのに苦しい。それじゃ嫌だ。もっと生きていくことに前向きになっていきたい。
豊かさを感じたいという気持ちから生まれたのが「禅」か?ちょっとまだわかりませんが、そう感じます。
そしてまた、禅の考えとは「法」でもあったのか。
法・・・決まり。やり方。礼儀。言語学でムード。仏の教え。仏法。仏事。と私の携帯ではでました。
この感じからするとそうじゃないかな。なんというか、国の絶対的決まりではなくて、「流行」でもあったのかもしれませんね。
国が押し付けたわけではなく、生活する人々が「これっていい」と言う感じで敏感に反応して自然に広まっていったものかな。
流行が文化になる。。。発信者はお坊さん。。。「禅」についてはもう少し考えたいです。

でもですよ、「禅」が「法」であって、それが「流行」であるならば、「法」とは生活の中から生まれてくるんですね。
生活する人々の中から生まれてくるんだ。それは「精神」といってもいいのだろうか。
精神・・・1思考や感情の働きをつかさどる心。2物事を成し遂げようとする気力。
3物事をささえる根本的なもの。理念。(理念・・物事がどうあるべきかについての根本的な考え)

やっぱり「法」って「精神」かな。人間が生きていくうえでの決まり事。
先日、メソポタミアに関するDVDを観ていたら「ハンムラビ法典」というのがあった。
当時のメソポタミアはいろんな民族の人たちが集まって暮らしていたみたいです。いわゆる、違う部族同士が一緒に生活していたわけですね。
いろんな価値観の違いもあったにもかかわらず、生活をしていたんだ。そこでは大きな争いごともそんななかったはず。
だって、そこでおおきな文明の発展があったわけですよね。しょっちゅう戦争をやっていたら、文明の発展はないのじゃないかな。
なぜそんな争い事が起きなかったのかと思ってら、「女性の地位が高かったシュメール文化の影響」なんてあったから、女性の地位が高かったせいもあるのかなと思ってみたり、あとなんといっても「決まりごと」つまり「法」がよかったんでしょうね。
「法」というのは、生活の中から生まれてくるものだから、当時のメソポタミアの人々は豊かな生活をしていたのかもしれませんね。
なんだか「法」とは、その国の「精神」が表れるものかもしれないと感じてきた。現代において部族間の争いがあるけれども、あれら無くすには、やはり「法」なのか。
人々の生活から生まれたすばらしい「法」があれらの争いごとを止めるのか。神から与えられた五感でいろんな事を感じ、そして「法」を創り上げる。争いごとが激しくなると日常生活ができなくなってしまう。そうすると、「法」が出来上がらない。

物質的なものをまったくは否定はしないが、「物質的」にではなく「精神的」に豊かな生活を送るということは、よりよい「法」が生まれてくる。
それがよりよい国を創る上での源になるのではないだろうか。そんな風に感じてきた。。。
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