夢中人

sura@cosmic_a

士師記

2011年03月31日 | Weblog
今、旧約聖書の士師記がすごく気になります。
士師記は、モーセの後継者であったヨシュアの死後、イスラエルに諸部族を取りまとめる後継者がいなくて、民達は異教徒の神々を崇拝するようになり、
神は周辺民族を使ってイスラエルの民に懲罰を与えるんです。
それで民達は神に救いを求め、その声を神が聞き、救済者として「士師」を送って民を救うんです。
しかし、太平の世が続くと民は再び神を忘れて堕落し、神の怒り、神が士師を遣わして民を救うというサイクルが幾度も繰り返される時代のお話。
聖書で士師記の時代というのは、紀元前1390年頃にヨシュアが死んでから、紀元前1044年にサウルが初代の王になるまでの約350年間をいうそうです。
この間に神への背信→神のさばき→民の叫び→士師による救いのサイクルが7回も起こったということです。


その時代に登場した「士師=神によってイスラエルの救済者に選ばれた政治的・軍事的指導者」は12人おり、二つのタイプに分けることができる。
それは、「小士師(部族が直面した問題を裁く「裁き人」)」と「大士師(外敵から民を救うカリスマ指導者)」。
その大士師の中にギデオンという人物がいます。
ギデオンは、マナセ族アビエゼル人ヨシュアの子。当時イスラエル人はミデヤン人の圧政に苦しみ、洞窟や洞穴に逃げ込んでいたそうです。
ギデオンもミデヤン人を避けて酒船の中で小麦粉を打っていた時、主の使いが現れて、ミデヤン人からイスラエル人を解放するように召しを受ける。
ギデオンはミデヤン人との戦いに出て行ったが、神は軍隊が多すぎるとして3万2千の軍隊を300に減らされた。

その時の様子を、聖書の中には、こう書かれていました。

ヤハウェはギデオンに言った、「わたしがミニディアン人をその手に渡すには、あなたが率いる軍政勢は多すぎる。
(このままでは)イスラエルはわたしに向かって誇って言うだろう、『自分の手で勝利を得たのだ』と。  
そこで軍勢に呼びかけて言え、
『誰でも恐れおののいている者は帰らせ、 おののきの山から去らせよ』と」。
すると軍勢の中から2万2千人が(自分の町に)帰って行き、1万人が残った。
ヤハウェはギデオンに言った、
「軍勢はまだ多すぎる。あなたは、彼らを水辺に連れ下れ。わたしはそこであなたのために人を試みて選り分け、私がこの者はあなたと共に行くべきだとあなたに言う者が、
あなたと共に行くように。そして、私がこの者はあなたと共に行ってはならないとあなたに言う者は皆、あなたと共に行かせてはならない」。
そこで彼は、軍勢を水辺へと連れ下った。
ヤハウェはギデオンに言った、
「犬が飲むようにして(両手をついて)自分の舌で水をなめた者、そして飲むために両膝をついて跪いた者を全員、その者たちだけを別にせよ」。
片手で水を(すくって)口に運んでなめた者の数は3百人であった。そして、残りの軍勢は、水を飲むためにすべて両足をついて跪いた者である。
ヤハウェはギデオンに言った、
「(片手で)水をなめたこの3百人で、わたしはあなたがたに勝利を得させる。わたしはミディアンをあなたの手に渡す。その他の民は、すべてそれぞれのところに帰らせよ」。
軍勢は(帰還する)民の食料と角笛をそれぞれ手にした。ギデオンはイスラエルの男たちすべてを自分の天幕に送り返し、3百人だけ引き留めた。

 
と、ここまでが旧約聖書の中に書かれてありました。その後、ギデオンは300人を3隊に分け、それぞれに角笛と空壷をもたせて、夜に角笛を吹きながら、空壷を叩き割り、
ミデヤンの陣営を奇襲した。ミデヤンの陣営は混乱に陥り同士討ちが始まって、潰走した。

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この兵士300人がその何百倍もの兵士と戦う話が映画であったよなぁと思い出しました。その映画のタイトルは、「300」。で、その「300」を観てみました。
感想は。。。「すごい!」すごいとしかいいようがありません。勢いが違う。。
聖書の方は、なんていうんでしょう、神の存在が大きいんですよね。まぁ、神に感謝し、その存在を忘れてはいけないということなんでしょうけど、
こぅ。。。神よ、神よって感じなんですよ。
でもこの映画「300」は、神の存在も描かれてありましたが、自分たちの意思なんですよね。自分たちの意思で守っていくんです。
何を守っていくかというと、それは「自由」。
「十戒」は自由を求めていく話だった。「士師記」は自由を守っていく話だ。
聖書では、350年の間に、神への背信→神のさばき→民の叫び→士師による救済というサイクルが7回も繰り返されているとあった。
この話からすると、自由というのは、求め掴んでいくというのは意思と努力でできるのかもしれないけど、それを守り続けるというのは難しいということなんですね。

そこで聖書は、神に願うということをしているんですが、「300」は違う。自分たちで守りぬこうとしている。。。こっちの方がよくないですかね。
まぁ、「神が守ってくれた」という兵士の台詞もあるんですけど、あれは、自分たちの力ではないですか。
「300」の主人公達は、スパルタ人なんですけど、生まれた瞬間から兵士として育っていくわけなんですよ。
「スパルタ」といったら、日本でも存在する言葉ですよね。普通に考えて「超きびしい」ということだと思う。
あの映画からすると、そんな環境で育ってきた兵士達は、いつも緊張感というか志を持っているようなんですが、その周りでは堕落があるようでした。

この「300」映画ですが、お話もすごかったですが、映像もすごかったです。背景はCGで作られているみたいなんですが、空の感じが紀元前を思わせてくれました。
映像を見てるというよりも、絵を見ている感じがありました。あと、巫女的存在の女性が神の声を聞いてるという時、ダンスみたいに体を動かしているんですが、
観てる時は、どういう撮影方法なんだろうと思っていたんですよ。そしたら解説で、水中で撮ったと言ってました。なるほどなぁと思いました。そんな方法があるんですね。
あと、ゲーム的要素もあるんでしょうか。いろんなキャラクターが出てくるんですね。お話もすごかったけど、映像技術もすごいと思う映画でした。

聖書は、いろんな要素があると思うのですが、一つに「自由」についてのお話なんですね。
そう感じました。
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