SpiMelo! -Mie Ogura-Ourkouzounov

L’artiste d’origine Japonaise qui mélange tout sans apriori

音楽の纏足

2016-06-09 11:13:29 | Essay-コラム
パリはやっと連日の雨も収まり、セーヌ川の水位も下がってまいりました!て、セーヌ川なんてここ数ヶ月見た事もないけど。。。気持ちのいい初夏の日々。

先日即興アトリエでラテン音楽の一環としてフランス領カリブ海のアンティーユ諸島の音楽をやった。すると、なんだかブラジル音楽なんかより全然簡単にリズムができてしまうので、生徒達もノリノリで楽しそう。すると民族パーカッションのクリストフ先生が面白い話をしてくれた。
「アンティーユ諸島では民族音楽は長年フランスによって禁止されていた。よってブラジルなどの音楽と比較するとリズムもメロディーもずっと単純になってしまった。だから誰にでもやりやすいんだよ」

ブラジル音楽やらアフリカ音楽には、シンコペーションが溢れかえっている。だから慣れてないと、そのシンコペーションの波にすぐに足を掬われて、どこが拍子なのか分からなくなってしまうのだ。
面白い話、シンコペーションがあればあるほど、複雑に発展したルーツの音楽といえる。

それにしてもなんとショッキングなお話。曲がりなりにも自由、平等、友愛を信条とするフランス人が音楽を禁ずるなんて、なんてことを
こういうことは世界各地にあって、例えばオーストラリアでもイギリス人が植民をする際、地元の音楽を子どもからとにかく切り離させたらしい。
今だって、極端な例ですがイスラム国が音楽自体を禁止していますね。
音楽とは実はなにより強大な力を持っていて、政治家やテロリストをも怖がらせるものなのだというとが、よく分かる。

フランスでは昔内地でも、なんとルイ14世などの王制時代、地方の音楽を全て禁止したのだそうな
それはやはり王の絶対支配を浸透させるため、フランス語を絶対言語とするため、土着の音楽は邪魔だったという。なるほどね、だからフランスではケルト系のブルターニュの音楽が残っている程度で、他の民族音楽は非常に弱い、というかほとんど見当たらないのか。は~納得。でもね、フランス語支配圏になると、音楽自体が減っちゃうの
クリストフ「フランス語は歌うのに適した言語じゃないんだ。発音がとても平坦でモノトーンだから。詩や文学を書いたり思考する言語なんだ」
そうか~!!フランス人に言われりゃ納得だな、だからみんな、この国の子どもは歌わないんだ。私、ショックだったんだよね。。。教えはじめたころ。私には歌う事はとても自然なことだから、リズムができない子に「じゃ歌ってみなよ!」といったら、大抵の子が「え~!」って恥ずかしそうに、歌ってくれないんだよな(悲)10年たって、だいぶ私の生徒達は歌うことに慣れてくれたようですが。

でも、3年前から小学校で教え始めて、小学校の子たちは、音楽院(コンセルヴァトワール)にわざわざ音楽を習いに来る子たちよりもずっと自然に「歌っている」という、本末転倒な現実を目にしたのはすごい収穫だった。特に、移民系の子たち。音楽院に来る子なんて、人口のごく一部だから。これって少し勇気づけられる。地元小学校の子たちは、ソルフェージュをやらずにフルートを私のアトリエで直接始める。すると、やっぱりぱっと耳でリズムや音程を「聴いてそのままマネする」という単純ながら一番重要なことができるようになる。もちろん、そのあと楽譜が読めるようになるか、どこまで上達するかはまた別問題だけども。対してコンセルヴァトワールでは、子ども達は楽器を始める時、もはやソルフェージュを事前にやっている。すると、始めてのレッスンのとき、簡単なフレーズを吹いて、はい、まねして歌ってみて、というと、「先生、それは四分音符ですか、二分音符ですか?」と来る

はあ。。。これじゃ、もう音楽を始める前から耳の纏足をされてるのと同じだわ

それでね、私自分の8年前ぐらいから教えてる、なかなか上手な生徒にきいてみた。「どうしてあなたたちはシンコペーションになるとできないの」と。彼女はすごく頭がよくて開けた子だからすぐに答えてくれたよ。「それは、数えてるからだよ。私たちはそう教えられてるから、数えないと、できないんだよ」

でもあのシンコペーションの気持ちよさを数えてるせいで味わえないなんて、人生損してるぞ。アフリカ音楽で、一拍目から入るメロディーをやっててうしろでパーカッションが二拍目に軽くアクセントをつけてシンコペってきたら、その浮遊感たるや、もうやめられない中毒になりそうなぐらい最高です





創造性の玉手箱

2016-06-04 15:06:08 | Essay-コラム
こないだのアタ(夫)との会話。
「音楽院の会議で私の即興アトリエの『即興』という言葉がこわくて生徒を送れない、という先生がいるんで、名前を変えたほうがいいんじゃないか、って話がでたんだけど。」
「怖いも怖くないも、即興は即興だろ」「でも生徒が集まらないと困るし。どうも楽譜を打ち捨てておりゃ~!!という反オーケストラみたいなイメージがあるらしいんだよね、そんなんじゃ全然ないのに」
「じゃソフトに、アトリエ『国境のない音楽』とかにしろよ(笑)」「やめて~、歯が浮く!!気持ち悪いまじめに考えてよ!」「アトリエ『記述か口伝か?』疑問符つけて争点っぽくしたらイダルゴ(現パリ市長)の気に入るぞ」「別にイダルゴのお気に召さなくていいからそういえば左派ってそういう偽善系インテリワードが好きやな。。。逆に右派は単細胞で勇ましいのが好きだよね、立ち上がれフランス、みたいな笑、じゃ、アトリエ『力強い前進』(笑)」
「じゃあメランション(極左)が政権とったら?」「そりゃアトリエ『革命』で決まりやな

脱線いたしました。。。でも政治を笑うの、大~好きだって最近、あの方たち名前を表面的に変えたら世界が変わると思ってらっしゃるみたいなんだもん。主題に戻ると、多分「創造のアトリエ」あたりがいいような気がしている。création、というとクラシックの世界では新曲の初演のみを意味するけど、本来この言葉は自分自身で創り出すものすべてを意味するはず。即興であれ作曲するのであれアレンジするのであれ。。。

ひとつのフレーズにしたって、自分で創りなさい、というと私の生徒たちは必ず目を輝かせる。そういうのに慣れてなくて、え?!出来ないよ~!と言ったとしても必死で考え、感じようとする。そうしないと、創れないもの。与えられた楽譜ばっかり受け身でず~とやらせてても、そういう反応は出て来ないし、音楽をやっていれば絶対必ずどこかでみんな「自分で創る」ことの必要性を感じているはずだ、と私は思っている。作曲は作曲家がするもので、演奏家は演奏をするため日々楽譜を解読し技術を磨け、というベルトコンベア的分業志向はなんかおかしいよ。

うちの母は教育者なのだが、「その子の箱がいっぱいになるまでは有無を言わさず知識を詰め込め。そうすれば創造性はいつか勝手に溢れ出してくる」と言っていた。私もまったくそう思う。うちの子を見ててもそうだった。3カ国の言葉を彼女はずっと産まれたときからそれが当たり前と思って聞いてきて、ある時を境にとつぜん溢れるようにしゃべりはじめた。その箱がいついっぱいになるのか、それは非常に個人差があるみたいで、本当に一概にはいえない。アタなんかギターを遅ればせながら16歳で始めて、始めたと同時に作曲し始めたというのだから、不思議なことに彼の創造性の箱はその時点で満杯になっていたらしい。私の場合は3歳という異常に早い段階で音楽をはじめて、始めての先生のところでは自分の意思ではないが最初から作曲をやらされたので、そういうのは当たり前だとおもっていた。(最初から当たり前、と思わせる教育の、いかに大切なことよ!ありがとう内藤先生)高校ぐらいの時に箱が一杯になったらしく即興したくてたまらまらなくなったのだけど、曲を書く、という意味ではなぜか苦痛で、もっともっと後でちょっとだけ書くようになった。私は思うんだけども、ひとりひとりは創造性の玉手箱なのだ。いつ玉手箱が開くのかと思うと教えるのはかなり楽しい