SpiMelo! -Mie Ogura-Ourkouzounov

L’artiste d’origine Japonaise qui mélange tout sans apriori

日本語とフランス語

2020-01-18 00:47:35 | Essay-コラム

Ghosn est dedans!

実はかなり若い教え始めた頃に、一級教免を最終審査でしくじっていて、(フランスには音楽を教える為の各楽器専門の免許があるが、取得は困難を極める)
運が悪いことに、私がしくじった回を最後に、誰でも受けられる外部コンクールが廃止されてしまって、それ以来学校という枠の単位取得でしか取得出来なくなってしまった。

そ の時もう人生は先に進み始めていて、教育免許のためわざわざ学校に後戻りして入るような暇もお金もなく、ひたすら職を探すうちにこうして無事教授の席に受 かったから、時々ちくりちくりと「キミは免状がねぇ」とイヤミを言っていた学長も、そのうち忘れて言わなくなり、もう記憶の彼方の忘れ物状態となっていた 免状。

しかし!今回諸事情により、(どんな事情や!)意を決して「経験に準ずる一級免許」というのを取得を目指すことにした。これならパリ市庁舎で、学校外コンクールを受けることが出来る!

もう経験があるから、多分口頭試験は、多少練習すれば大丈夫とは思うけど、その前に、自分の教育理念を何十ページにもわたって書かなければならず、これがもう、めっためたに難しい。

それで思い知った事なのだけど、書くときにどうしても「日本語からの訳」になってしまう。

そ れで気付くのは、日本語とはなんと、詩的なものや、感情的な色合いを文に織り込む言語なのだろう、ということだ。フランス語でむやみにこういう日本語的な 書き方をすると、必ず「重い」「回りくどい」「明快じゃない」の三重苦、酷いときには「何が言いたいのか全然分からない」となる。ま、いまに知った事では なく、私のフランス語の書き方がマズイことは19区音楽院内でも有名で(苦笑)、一度、木管楽器部門の主任を決めるときに(注・主任は仕事が増えるので、 みんなたらい回し笑)、「ミエなんて適任じゃないか?」って振られて、「いや、でもほらさー、私がメールで会議内容書いてみんなに送っても、なに言ってる のかよく分かんないでしょ?」って言うと「そーだねー笑」って思いっきり納得された経緯まである。

話はそれたが、何が悪いかって、これまで私が音楽だけに生き、読み物は完全に趣味の世界なので日本語のみ。まーったくフランス語の本などを読んで来なかったことである。フランス語読むのは最低限の、学校の書類やメールとか、読まないと生きていけないヤバいもののみ。

そういう蓄積のない人が、いくら基本文法を知ってるからって、本物のフランス語が書けるわけがない。

ホンモノのシェフたるものが美味しいレストランを何千軒も食べ歩き、音楽学生が何千回のコンサートに足を運んで耳を傾けてなければ、ホンモノの音楽家になれないのと一緒である。
(Youtubeでちょろっと検索して色々聴くのとは違いますよー。それでいいじゃんって思ってるのなら、それはファストフードとちゃんとしたレストランの味の違いが分からないのと同じだ。)

またまた脱線。しかし、「ホンモノ」を聴かせる、たくさんたくさん染み込ませる。これこそが私の教育理念なので、これを如何にフランス語で表現出来るか、そこに全てがかかっている。

フランス語は絶対に熱くなったらいけない言語。
直接的感情的表現を入れてしまえば、必ず読んでる方は引く。
こいつは大したことない、または学のない人物だ、と判断される。
熱く書きたければ、クールなインテリ言葉に置き換えて、かつフランス語的な機微を駆使した言い回しにしないといけない。
それでこそ、相手を論破し自分を認めさせられるのだ。

そ うやってフランス語の言い回しを突き詰めて考えるようになると、日本語は説明文やニュース記事の文などでさえも、極めて詩的要素が強いと思う。それは楽し く美しく、独創的だ。ただ、明快な説明が必要な場面では、他の諸言語との差がかなりのハンデになるだろうことは、私の経験から見ても明らかだ。

ゴーンの件でも、すごくそれを感じる。これは酷い事件だけど、国際的にきちんと日本の考え方を感情的にではなく戦略的に表明し、また開いた意識の中で、頑なさから脱却できるであろうとてもいい機会だと思うんですが。

Ghosn est dedans
私はフランス語、学びますよーこれから自分なりにね。娘が小1なので、一緒に文法ぜんぶ一からやり直せるし。読み聞かせでどんどん色んな文章を吸収することも出来る。シンデレラ、ぐらいならフランス語の分厚い本を開ける勇気のない私にもハードルが低い。

Ghosn n'est pas dans le frigo
で もね、日本語のイマジネーティヴな部分。これってほんと深いと思う。武満の楽曲のタイトルとか、まったく訳不可能なほど美しいでしょ。そして、あの音楽。 明らかにその言語の思考回路じゃないと書けない音楽。親友Pさんが送ってきてくれた「系図」という曲、初めて聴いたんだけど、もう自分のスタイルとか、ど う見られたいだの、自分はどうこうしたいだの、そういう諸々の邪気を全部超越して、原始の感覚さえ見えてくる。最近75歳になったチックコリアの演奏にも 共通するのだけど、もうここまでくると「トイレに行く」ほどの努力もしてらっしゃらないように、見えるね。

パリの小学校では生徒たちが 「私がー、私が先!」って我先にと吹きたがる、喋りたがる生徒たちに、「おいおい!お前ら我、我、我、モワ、モワー!ばっかり言うて!私の生まれた国じゃ あ我が、我がとしゃしゃり出るのは最低と言われているのだよ」って堪忍袋の緒を切らして言うと、「えーーー!!!なにそれほんとーー???なん で〜???」だってさ笑。
流石「我思う、故に我あり」の国。
こう言う場面に出会うと、フランス人の「我々暴走」を客観視させるために、日本人教授がいるのも良いよなあ、と思う。笑

因みに、こないだのゼネストの時「先生、明日ストをされないんですか?」
って言うから「あーた、何その質問。レッスン来たくないだけだったりして笑」とか冗談言ってたらまじめな顔で「いいえ、先生、ここは民主主義の国なのです!自分の意見を表明して下さい!」だって。これ中学生だよ。

フランス語とは「我」とは誰で「我」が何を思うのか。それを美しく明瞭に表明するために捧げられた言語なのだ。