SpiMelo! -Mie Ogura-Ourkouzounov

L’artiste d’origine Japonaise qui mélange tout sans apriori

原点、日本人アーチスト。

2015-07-22 13:57:35 | Essay-コラム
ドイツでのコンサートから帰ってきました~。このドイツの小さな町でのコンサートは、私たちにとって思い出深いものとなった。というのは、一歳9ヶ月の娘が、初めて客席で聴いていたんですね。(ママ~!とか言わないか心配でしたが)すると、演奏のエネルギーが普段の倍も3倍にもなるような気がしたんです。。。しかも、演奏の前、休憩中など、娘の世話をしなければならないので「今日の音は。。。」とか、「アノ曲のあそこの部分が、、、」とか低次元などうでもいいこと(とは分かっていても絶対考えてしまう)を考えずにすんで、演奏するために単純に演奏できるのが、ほんとにすごい。やっぱり子供は親を助けるために存在するのね。感謝です。有り難う

ところで今日のコラム、どうしてこういうタイトルなのかというと。。。じゃ~ん!日野皓正さんの演奏を聴いてしまったからなのです!!
なんで今さら。。。というほど有名な方であることは承知の上なのですが。。。
本当に、素晴らしい~
この感動はなんぞや。。。と記憶をなぞってみると、それはマイルスの最後のバンドにいた赤城ケイさんのエレキピアノの演奏であった。

日本音楽を専門にやっている音楽家でないかぎり、クラシックやジャズなど、その本場の地に日本人が行くと「現地語」に圧倒され、まずは自分を見失ってしまうのが普通なんじゃないかしら。というか、他の人はどう心の底で思っているのか知る余地もないが、私はまったくそうだった。パリに来た頃なんて、あののだめちゃんにそっくりの路頭の迷い方だったもの。それから「日本人として、外国の音楽をやる」という意味について、イヤという程、考えさせられる。たぶん、日本で相撲界にいる、外国人力士たちのように。http://blog.goo.ne.jp/cieuxstage/e/40743c556c4c9af069bbd3aef77f7888

そして、それに対する私が個人的に思う答えとは、例えばヒノテルさんや赤城さんような演奏だ、と断言できる。この人たちは、骨の髄までジャズを知り尽くしている。。。現地で学んだことによって。そして、誤解を恐れないで言うなら、その上で日本人として演奏している。音楽に人種なんて関係ないだろう、という人もいるかも知れない。もちろん、それも一理あり、演奏とは個人の感性だ。でも、私にとって、このふたりの演奏は、日本人の感性なくしては絶対にあり得ない、と思うなにかが、ある。それが根っこから私の感性をゆさぶる。それはたぶん、タイム感覚なんだと思う。西洋と日本では、明らかに時間の感じ方が違う。昔師のニコレもよく私に言っていた。西洋の時間は矢のように始めから終わりに向かって進むが、日本ではそれは丸く続いているのだと。。。私も、ヨーロッパに住めば住むほど、その感覚の違いを感じるようになった。違いというのは痛みでもある。自分のものではない文化を尊重するが故に感じる、自分とは違うんだ、という痛み。。。でもその痛みを知ってこそ、次の次元のもっと深い表現へと進めるのかも知れない。

私は音楽では、その表面の言語がなんであるかは重要でなく、その言語を使ってなにを表現しているのか、なんだと思う。ただし、完璧な言語がしゃべれなければ、表現もありえない。だから、逆説的に、音楽においては言語(スタイル)が一番大切だとも言えるね。

今日はなんか難しい話になっちゃいました~。とにかくみなさん日野テルさんと赤城さんの演奏、聴いてください