SpiMelo! -Mie Ogura-Ourkouzounov

L’artiste d’origine Japonaise qui mélange tout sans apriori

卵が壁に勝つ瞬間。

2019-06-29 09:55:00 | Essay-コラム

June 29, 2018


19区より臨むエッフェル塔。 7年前のブログと同じ場所より撮影。

 

この度パリ19区音楽院の私の生徒、翼ちゃんが最高の結果(審査員の賞賛付き全員一致)でプロディプロマを獲得致しました!!めでたい〜!!この結果が私 にとって大きな意味を持つのは、ただ自分の生徒がパリ市全域で一番だった、という単純な喜びではない。この結果には二つの大事なファクターが含まれてい る。


119区などの市立の区ごとにある音楽院はパリ地方国立音楽院(CRR)から下に見られているにも関わらず、翼ちゃんはその生徒たちを超えてしまった。結果だけでなく、音楽的に超えていた。


 リ地方国立と我々区の音楽院はスペシャリーゼ(プロ養成課程)で連携して規則上同じ土俵に立っている筈なのに、なぜか差別を受けている訳である。理由とし てパリ地方国立の錚々たるスター教授のネームヴァリューがある。そのネームヴァリューに惹かれてこれといった音楽的共感が無くとも留学にくる日本人が後を 絶たない。そして満足したレッスンが受けられなかったとしても「有名だから」という理由だけでそのまま貴重な留学時間を無駄に費やしてしまう人だって少なからずいる。


2 フランス(特にパリ)ではフルートはフランスのお家芸と認識されている(確かに錚々たる系譜、タファネル=ゴーベール=モイーズ=ランパル=パユ etc. )ので日本人などのアジア人が進出することはとても微妙な感情を与えるらしい。(今回の場合、先生も生徒も共に日本人なので特に)この辺は7年前に書いたブログを読 んでほしい。(リンクを間違えていたので修正しました)パリではヘイトに対してとても厳しい取り締まりと高い意識があるので、そう滅多に面と向かってアジア人だからと悪口雑言を叩きつけられること はない(あっ約一名おるわ。。。イニシャルも書けん汗)

ただし、やはりそれでもパリ市唯一のフルート日本人教授である私にとって、アジア人の躍進がこの分野であまり歓迎されてないのは肌で感じる。


もう分かっていただけたでしょうか。。。今回の結果は、これらの馬鹿馬鹿しい権力、僻み、偏見、それらが作り出す強固なシステムに「音楽」そのものが勝った瞬間だったのです!


勿論音楽が分かる、良心的で才能のある審査員が運良く来ていたことだって事実。一人でも物分かりの悪い審査員がいたら結果なんてどうなるか分かったもんじゃないから、私は結果なんて信じない。


ただ、今回の翼ちゃんの内側から出て来た、愛に溢れる音楽が扉を開いたことは、ずっと忘れられないと思う。


19区のみんなが、一丸となって翼ちゃんに愛を注いだからこそ、翼ちゃんが「この人たちのために演奏しよう」と思ってくれたのだと思う。

 

村上春樹氏の言葉を借りれば、「卵」が「壁」に勝ったのだ。


あーいい日だ〜!!こういうご褒美もたまにはあっていいよねー。最近、素晴らしいエネルギーが、また素晴らしいエネルギーを引き寄せているのを感じる。これからが楽しみー!!


距離と葛藤

2019-06-25 07:16:00 | Essay-コラム

June 25, 2019


最近音楽への距離の取り方が随分と下手になってきたなぁと、、、逆に言えば、前まで音楽と自分の距離ってものの実感や葛藤さえなかったなぁと思う。

 

ペー ターさんたちのブルガリア音楽洗礼、その後自分から出てきたそのまんまの音楽を作曲編曲して、それを全力投球で聴衆も巻き込んでインプロ演奏するという 「スパイラルメロディ」経験のそのすぐ後、ロシア人でかつかなりインテリなデニソフの音楽を演奏したことで、それは明らかになってしまった。

 

ここまで自分の内側と外側なものを演奏したらそりゃあ当然か?!

インプロヴィゼーションと純粋な楽曲解釈、という決定的な違いもあるし。

 

 方「なんか、急に音楽との距離が明確になってきたね。こないだ自分のライブでは中に入り過ぎじゃないかって言ったけど、その逆。まあでもデニソフの音楽で 中に入り込むのって、気狂いじゃないと無理さ。それにそう言うのが音に出ると言うことはあんたが音楽に対して正直な態度を持っているということさ」

(例によって褒めてんのか貶してんのかまったく理解不能な分析)

 

とにかく一生分もうデニソフは演奏しましたって感じ。私をよく知ってる人には「合ってないね」って言われました。そうだねー、だって真面目だもん。でもフルートとピアノのソナタは実は割と好きだったよ。

聴きにきた人に人気があったのは、ずーっと後に書かれたフルートソロ、、、ずっとコンテンポラリーなブーレーズ風に書かれている、、、だったけど、私はこれぞロシアじゃ!!ていう古臭いロシアンルーツ丸出しの初期のソナタの方が好きだなあ。とは言え私の軽量級の音ではこういう重々しい表現は難しいし、デニソフの言いたいことが表現できてない感じがしてひどい欲求不満に陥いったけど。

 

 ンプロ、と言えばソロ曲を演奏する前にデニソフの娘さん(二人いるうちの一人)が「この曲は色々な奏法を使って書かれており、インプロヴィゼーションのよ うに聞こえます」と説明して、演奏の直前だったので「どっひゃー!そりゃえらいこっちゃ!」と思いっきり調子が狂っちゃって、ほんまに音違うのばっかり吹 いておかしなインプロになっちゃったじゃないかっ!やったことない人が「インプロみたいに」とか軽々しく言うのやめて頂きたい、、、相方曰く「インプロ ヴィゼーションと作曲は全く違った音楽創造の過程あって、混同してはいけない。どちらも最高のレベルに達したときのみ比較できる余地はあるかもしれない が、安易にそれっぽく聴こえるだの聴こえたいだの言うのはたわ言だ」と。

 

まーったく同感!

 

時には相方ええこと言うやん!!

 

でもまあ、どっちかしかやったことのない人にとっては、混同するのも仕方ないか。これは外人なんか見たこともないばーちゃんが私が上京するとき「最近ようけガイジンが東京におるでなぁ、気いつけよ!」って言っていたのと同じぐらい罪がないのだろうか。

 

 のインプロビゼーションのこと。音楽院は今学年末なので来年度の企画に入っているのだが、学長先生より「これこれの生徒は来年度はインプロのアトリエだけ やっていてもダメだ。オケも両方やらなければならない」というお達しがあった。えーっと、、アンサンブルの授業って、ひとつのみ選択で良かったはずですよ ねー?これが逆だったら「君はオケだけやっていていいと思っているのか。インプロもやりなさい」とはならないだろうから、デレック・ベイリーさんの言う通 り、インプロさんはやはり誤解されてオプション扱いにされ、被害を被っている。(デレクさんのインプロヴィゼーションという本、また読み返してるけど、ほ んと最高!今度はフランス語版を買ってぜひ読破したいと思っている。)

 

 ういう時は「いやー、この子は「才能が」ありますからねー、両方やるの理想ですよねぇ」なーんて言うと、彼の顔が苦虫を嚙み潰した系になってきて楽しい。 なんでこれがイヤミなのか? それはなんと「才能」という言葉は「音楽院の民主化」「格差平等」を謳うシステム側に大変嫌われる言葉だからである。「才能」とは、システムにとっては脅 威なのだ。この間も私の生徒の中で一番才能のある子供が、中学の音楽科に「才能がありすぎる」という理由で落とされたばかりだ。私はもちろんそんな馬鹿馬 鹿しい組織に1センチでも加担したく無いので、速攻で5年間歴任してきた音楽科辞任。さぁ、これからは本当の才能を育てようじゃないか。

 

 れと最近、パリ国立高等音楽院の卒業試験でも聴いたし、パリ管の人たちがやるのも聴いたのだけれど、民族音楽を、いかにも和気あいあい風に、それっぽく演 奏するのが流行らしい。彼ら彼女らは完璧な楽器技術を持っているし、なんでも暗譜出来るから、そんなの簡単に出来る。その上に音楽の希薄さをカバーするよ うなコンテンポラリーダンス、映像などとの安易で表面的なコラボなんかやれば、もっと流行最先端だ。そこには葛藤もなけれ泥臭さもない、キレイに無菌化さ れている。インプロの奥深さも文化解釈の難しさも無かったことにされたように、それはまるで観光に行った時に買う美しいポストカードを見ているようだ。

 

そんな色々を見聞きしていると、苦しくても、まだ葛藤してて良かった、と思う。


壁と卵の永遠の戦い

2019-06-01 07:20:00 | Essay-コラム

July 1, 2019

希望にあふれる子どものメッセージ。

 

まったく世界というのは人種間の争いに見せかけて、実は「システム」と「個人」の戦いに尽きるのではないかと思う。

 

 

システム=壁とは国家、宗教、学校、集落、家族その他全て人間によって作られた、集まりのことだ。

 

それはもちろんなくてはならないものでもある。

 

卵とは、一番壊れやすい薄いカラに包まれただけの一個人。

 

自分の子どものことは愛しているのに、システムの名目によって他の子どもは空爆して死んでもよい、というのはどういうことだろう。

 

 、野依博士というノーベル化学賞受賞の博士の記事を読んで深く共感した。このようにクリアーでインテリジェンス溢れる意見を真っ向からシステムに突きつけられ るというのは、氏が世界トップの科学者でおられることが、これだけ分析的で圧倒的に実情を暴けられる力になるのだろう。素晴らしいのは氏がはっきりと科学 の役割、芸術の役割を客観的に見てそれらが潜在的にどのような力を持つのかに言及しておられることだ。

 

彼ははっきりとカネ持ちと権力者になるための教育をしてはいけないといっている。

 

なぜか?それはシステムを増強する教育だからだ。

 

彼は精神的にシステムから抜け出すことができ、世界を俯瞰してこのようにはっきりとしたヴィジョンを述べているが、我々はシステムの中にいて、それらを客観的に見る力をなくしているのではないだろうか?

 

日々権力と妥協するだけに走り回っていないだろうか?

 

善意からであれ悪意からであれ、必然的に人間がシステムを作り出すのだから、システムのない世界は考えられない。しかしシステム自体が意思を作り出すと、システムを作り出したはずの人間の個人個人を殺してしまう。

 

なぜシステムが意思を持ち強大になり独り歩きするのか?それは権力欲と言う名の悪意、自分はシステムの名の下に人を どのように扱っても許されるという大いなる勘違い、そして自分の側からしか物事を判断できない、偏見という悪意。

 

一つのものを盲目的に狂信することは簡単で、多様性を認めることは難しい。

 

たとえ音楽を良くしたいから、という名目があったとしても、人間個人に対する善意が持てないのなら、やはりそれは音楽を殺す。なぜなら音楽とは骨董品でもなんでもなく、人間から出て来るエネルギーそのものだからだ。

 

音楽、と言う言葉を社会、と置き換えてもぴったりだ。

 

もっともらしい言葉を並べた名目に惑わされてはいけない。

 

大人になった側が子供側の感覚を理解しようとしないのも大いなる偏見のひとつだ。

この世界は大人と子供、両方の感性があって成り立っている。子供側には大人に刃向える力がないのだから、大人が子供の感性を無視すれば、そこはもう民主主義と謳っていたとしても独裁社会だと思う。

 

即興家デレク・ベイリーさんの本に面白い事が書いてあった。「子供は基本的に全てに反抗的なので、それが子供の精神をまもっている。大人はもっともらしいセオリーは全て信じてしまう。だから大人の方がもっと危ないのだ」と。

 

子供は決してセオリーから物事を学ばない。

すると我々はなぜ、逆のやり方で子供を征服しようとするのか?

この文章はどれだけ子供が我々の失った力を持っているのか、如実に表していると思う。

 

音楽的にはこれまでの人生でやりたかった事を全力で集約してきた一年だった。

 

でも、それだけでは足りない。

私はいつか、この馬鹿げたシステムを自分の力で抜けださなければならない。

今度こそピュアに自分の力で、だ。

 

私は卵側にたつ。

 

いつも勝てるとは限らなくても。

 

私たちが思わなければならないのは、産まれてきた命を守りたい、と言う感覚だけだ。

 

今こそ自分の力が試される。

 

自分の力が高まってきたからこそ感じる閉塞感なのだと信じて、

無力感の中に、本当にやらなければならないことを、今見出している。