SpiMelo! -Mie Ogura-Ourkouzounov

L’artiste d’origine Japonaise qui mélange tout sans apriori

先生の目、先生の音

2021-06-06 07:52:00 | Essay-コラム

私は教育ディプロマに全く縁がなくて、気づいたらいつの間にか教えていた、という人なので、この度やっとフランス一級国家器楽教育免許に経験値で準ずるパリ市公認証明を取得した訳けれども、「教え方を教わった」ことが一回もないので、全部自分で手探りでやってきて、自分でやり方を組み立ててきた。


ここのところ、国家教育免許を取得するために若い子が私のクラスで教育実習をしに来てくれていて、最後に実習の締めくくりとしての最終試験(審査員の前で実際に私の生徒に教える実技)の審査員として参加することになった。


審査員、とは言ってももう3ヶ月以上彼女とディスカッションしたり、彼女に私が教えるところを見せるだけでなく、彼女が実際に私の生徒たちに教えるのをサポートしてきたので、試験ではちょっとした板挟みの難しい立場に立たされることになる。


でも、これまで成り行き上出会ったことのなかった「教えることを教える」エキスパートである他の審査員の方たちは、さすがそういう立場を最初から理解してくれていたので、安心して意見を言えたし、その道の専門の意見やディスカッションの仕方を、とても興味深く聞かせて頂いた。


教えている間彼女が一度もフルートを吹かなかったことは、もちろん大きな焦点になった。


レッスン中にフルート吹きまくる、あー、そうじゃないんだよなー、こうしてよね、と説明する前に音が出てしまう私のようなタイプからは想像もつかないのだけれど、演奏せずに口頭で説明するやり方の先生というのは、聞くところによると結構いるみたいで、彼女もそういうタイプらしかった。私も彼女のレッスンを見ていてとても気になって助言したことではあったのだけど、なにせ「母親と住んでいるしコロナが怖いのでフルートは持ってこない」と言われたらそれ以上「でも次は持ってきてね」と言うことも出来なかった。しかし、実技の時にかなり意図的にそうしているようで、せっかく持ってきたフルートもピアノの上にちょこんと置かれたままだったので、あー、これはもっとちゃんとそれについてツッコんでおくべきだったのかも、、、という私の後悔をよそに、そこに全員から早速槍の如く彼女に質問が入った。


彼女の答えは「自分が吹くことで生徒が自分のやったことをマネしたら、生徒の自主性がなくなるから」だった。


あと、彼女は口癖のように毎回生徒に「これはどう思う?」「どうやりたい?」と聞いていて、一度たりとも「こうやったら」「こうしなさい」などという断定的な言い方がなかった。


一見これは、「生徒の意思を尊重している」ように見えるが、果たしてそうだろうか?と言うのがエキスパートさんの意見。実は生徒の自主性という名目で自分が間違ったことを言わないように安全なところに隠れているのではないか?マネされると生徒の自主性がなくなると言うが、そう言うならばフレーズを歌いながら説明したりしている時点で生徒らはもうあなたならこうするという影響を受けている。それならばなぜ、フルートを吹くことのみ拒否するのか?


おー、さすがの鋭いご意見!そっかー、何回か彼女のレッスンを聞いていて、いまいち腑に落ちず、なんか喉につっかえていたのは、そうそう、それだっ!さすがエキスパート!と膝を叩いてしまった。 


彼らエキスパート様たちは完璧に「客観性に終始する」ということに慣れているので、「嫌われてもいいから音出せ!音に耳を浸させろ!」とか「こんな単純な音楽を根掘り葉掘り掘り起こして分析すんじゃねえ、バッハじゃないんだし」とかいう私の主観のみの単細胞コメントに爆笑しまくっていた。


確かに彼女のやり方には、どこかに何らかの自己防衛というか、ブロックがある。自分をマネされては困る、という考えが実は自分自身のコンプレックス、または「間違いたくない」という完璧主義由来の怖さから来ているのだとしたら、、、そのレッスンはいつの日か生徒を同じ種類の不安に陥し入れるかも知れない。


生徒の方はやはり先生の音が聞けないとフラストレーションがたまるのじゃないかなあ、先生の方にどうしても演奏出来ない事情があり、生徒も納得しているケースは別として。


人の音を愛するには、まず自分の音を愛することなのか知らん。


あとは、子供を育てていて特に思うのだけれど、子供には「母親、また父親はこのような人であった」というようなれっきとした「モデル」が必要なんじゃないかな、と。それを元にして、子供はそのようになりたいと思うなり、反面教師にするなり、自由にして行けばいい訳でしょ?もし良かれ悪かれモデルが示されてもいなければ、一体何を基準に「自分の意見」を作ればいいんだろうか。


私は生徒に選択肢が無いことに対して意見を聞くことは意味がないし、もし聞いたとしても、靄がかかってそうな時はこっちから察して、さっとモデルを示すべきだと思う。


そうやってモデルをいっぱいいっぱい示しているうちにどんどん生徒の選べる可能性が増えていくんじゃないかなあ。


教育者だった私の母の言うところの「それぞれの空っぽの箱を満杯にするまでとにかく詰め込め!そしたら各自の創造性は勝手に溢れ出してくる」、これである。


本質はたぶん、演奏した、しなかった、という事よりも、自分はこう考えているから、と自分目線で物事を見てしまっていることだ。自分のアイデアがどうこうより、先ずは相手を見て、相手の可能性を高めることを考える。でもこれには何より先生自身の箱が一杯であること=自分に自信を持ってないと無理だから、本当に若い生徒にはとても難しいことだと思う。


だから若い時は色んな意見を言って、間違っていようが何だろうがどんどん色んな世間の意見とぶつかって行くしかない。色々発言している若きテニスプレイヤーの大坂なおみさんを見ていて思うんだけど、それが出来るこの人はきっと素晴らしい、自信を持った大人になっていくことだろう。


それに比べて、私の知っている範囲でも、自分の固いカラに閉じこもって、何かとぶつかると嫌がり、他の誰の言っていることも内側には本当は何も聞こえていないんじゃないか?と思う若者の、なんと多いことか。


そのような若者の一人に見えた彼女には、密室に一人で入って教える前に、気付く機会が与えられた。私も彼女には逆方向から素晴らしいことに気付かせて貰ったと思う。


その証拠に、この試験が終わった後、あんなに厳しいディベートだったにも関わらず、(この辺本当に、真の客観性を持てるフランス人のディベート力には心底感心させられる)「あなたがちゃんと偽らず自分のやり方を頑固に示したから、あれだけのディベートを巻き起こしたね。おめでとう」と言ったら、彼女は3ヶ月前に知り合ってから初めて、心から私に笑顔を見せてくれた。彼女が心を許してくれた瞬間だったように思う。


それは彼女の未来に差す一筋の光のように見えた。



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