SpiMelo! -Mie Ogura-Ourkouzounov

L’artiste d’origine Japonaise qui mélange tout sans apriori

静寂の街

2020-04-29 18:42:06 | Essay-コラム
外出禁止中ですが、診察などでたまに自転車で外出した時のパリの様子が、あまりにも心を掴まれるものだったので、写真に収めました。


20区と19区の境界からエッフェル塔を望む



ベルヴィルのごみごみした下町も、軒並み閉店のシャッターが並ぶ。物資を届けるトラックのみ往来している。


からっぽのカフェと、羽を伸ばしているように見える街路樹



貯水池のフェンスを登る黒猫



うちの通り



うちの下で売られているアフリカ柄の手作りマスク






建物の下の仕立て屋さんが密かにマスクを制作販売中だった



三日月


がらんとしたパリ外縁トラムウェイ



閉鎖された公園



病院前のバス停とアフリカ系女性のマスク姿



こんなに空が青い



20区の丘から見たポンピドーセンター



誰もいない通りに太陽が反射する



雨の匂いがするパリ外縁で犬の散歩をするパリジェンヌ



ライブハウスのある通り



雨の日



担任の先生の窓におかれた宿題箱


3月25日19時半、パリ中の教会の鐘が誰もいない春の夕暮れの街に鳴り響く。







窓の中から

2020-04-23 18:15:44 | Essay-コラム

Paris, un enfant qui va à l'école avec son oiesau (Paysage imaginaire par ta fenêtre)
パリ、小鳥と一緒に学校に行く子供 (宿題「窓から想像する風景」より)

最近のことなのでこの閉塞した感覚をよく覚えているのだけど、前回のフランス大統領選で、私達の前にたった二つの極端な選択肢しかなかった。

1、血も涙もない金を稼ぐためだけのグローバリゼーション

2、それに対抗するように見せかけた内向主義、国粋主義

絶望したくなるような選択肢ではあったが、国民の多くは仕方なく1を選んだ。

何故かというと、多分2の方が歴史的に非があることをやはりフランス人が学んでいたからだ。教育とは素晴らしい。対して1はそのうち壁にぶち当たるのが見え透いているが、今のところ敷かれている線路にそのまま乗って現状を続けるしかなかったから。

世界中を経済という名の元に右へ倣えさせ、富むものはさらに富み、貧しきものから搾取することでそのままに留まるように硬直させる。それが現在のグローバリゼーションではないか。

柔軟性のない利益追求のみの単一的グローバリゼーションは、差異を共感し多様性を内包するインターナショナルな世界と似て非なるもの。

人間が持つ(もしくは自然の持つ)揺らぎのある、しかし本当の意味で正確なパルスと、機械のクリックの整合性も、似て非なるもの。

私はこれまでもソロでループペダルを使ってコンサートする時も、コロナ外禁になってから生徒のアンサンブル動画を作る時も、一回もクリックやメトロノームを使った事がない。

ループペダルなんて、本来なら主要機能であろうクリック点滅機能とかトラック同期機能とか、はなから全部オフにしている。

で、録音スパンをなるべく大きくとって、(一小節とかじゃなく、とても長く)その中で揺らぎが出て、その揺らぎに耳で合わせるように演奏する。

これでも、本来のの正確なパルスとはほど遠い。

ジャズや民族音楽をやっていると痛感するのだけど、パルスとは一拍一拍を相手の呼吸を聞きながらその瞬間で創造していくものである。だいたい、呼吸以外のなにかの物に合わせて、ポイントポイントで合わせる、という事自体間違っている。

生徒とこの間アンサンブル動画を作った時も、指揮画面に自分の演奏を薄くバックに入れて送った。

クリックがないこのやり方だと、最後の方に送ってくればくるほど合わなくなってくるので、最後の方の人はそのすぐ前に撮った人の動画を送って一緒に吹いて貰うようにした。

だから最近外禁クリックアンサンブル動画をたくさん見ている中で、たまたまパリ管が実際のコンサートで演奏した牧神の映像がシェアされているのを見て、圧倒的な揺らぎに感動した。(フランソワグザビエ・ロット、というパリ音時代から知っている人の指揮だった)普段パリ管なんて身近すぎるせいかあんまり聴きに行ったこともなかったのに。ドビュッシーの音楽には独特の揺らぎがある。フランス人の合わせ方って、本当に他の合わせ方と違っていて、面白いと思う。それは日本人の合わせ方の独自性ほど強烈だ。こういう独自性って、本当に深い。

しかし、こういうテクノロジーが逆に、多義性を深めているのも、今の時代の面白いところだ。

画面分割コラボの、文脈のない関連性と、文脈のある関連性、窓同士の相関性。

外出出来なくなって面識のないもの同士のコラボが画面分割によって実現する。

その窓の中にいると何故かその人の感覚が実に丸出しになってしまうことで、丸出しになると、これが本当に多彩な見方、感じ方を呼び起こし、世界はそれほど単純ではなかったことに気づかせてくれている。

窓の中が実体がなく仮面なもの。強権だと思っていたものが実際には実体がなく、何かに寄生してしか生きて行けないものだった、とか。

コラボされたほうも、これまでの全体的に付随されていたイメージだけでなく、コラボされる事によって違った角度からの意見、イメージが出てきたり、どんどん多義的になっていく。

映画の画面分割手法について何かの記事で読んだのだけれど、この窓同士の相互関係の裏にどれだけの文脈を付着するかで、解釈が変わってくるのだという。それもとても面白かった。なるほど!

実体とは、実は私たちの想像力によって変わってしまうものなのかも知れない。

いずれにせよ、誰かに操作されたイメージでなく、家にいることで一人一人が自分のイメージを作ることがやっと許された感がある。我々はみんな「窓の中」にいるのだ。

もしかして、クリック機能を多用しながら、クリック機能のない世界の幕開けになるのだろうか。

変わる世界

2020-04-19 02:36:59 | Essay-コラム

我が家は、外出禁止になっても、表面上そんなに普段と変わらない。
教える仕事とコンサートがない以外は。(大きい違いではあるけれど)

というのは、だいたい生来の作曲家の相方が超のつく出不精で、仕事がなければランニングと買物以外外に出ない、というまるで外出禁止を絵に描いたような人間だし、
私は人と演奏することが何より好きでフルートを選んだけど、自分で黙々と何かを創作して籠ることも好きという両面テープのような人間だから。
娘も私たちに似ていて、黙々と絵を描いたりフルートを吹いたり、レゴを作ったりしている。

もちろん、こういう風に平静なのは、私たちがふたりとも給料が保障されているからこそであって、これが明日の生活も不安なような経済状態だったら、絶対にそういう風には感じないと思う。事実日本に帰ってフリーランスの音楽家となり、自分で事業を立ち上げた生徒たちや古くからの友人が苦境に陥っているのを見ると、本当に悲しく、そのような状況に陥れたものにたいして、どうしようもない怒りが湧いて来る。

あとは、家族がいてお互いの世話を焼くからこそ得体の知れない不安に襲われないわけで、もしこれがひとりだったら、きっとこの外出禁止は全くちがったものになっていただろう。

だから、フランスという国や家族形態を選ぶ選ばないに関わらず、自分の意思と運命が混ざり合って、この場所そしてこの家族なのだ、と確認させられる毎日だ。

家にいてニュースをネットで見て、世界の動向に怒ったり喜んだりして、(驚くべきほど、自分がそこにいないというのに日本のことは本当に痛い。でも、痛みや怒り、悲しみという感情も、湧き出てくるのであれば出し切らなければと思う。そこがやはり私の生まれた地で私の根っこなのだ)窓から季節の移り変わりを感じ、子供の日々の成長に驚く。相方がコロナ(らしきもの)にかかる。検査はないので、分からない。2週間看病、そしてゆっくり治癒する。建物に住む何人かの住人がコロナ(らしきもの)にかかる。生徒にむけてYouTubeのレッスン動画やアンサンブル動画を編纂する。やれることだけ、する。食べて、寝る。ただ感じるものが通り過ぎるのにまかせる。世界が大きく変わりつつあるのを、見つめる。

答えが出るわけはない。いつも自分なりの答えをいつも探してきたつもりだったけど、今の状況ですごいのは、誰にも答えが分からない、ということではないだろうか。世界中の経済の価値観が覆され、権力が揺らぎ、これまで声を殺して来た多くの人が声を上げている。一見みんながいろんなものを批判しているように見えるし、それぞれの意見がどれだけ違うのか、明らかになってきている。まとめられず、多重的である。(良いことだ!これまでは、いつだって両極端で、しかも都合の良い答えが誰かによって用意されていたじゃないか。)それは家から出られずに、自分と向き合うことを余儀なくされているからでもあるし、なにより社会的弱者をどのように権力が見殺しにできるのか、ウイルスがあぶり出しているからだろう。これまで隠されていた人となりが、見ようとしていなかった醜悪さが噴出してくる。自分だってそうだ。外出禁止なんて、一日中自分を覗きこんで観察しているようなものだから。

どれだけ現代人が既成の価値観に合わせ、批判を恐れ、すべてをただ傍観してきただけだったのか。ホーキング博士がジョークで言った言葉「この地球上に知的生物なんか、いるんですか?」やはりこのような人は、自分を一番上とは見ていないんだ。これこそ本当の知性ではないだろうか。

ウイルスは挑戦している。そしてコロナ後の新世界は、(これからこういうどんどん人類より強いものが代わる代わるやって来る新世代がやってくるのかも知れない)どうなっていくのだろう。

時間がない、ないという前提で行動していたのが、時間が「ある」前提で行動するようになった。

子供が生まれてからというもの、ニコレの教えに反して本もちゃんと読む時間がなかったじゃないか。

昨日、非常に論理的に時勢を分析された西谷修さんというフランス哲学者の記事に大変共感し、彼が翻訳したフランスの先人たちがどれほど先見の明を持っていたかを知って、新しく哲学の本を読む気になった。

幾重にも折り重なった都市の騒音、耳を圧迫していた重苦しい圧力が気づくとなくなっている。

窓からの景色を毎日逐一細かにみる。

パリの空がこんなに青くて、あまりに窓から遠くまではっきり見えるので、自分の目がよくなったのかと思った。

パリ中の教会の鐘が誰もいない空っぽの美しい春の夕暮れの都市に響き渡った時、来てから27年経つけど、こんなに美しい街だとと感じた事は一回もなかった。

毎日20時には医療関係者を労ってみんなが窓から拍手するのだけど、こんなに一体化しているフランス人達を見た事も一度もなかった。いっつも対立してるか、他人に不関心だったのに。

フランス人がマスクをしているのも27年目で初めて見た。西洋人にとって口を隠すということは相当苦痛らしく、あんなにマスクのアジア人を笑っていたのに。

日本人が、多数で恐れずに批判して、なんとあの無感覚の首相の意見をひとつひっくりかえした(続けようじゃないか!!)

逼迫した状況はこんなに短期間に、個々のこれまでの習慣、考え方を180度変えてしまう。

外出禁止が解かれたとき、どのような世界が待っているのか。現代社会は経済発展という名のもとに閉塞しきっていたから、きっとなんらかの動きや風穴が出て来ているに違いない!

もしかしたらもっと違う音楽だって出て来るだろう。

動きとは、すなわち生だ。どんな想像できないことが待っているにせよ、生き残った私が、(このまま生き残れれば)冒険の一歩を踏み出す日までに、まだ家でやるべきことがいっぱいある、もう見られなくなるかもしれない美しい空を眺めながら。

ラジオからは先日コロナで亡くなった、リーコニッツのアルトがかかっている。
なんて素晴らしい創造的な音楽家だったんだろう!