SpiMelo! -Mie Ogura-Ourkouzounov

L’artiste d’origine Japonaise qui mélange tout sans apriori

フランスの言語教育と音楽教育

2020-05-25 20:47:12 | Essay-コラム

最近学校がずっとなくて、小一の娘の宿題を、先生に頂いたプリントと指示サイトを睨めっこしながら午前中は毎日見なければいけないので、(こういうのはあんまり律儀にやると疲れるので、大体ここまで小一では把握しとけばいいのか、ふんふん、という感じで、毎日のノルマはあまり気にしない)しかし、フランス語、算数、科学など勉強になることばかりだ。

白状すれば、小一の段階だというのに、私が初めて知ったことがやたらに多い。フランス語の女性形男性形(私は大体いっつも適当で、間違えている事が多い)、語彙、文の組み立て方、基本の計算の仕方や立方体の部位。とにかく面倒臭いが、また新鮮である。

特に、「こういう風にフランスでは語学を教えるのか、、、」というのが一番印象的だ。

幼稚園までは全く読み書きの出来ない子が、小学校に入って一年でいきなりすらすらと大体全部読めてしまうし、書くほうだって感動的な進み具合だ。

こないだ、遅ればせの教育免許取得のための教育信念を基にした個人教育プロジェクトを何十ページにも渡ってフランス語で書くのが異常に難しい、とブログに書いた


すったもんだの末書き上げた訳だが、この個人理念を書くにあたって骨格にしたのが、娘が幼稚園の時に学校が配ってくれた「言語教育プログラム」である。こんな一枚のみすぼらしいプリントをなんで捨てずにとっておいたのかと言うと、ぱっと見て最初に書いてあったことにピンときたからだ。以下/

幼稚園で行う言語教育。

言語の根源的認識→

言語における全ての次元を揺り動かす

→口述でのランゲージの刺激

→徐々に記述文化の世界へと進入  云々

ほらー、やっぱり言語教育は耳と行動が先と明記してある。同じ国がどうして音楽ではこういう風にしないのかな?と甚だ疑問に思ったのだった。

だってフランスの音楽院って、楽器を初めて触る前にソルフェージュ2年やらせてるよ?

それって子供にテキスト渡して、お友達とお喋りするのは文字が読めるようになるまでお預けね!って言ってるのと同じでないのか?

それとも、いや、音楽は言語習得の順序とは違うのだ。と言えるだけの確固とした理由でもあるのか?

楽器を始める時に楽譜が読めた方が上達が早い。もしそういう論理が裏にあるのだとしたら、現場で教えるものとして、それはウソだ、と言いたい。子供達は楽器を通して楽譜を読む、という似て非なる方法に二重に慣れ直さなけれればならない。そこで、明らかに楽器と音楽、楽譜の間に、距離感が出来てしまう。私たち楽器の先生は、音楽に直接関わる以前に、その不自然な距離を埋めることに必死にならざるを得ないのだ。

具体的には、子供は「習っていないこと」=「できない」と認識するようになる。もともと備わっているはずの発想や応用力、自己解決力を、信じなくなってしまうのだ。

なんか、日本の外国語教育そっくりである。

フランス語に話を戻す。

小一のフランス語のテキストでは、先ず「音」ありきで、それを次に綴りに置き換える。そのあと正しく出来るようになる度、それぞれのレベルで「読解」ならびに「作文」がある。習った単語や文を基に、自分で短いストーリーを作るのだ。そういう課題がサンドイッチ的に出てくる。子供は頭を捻って創造力を掻き立てなければならない。一番大変で一番楽しそうだ。

そういえば、私の小学校のころも、忘れもしない、詩を作ってこい、という宿題があった。どうしても何を書いていいか分からない、と駄々を捏ねていた私を、祖母は出来るまで出てくるな、と部屋に閉じ込めてしまった。すると危機を感じた私はなんと10分ですらすらと詩が書けてしまったのである。

この時の体験は強烈で、私はこの時ばあちゃんから学んだのだ。「創作へのインスピレーションとは、何処かへ夢探しに行くことではない。それは、今、ここに、私の中にあるのだ。」

例によって話が逸れた。

しかし音楽教育にこれを置き換えると、「読解」ばっかりで「作文」や「作詩」がすっぽり抜け落ちているのが気になる。

「読解」とは読んで意味を探ること、それは毎回先生に出される曲を読んでいくことで、大抵みんなやっているだろう。(深く行間読みが出来ているのかはともかく。)しかし音楽界の作文である「作曲」、もしくは口頭で書かずにスピーチさせることに当たるであろう「即興」をなんで最初からやらせないのだろう?(日本では、個人的には私は作曲を最初からやらされた。しかしフランスでは殆ど見た事がない)

こういう教育がいつから始まったのかよく知らないけど、みんな、楽譜っていうのは何か知らんけど全能で、床の間の置き物みたいに敬うもので、ひたすら従ってきてある時「あれ?なんか足りなくない?」ってなるんじゃないかな。やはり人間は足りないものは感じて欲するものだ。

この間木ノ脇道元さんがご自身のブログで言っておられたように、ここで「闊達さの欠如」を埋めるための「体験的即興授業」(!)が登場するわけだが、うーん、子供の頃から一回も作文やスピーチしてきてなくて、ここで仕方なく体験するというのは、いささか不自然な感じがする。

もちろん個人差があるし、遅く体験する、それ自体が悪いわけじゃないけど、やはり初等音楽教育として最初から色んな次元での教育をやるほうがどう考えてもずーっとしっくりくる。読譜は色んな音楽の次元のうちのひとつのはずだ。言語教育においてはすべての次元を揺り動かすべき、ってちゃんと言ってたじゃん?

それに、楽譜とは本来、世界中の膨大な音楽を知る手掛かりとなる、また他者とコミニュケーションを簡単にとれる偉大な人類の発明したツールなのである。

本来希望として捉えるはずの、譜面のその巨大な広がりを、逆に自由を縛るものと捉えてしまうことの、なんと残念なことだろう。

しかも、最悪なことには、アメリカンアクション映画みたいに「楽譜」vs 「即興」みたいに二極化対立させてしまう。

音楽教育がなぜ限定された謂わゆる悪い意味での「クラシック」枠で、(いや、うちはジャズもやってますー、とかいう人も実際には現代ヨーロッパ的な読譜方向でやっている) しかも「読譜」という意味の持つ広い意味を考えることもなく、自分から見える一方だけからの見方で固まって、全くヨーロッパ外世界や他の時代を忘れた教育になるのかと言うと、自分が密室で教わってきた通りのことを鵜呑みにして、密室でそのまんま今度は自分の生徒に教えてしまっているからなのか?

世代を超えて、各家庭の悪い習慣を親が子供に伝えてしまうのと似ていなくもない。

誰だって自分の非を認め改めるのはきつい事だしね。

今日、坂本龍一さんの記事を読んで共感したんだけど、音楽は、人間が創り出しているにもかかわらず、人間がなにか力を加える(選別しようとしたり、創る側が、何ものかの力になろうとしたり、必要になろうとする意図を加える)と、もうそこに音楽はいなくなってしまう。だから坂本さんは芸術とは単に芸術であり、人間の身勝手な「必要」でなくてこそ「芸術」になり得るのだ、と言っていらっしゃるのだろう。

昔、サイモンラトルが「音楽とは手に入れて捕まえようとするとすっと逃げてるしまう。いつも目の端にちょっと映っているものである」という趣旨のことを言っていたと思う。

現在のフランスは、音楽教育を私たちの「必要」に応じて民主化、画一化、利便化、論理化しようとして、何らかの力を加えた故に、大切なものを失ってしまったのだろうか。

不ぞろいの果実

2020-05-15 23:45:07 | Essay-コラム

外禁中に作った生徒のアンサンブル動画が、話題を呼んでなんとパリ市のサイトに出ることになってしまった。
  と いうのも4月4日に予定していたクラスのバッハのコンサートが流れてしまって、せっかく一番小さい子までみんな各自のパートを完成まで持ち込んでいたの で、(一回目のリハが月曜からの閉校令前の週末だったので、まだやることも出来たんだけど、キャンセルしたんだった。今考えると、キャンセルして本当に良 かったと思う)この状況ならレッスンなしでの動画コンサートも夢じゃないかも?と思い立った。

  前ブログにも書いた通り、クリックやメトロノームやアプリを使わず、全編耳だけで手作りした。

  ご覧のとおり、「不ぞろいな果実」という言葉がぴったりなほど、レベルに差がある生徒達。

でも、どんな生徒に対しても、リズムや音程に対しては、私は妥協しないつもりだ。
それこそが音楽の命だからである。
音楽の命を無視して、自分自身を表現する、なんて絶対にあり得ない。

音楽を教える、特に即興を教えるのは、時にサリバン先生になっているような気分になる。

目と耳の不自由なレンケラーが流れている井戸から流れ出て来る水を手に取っているところで「水、水!」と一生懸命手のなかに「水!水!」と綴っている、あれである。

 音 楽が流れ出してきたところで、「それ、それだー!!今やってることだ!君には音楽ができるんだ!」と分からせることが私の仕事だ。音楽が自然と自分を媒体 として流れ出してきた、その瞬間をしっかりと自覚させ、自分にはできるのだ、自分は音楽の源泉となりうるのだ、という自信。その自信こそが私が生徒に伝え たいものである。

こないだなんて、フルートをやっている娘が「ここから書いてある5つ の音で好きなフレーズを作りましょう」といきなり空っぽ五線がメソードに現れて「、、、わたし、音符がないとこは、出来ない。」と固まっているのを見て、 「うげー!即興に抵抗感が出来るかどうかの人生の帰路に立っているぞ!おい即興先生、腕の見せどころやんか、どうしよ?!」と思って、速攻お気に入りのフクロウのぬいぐる みを持ってきて、「Mちゃーん。ぼく、この5つの音が大好きなんだ!僕に、なんか発明して、聴かせてよー!」ってお願いさせたら、なんと発明して吹いてく れたので、「わー、僕、その音楽大好き!ぼく、Mちゃんが発明したものが、一番好き!もっと吹いてー」って言ったら、毎日フクロウさんに作って聴かせてあ げているので、即興先生、危機脱出!(笑)

話が逸れた。

機会をとらえて自信さえ付けられれば、私たちはなんと不揃いで、不完全で、音楽のsource(源泉)を開かせるために、それぞれが音楽というものに対して、最大限の努力を払わなければいければいけないことも、相対的に受け入れられるのではと思う。

前に、チックコリアとゲイリーバートンのデュオが互いの個性を引き出す天衣無縫なコンサートを聴きに行ったとき、また
キースジャレットのソロコンサートに行ったときも、キースが調子が悪くてもがき苦しむ様子を目の当たりにして、不完全さ、欠点こそが音楽のスパイスであり、原動力であり、偉大な人はこれをよく分かっている、と書いた事がある。

完 璧であることイコールよい音楽家、と思う風潮がある。コンクールで優劣を着けることがこの考え方の最たる現れだ。自分の耳で聴く事を拒否している人たちは、コンクールの結果を基準に演奏を聴く。だれよりも綺麗に、大きく美しい音で弾け ること。そこには、ポジティブな方向での評価しかなく、ネガティブな方向性が抜け落ちている。だいたい綺麗な音、とか、なにを基準に言っているのか、私は昔から甚だ分からない。もちろんテクニックの水準が高いことは、音楽をする上でとて も大事なことだし、楽器が上手くなっていく過程では、試験などでの評価も必要だ。楽器にはやはり、確実にレベル、というものが存在するのも事実である。

 だけど、私の人生のなかで、この単純な評価基準とは違う、音楽そのものを教えられた人がいた。ニコレと、インド音楽のムタルだ。

 ニコレとムタルは、高い技術は前提として、その上ではっきり言う事ができた。「あなたが今この瞬間にやっているのは、音楽ではない」と。このような抽象的な事実を聴き分け伝えられる人が、いったいどのぐらいいるのだろう。

 私にとって、そのふたりに「あなたが今やった、それこそが音楽だ」と言われた瞬間と、「今あなたがやったことは音楽ではない」という瞬間の感覚、その二つこそが私の生涯の基準になっている。

 ま た、純粋に技術的には、「いまやっている、それをやるのだ!」という基準をくれたのはソフィーシェリエである。私はどんな音楽をやっているときも、彼女の くれた基本に立ち返る。何を演奏しようと絶対にそこから乖離しないように。その日のレッスンの様子がいまでも、昨日のようによみがえる。その日のレッスン がなければ、自由に表現のできるほどの基礎を持った私はいなかった。基礎があるほど自由になれる。基礎があれば、どこにでも好きな所にいける。

ただし、それには自由とは何かを知らねばならない。

自分がどこに行きたいのか、知らねばならない。

それは長い旅だ。

音楽と技術は裏表一体だ。

長所と欠点も一体だ。

内側と外側。

ポジティブとネガティブ。

それを演奏できる、また教えられる人になりたい、なんてヒマな今考えている。

一番最初の、多度津のピアノ、フルート、作曲全部教えてくれた内藤先生が、なんとオープンで研究熱心で、面白い先生だったことだろうか。

先生が教えたことが、長い旅に耐えうる個性の舟になったことは確実で、

この舟がなければ、何か変わったことをしたい、変わっている方がいい、または個性的になりたい、逆に普通になりたい、など自分が思い込んでいる既成を基準に判断してしまい、ひいては自分の外側になにものかを探しに行くことなので、アートにとっては危険だ。

彼女はひとりひとりの不揃いさを不揃いのまま成長させられた稀な先生だ。

 私にはリズミックなタッチのもの、民族もの、フランスバロック、ポリリズミックや複調などの現代物、バルトーク、ドビュッシー、バッハなど、音が不揃いで自由に変形していて、複合的な意味合いを持つ音楽をたくさん与えてくれた。

  私は、この動画のバッハの「音楽の捧げもの」が好きだ。
  バッ ハが、限定された王の提示するテーマに対して、1時間以上の音楽をいろんな角度から創った。残された書かれた音楽以外に、王の前で演奏した膨大な即興が あったことも推測される。その贈り物は、最後「無限のカノン」という曲で結ばれる。それは限定されたものから無限への創造の象徴だ。

  この蟹カノンな んて、1億万回左からやっても右からやっても飽きることがない。複合的で、有機的で多面的で超自然的とでも言おうか、この小さなミクロコスモスの中に、全 ての営みが入っている。演奏する度に違う感覚が出てくるに任せられる。子供達の演奏は現に、感じるままにひとりひとりが毎回違った表情を引き出してくれ る。


  いまのところ、この不ぞろいな果実たちと再会できるのは、9月からということだ。