SpiMelo! -Mie Ogura-Ourkouzounov

L’artiste d’origine Japonaise qui mélange tout sans apriori

天職と自然

2023-06-20 10:16:00 | Essay-コラム

バスティーユ広場の上にかかる飛行機雲。


私の多大な信頼を置く管楽器専門の歯医者さんが6月に退職を迎えるというので、ここ数ヶ月は何年間も溜まっていた(管楽器奏者にとって歯は命なのに。歯医者さんすみません!)治療を一気にまとめてしてもらっている。


「ほんとう集中的に色んなところ治しましたよね、ここ数ヶ月」と言うと、の歯医者さんは、「ひとつひとつはちょっとしたことに見えるだろう?でもかなりな仕事だよ。全部の歯をインプラントにしてシステマティックにまっさらにするのは簡単だよ。でもそういう一律なことをすると後で内部でやっかいな問題が起きたりする。どうしてだと思う?それはやっぱり自然を再現してないからさ。自然に逆らわない、これほど難しいことはないよ。自然に近づくことこそ仕事だよな」


「そういえばキース・ジャレットも「鳥はとても上手く歌う、でも自分がなんの音階を歌っているのか知らない」って言ってますね。要するに私たちが鳥たちのように自然に音楽を演奏したいなら、音階の名前を習うと言うような表面をシステム化したやり方じゃなく、それを自然に出来るようになるオーガニックなやり方を見つけよ、とそういうことじゃないですかね。」


「そう、自然ほどシンプルに見せて複雑なものはないということだね。それを表現するのは至難の業なんだ。」


全く違う職業についていながら、行き着くところは全く同じ。


私たちはそれぞれの天職を通して自然を学んでいるのだろうか。


ジョン・コルトレーンの即興は四方八方に複雑に伸びた枝の複雑さを内包しているが、遠くから見るとシンプルな一本の大木のようだ。


それがどれほどの鍛錬と苦労の後に造られたものなのかは、私たちはよく知っている。


前にデュオで演奏させていただいていたピアノの大家、マリーカトリーヌ・ジローさんも「(楽曲の解釈で)、ちょっとでも1ミリでも何処かを大袈裟にしてご覧なさい、もうそれでお終いよ。」と言っていたのも印象に残っている。


私たちのエゴで自然を歪曲して、一部を誇張させることだけでも、それは真実から遠のいてしまう、それを肝に銘じるような言葉だった。


だからどんなに面倒でも、ひとつひとつのケースバイケースで、自然を勘で見極めながら進んでいくしかないと思う。


この歯医者さんの手つき、麻酔の打ち方、器具の扱い方、診察の時間の使い方、言葉の使い方に至るまで、一挙一動が長年の勘により研ぎ澄まされて的確で、無駄がなく、患者をリラックス安心させ、痛みを注意深く避け、その時々で出来る最大の効果を引き出している。



この間はフルート教育国家試験の審査員をした時思ったのだけど、やっぱり人間って正解が欲しいがため、固定化されたものに頼ってしまいがち。素晴らしいアイデアでさえも、少しの放漫さですぐに、そのアイデアは主義化、形骸化し、自然の真実から遠ざかってしまう。


混ぜるな危険!先入観に任せたカテゴリー化、感覚を無視した言語化、なんとか主義とかいって多数派を作って操作しようとするデマゴギー、そういうエゴから発した尤もらしい顔したデリカシーに欠ける発想。


指揮者サイモン・ラトルの言葉


「音楽とは常に横目で見ていると存在しているが、それを掴もうとするとさっと逃げてしまう」



掴もうとする、というのは物事を管理しようとするっていうことなのかな。横目でみる、その意味はきっと、物事をなるがまま、自然の落ち着く場所に居させること。私たちが苦労して培う勘はそのためにある。私と歯医者さんは全く違う職業にいて、きっと同じ考え方を共有しているのだろう。


勘を冴えさせるためにも、経験値からくる溜まった埃は、きちんと掃除しておかなければと思う。ホコリってなんだ?あー、家と一緒だ。早速掃除しようっと()


現代版のおとぎ話

2023-06-05 15:36:00 | Concert Memories-コンサート旅行記

アートの材料は何も物質的な材料である必要はないわけで。


彼にとってはそれは人の感情でも、音でも、人工知能でも、テクノロジーでも、エネルギーでも、何だっていいのだ。。。



今回参加させていただいたプロジェクト、フランスで飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍されているアーチスト、Charlie Aubry の「思い出の交響曲」




今回、彼が目をつけた材料はなんと「老人たちの記憶」。私たちプロフェッショナルの音楽家が即興演奏によりそれを揺り起こし、その音楽にインスパイアされて老人たちが絵を描き、その絵を今度は音楽院に持って行って、子供たちがそれを楽譜と見立てて即興演奏をするという、三重構造の末に出てきた音が素材となっている。



それはそれだけでは芸術とは呼べないモノだけど、彼の手にかかると、それは真っ暗な船の中で、美しいアートに変貌した。



老人たちが描いた絵を「楽譜」に見立て子供たちが即興


そのようにして出来上がった記憶の音たちを、シャルリーが変換器にかけてミックスする


それは、まるで現代版のおとぎ話のように私には見えた。そこは現代のアリスの不思議の国。記憶と音と光と闇の交差する異世界。


L’installation sonore « Symphonie des souvenirs » est ouvert (entée libre!) jusqu’au 2 Juillet A la pop 61 quai de la Seine 75019 Paris


今日、多様性が叫ばれているけど、それを飛び越えて繋げられる本物のキャパを持った人は少ない。コラボ、とか言って表面や建前でやって、結果全然芸術的に評価できないものが多い。


しかしシャルリーさんはそれを見事にやってのける。人間の多様性は彼にとってアートの材料の宝庫のようだ。空を飛びながらひょいひょいっとそれらを見つけて繋げてしまう。




今、世の中はグローバリゼーションにより、私たちは伝統を喪い、肥大したテクノロジーの奴隷になって、根っこのない綿毛のように、溢れる多様性の中をふらふらと彷徨っている。



そういう時代に、それを悲観するでもなく、楽観するでもなく、逆にそれ自体を全部飲み込んでアートで表現してしまうという、私が身をもって戦って来たこの課題に肩透かしの答えを与えるかのような、その発想力に最初は圧倒された。


しかし、彼の仕事に関わる中で、私に出来る役割があることが分かってきた。それは個人個人の素材を最大限に引き出す現場での作業__それには、これまでの長い経験で培った勘が役に立った。


老人たち音楽院の子供たちを人間的に理解し、音楽的に即興で自分をできる限り出させる。瞬間瞬間のフィーリングをキャッチし、かつ各自のエゴに傾きすぎないよう、グループ内での関係性を細かく修正する。


Générations(世代)を音にTisser(編み込む)する、というプロジェクトの核心、まさしく音に生命力を編み込む作業だった。



空を飛び回ることはシャルリーに任せて、シャルリーは私に地下で繋げる作業を任せる、この辺の呼吸がピッタリと合った。


最初は手探りで始まった現場だったのだけれど、数ヶ月にわたるセッションの後、先日ファイルコンサートで、子供たちが初めて老人たちに直に出会って、目の前で彼らの絵を即興で音に表したとき、彼らの間に深い交流が芽生えたのが分かった。これには、このプロジェクトに関わった全ての人たちが感慨を覚えたと思う。



老人ホームコンサートのひとこま

そして何よりそのあと、今年初めての、どこまでも青空の突き抜ける夏日に、船上で自分達を即興という表現で解放した時の子供たちの清々しい表情といったら!自由即興とは、こんなに素晴らしいものだったのか、と逆に私が教えられたほど、忘れられない瞬間だった。





子供たちの最高の笑顔の写真がこのプロジェクトの成功を何より象徴しているのだけれど、肖像権の関係でここでお見せできないのが残念!






この日はパリで数百というイベントが行われるnuit blanche(白夜)と呼ばれる特別な日だったのだけれど、前衛船ラ・ポップ船内作品展示の我々のオープニングコンサートは、なんとル・モンド紙推薦イベントのベスト10に選出されたのだそうな。


私の中で、まさしく伝統から現代への変換の過渡期に出会ったシャルリー。


またこれからも絶対一緒にやろう!シャルリーとはそう約束して別れたのでした。



左がシャルリー・オブリーさん。To be continue!

では、ここまで読んでくださった方に特別に、音楽院の子供たちの即興セッションの一部を公開いたします。