Paris, un enfant qui va à l'école avec son oiesau (Paysage imaginaire par ta fenêtre)
パリ、小鳥と一緒に学校に行く子供 (宿題「窓から想像する風景」より)
最近のことなのでこの閉塞した感覚をよく覚えているのだけど、前回のフランス大統領選で、私達の前にたった二つの極端な選択肢しかなかった。
1、血も涙もない金を稼ぐためだけのグローバリゼーション
2、それに対抗するように見せかけた内向主義、国粋主義
絶望したくなるような選択肢ではあったが、国民の多くは仕方なく1を選んだ。
何故かというと、多分2の方が歴史的に非があることをやはりフランス人が学んでいたからだ。教育とは素晴らしい。対して1はそのうち壁にぶち当たるのが見え透いているが、今のところ敷かれている線路にそのまま乗って現状を続けるしかなかったから。
世界中を経済という名の元に右へ倣えさせ、富むものはさらに富み、貧しきものから搾取することでそのままに留まるように硬直させる。それが現在のグローバリゼーションではないか。
柔軟性のない利益追求のみの単一的グローバリゼーションは、差異を共感し多様性を内包するインターナショナルな世界と似て非なるもの。
人間が持つ(もしくは自然の持つ)揺らぎのある、しかし本当の意味で正確なパルスと、機械のクリックの整合性も、似て非なるもの。
私はこれまでもソロでループペダルを使ってコンサートする時も、コロナ外禁になってから生徒のアンサンブル動画を作る時も、一回もクリックやメトロノームを使った事がない。
ループペダルなんて、本来なら主要機能であろうクリック点滅機能とかトラック同期機能とか、はなから全部オフにしている。
で、録音スパンをなるべく大きくとって、(一小節とかじゃなく、とても長く)その中で揺らぎが出て、その揺らぎに耳で合わせるように演奏する。
これでも、本来のの正確なパルスとはほど遠い。
ジャズや民族音楽をやっていると痛感するのだけど、パルスとは一拍一拍を相手の呼吸を聞きながらその瞬間で創造していくものである。だいたい、呼吸以外のなにかの物に合わせて、ポイントポイントで合わせる、という事自体間違っている。
生徒とこの間アンサンブル動画を作った時も、指揮画面に自分の演奏を薄くバックに入れて送った。
クリックがないこのやり方だと、最後の方に送ってくればくるほど合わなくなってくるので、最後の方の人はそのすぐ前に撮った人の動画を送って一緒に吹いて貰うようにした。
だから最近外禁クリックアンサンブル動画をたくさん見ている中で、たまたまパリ管が実際のコンサートで演奏した牧神の映像がシェアされているのを見て、圧倒的な揺らぎに感動した。(フランソワグザビエ・ロット、というパリ音時代から知っている人の指揮だった)普段パリ管なんて身近すぎるせいかあんまり聴きに行ったこともなかったのに。ドビュッシーの音楽には独特の揺らぎがある。フランス人の合わせ方って、本当に他の合わせ方と違っていて、面白いと思う。それは日本人の合わせ方の独自性ほど強烈だ。こういう独自性って、本当に深い。
しかし、こういうテクノロジーが逆に、多義性を深めているのも、今の時代の面白いところだ。
画面分割コラボの、文脈のない関連性と、文脈のある関連性、窓同士の相関性。
外出出来なくなって面識のないもの同士のコラボが画面分割によって実現する。
その窓の中にいると何故かその人の感覚が実に丸出しになってしまうことで、丸出しになると、これが本当に多彩な見方、感じ方を呼び起こし、世界はそれほど単純ではなかったことに気づかせてくれている。
窓の中が実体がなく仮面なもの。強権だと思っていたものが実際には実体がなく、何かに寄生してしか生きて行けないものだった、とか。
コラボされたほうも、これまでの全体的に付随されていたイメージだけでなく、コラボされる事によって違った角度からの意見、イメージが出てきたり、どんどん多義的になっていく。
映画の画面分割手法について何かの記事で読んだのだけれど、この窓同士の相互関係の裏にどれだけの文脈を付着するかで、解釈が変わってくるのだという。それもとても面白かった。なるほど!
実体とは、実は私たちの想像力によって変わってしまうものなのかも知れない。
いずれにせよ、誰かに操作されたイメージでなく、家にいることで一人一人が自分のイメージを作ることがやっと許された感がある。我々はみんな「窓の中」にいるのだ。
もしかして、クリック機能を多用しながら、クリック機能のない世界の幕開けになるのだろうか。