SpiMelo! -Mie Ogura-Ourkouzounov

L’artiste d’origine Japonaise qui mélange tout sans apriori

個と集合的記憶

2021-11-25 09:30:00 | Essay-コラム
最近、娘の一番のお友達、スリランカ人のRちゃんのおじいちゃんが亡くなった。


それで週末の公園遊びも楽器のレッスンもなし、学校も一週間休んで喪に服すのがスリランカの慣わしなのだ、とRちゃんは言う。大抵パリの人だと、最低お葬式の日ぐらいは学校休んでも、習い事なんかはそんなことより「子供の学業優先」で行かせ、各週のルーチンを極力壊さない、こんな感じが現代のスタンダードに思える。


どっちの方が良いのか?どちらの子供が幸せか。現代の感覚では「子供の個を大切にする」という思想から、スリランカ派はかなり引けをとっているようだ。


ではスリランカ派の観点とは何か?それは個より「集合的記憶」に重点を置いているのではないか。それは文化という昔から培ってきた風習であり、家族が単位となるので、子供の人権、といった「個」の感覚は薄れる。


対してフランスでは「個」の権利がすべての風習を凌駕する。


フランスの人権教育は素晴らしく前進的で、小学校から叩き込まれる「権利」と「平等」の教育は脱帽ものだ。うちの娘が小学校の習字()で真っ先に書いたのは「自由」という言葉である。徹底的に「自分というものについて言葉で表現すること」、「権利を自身で主張すること」を教えられる。そうしないと基本フランス社会では存在価値が認められないからだ。


では次に違った視点で書いてみる。


スリランカの子供はこの「喪に服す」機会を強制的に家族から与えられることにより、学業は遅れても、結果的に「死」にきちんと向き合う事ができる。


もしかしたら日々の習い事ルーチンに疲れて、ただ日々を回すことで精一杯の子たちより、また自分の権利主張に忙しく、実は何も自分で判断できていない大人たちより、無の時間の中で何かを感ることで、感性が豊かに育つかもしれない。


「集団的記憶」が「個」を破壊する危険と同じように、「個」に余りにも執着すると

温かい、人類が培ってきた遺伝子の中にある感性を忘れてしまうような気がしてならない。


話は飛ぶが、最近音楽院の即興アトリエに私の母校パリ国立高等音楽院ジャズ科の生徒さんが、「即興」についての教育免許を取得するために聴講生として来ている。


私はパリ音楽院にいたので、大体授業を聴きながら、若い彼女が感じていることが手にとるように分かった。



彼女が求めているのは「ジャズ」や「どこどこの国の民族音楽」などの既成のスタイルに即した即興教育ではなく、自由即興そのものなのだろうと。


あのフランス最高位とされる学校では、「スタイル」=「既成」という見方が多数派だったように思う。


だから「個」の立場で新しいものを「発見」「発明」し「既成の文化」に立ち向かう。なるほど今考えれば、なんともフランス的な思想ではないか。


だから大抵ジャズなどの持つ「即興スタイル」は「個」の発明を妨げるものとして、邪魔者扱いされる。


私が「ジャズ」を題材にした授業をしているときにその聴講生が「いっつも「曲」を題材に即興を教えているのかしら?」って聞いてきたから、「そうでもないのよ。次回は自由即興を今年初めて、久々にやるから楽しみにしてて」という事になった。


別に彼女にリクエストされた、ということでないんだけど、彼女の深層心理を通し、私自身が久々にそこに立ち返ってみたくなった、ということでやってみた自由即興セッション。結論からいうともう、最高に楽しかった。


教室に入ってきた子供たちにまず、「今日は、これまでやってきたこととね、全く逆のことをするのよ。あなたたち、どういう音を出したら先生に怒られる?そういう音を出してみて」と言ったらもう、みんなめちゃくちゃ大興奮!!楽器をバラして変な音を探す子あり、床に寝っ転がって金管のベルを床につけたりと、錚々たる発明が数分のうちにずらーーーっ笑!!


私がフルートでスラップをやると、「わーっ!!石が水に落ちてるみたいな音!」ってパーカッションを叩いて大応酬!もう大喜び!!


海岸に寝てる姿勢で演奏して。ここはパリだけれど、海の音が聞こえる。聞こえてくるまで静かに、静かにして。このセッションでは、やっと何もしない「静けさ」がいかに音楽を掻き立てるか、を感じてもらえたのではないか。だいたい、いっつもなんかをやってて、いっつも何か喋ってて、空間がないから、疲れてなにも出来ないんだよな。


思春期の子達には「今日はどんな感じ?」って言ったら「すっごい疲れてるーー」っていつも通りのダルい返事だから「いいわよ、今日は疲れてるならそれでオッケー。疲れた姿勢で疲れてる音をそのまま出してみぃ!」って言って、わざと成り行きに任せた長い即興セッションをやると、なんと途中から自然にすごい音楽が生きてきた。疲れてるとは思えないほど内からでてくるエネルギーで、びっくりした。


思うに「いつも同じ形」に授業を持っていかず、作って来たものを一度ぶち壊してみる、教室をいつもと違う配置にする、(椅子や譜面台を隠す、怪しい楽器を置いておく、など笑毎回、決まった曜日の時間のルーチンであっても、ルーチンを感じさせずに脳を揺さぶることが私の望むところだ。


_このやり方では、私自身に壁や思い込みがあることが許されないので、常に自分を更新することが必要になる。私にとって立ち向かうべきものとは「既成のもの」ではなく、自分自身の心の中にある固まった価値観だ_


で、自由即興で個人の感覚を全開にした後、先週やっていたジャズのとある曲をやったら、生徒たちも私自身も、全く違う音、違うアプローチで新鮮に即興出来た。


ここで冒頭のスリランカの話に戻りたいと思う。


私にとってはジャズや民族音楽は「既成のスタイル」ではなく、死に向き合うスリランカ人のような、それぞれの文化の「集合的記憶」である。


だから西洋でよく言うように「イディオム即興=既成即興」対「非イディオム即興=自由即興」などとカテ分けすることを好まない。


現在と過去、新しい発明と培ってきた文化の間に一線を引いて一体何を得るのだろうか。


この自由即興のセッションが成功したのは、その前に「集合的記憶」に向き合い、難しくとも必死で習得しようとしたからで、そこに「個」の感覚を唐突に提案したことが、本来の自由への突破口になったからではないか。


実際にスリランカのRちゃんに音楽を教えると、なんとも言えない「渇きを癒す」とでもいうような食いつきを示す。毎回なんの不自由もなく熱心な親に連れられレッスンに来ている子供たちが、私の言っていることを全然覚えないのに。


覚えないのは頭が悪いからではない。実は興味がないからだ。


私は「集合的記憶」と「個」は高い次元で両立出来ると思っている。互いに反発するものと捉えるべきではないのではないと。人類の脈々とした遺伝子の記憶に繋がればこそ、そこに圧倒的な「個」が産まれるのではと思っている。


Ps 日本にいながらパリと繋がる計画、第一弾

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様々な音楽スタイルの即興アドリブ講座、またフランススタイルでのフルートレッスン、フランス留学を目指している方日本人唯一のパリ市フルート科並びに即興科教授、ミエ・ウルクズノフがご要望にお答えいたします。このブログまで、お気軽に先ずはご相談、お問い合わせ下さい。