バスティーユ広場の上にかかる飛行機雲。
私の多大な信頼を置く管楽器専門の歯医者さんが6月に退職を迎えるというので、ここ数ヶ月は何年間も溜まっていた(管楽器奏者にとって歯は命なのに。歯医者さんすみません!)治療を一気にまとめてしてもらっている。
「ほんとう集中的に色んなところ治しましたよね、ここ数ヶ月」と言うと、の歯医者さんは、「ひとつひとつはちょっとしたことに見えるだろう?でもかなりな仕事だよ。全部の歯をインプラントにしてシステマティックにまっさらにするのは簡単だよ。でもそういう一律なことをすると後で内部でやっかいな問題が起きたりする。どうしてだと思う?それはやっぱり自然を再現してないからさ。自然に逆らわない、これほど難しいことはないよ。自然に近づくことこそ仕事だよな」
「そういえばキース・ジャレットも「鳥はとても上手く歌う、でも自分がなんの音階を歌っているのか知らない」って言ってますね。要するに私たちが鳥たちのように自然に音楽を演奏したいなら、音階の名前を習うと言うような表面をシステム化したやり方じゃなく、それを自然に出来るようになるオーガニックなやり方を見つけよ、とそういうことじゃないですかね。」
「そう、自然ほどシンプルに見せて複雑なものはないということだね。それを表現するのは至難の業なんだ。」
全く違う職業についていながら、行き着くところは全く同じ。
私たちはそれぞれの天職を通して自然を学んでいるのだろうか。
ジョン・コルトレーンの即興は四方八方に複雑に伸びた枝の複雑さを内包しているが、遠くから見るとシンプルな一本の大木のようだ。
それがどれほどの鍛錬と苦労の後に造られたものなのかは、私たちはよく知っている。
前にデュオで演奏させていただいていたピアノの大家、マリーカトリーヌ・ジローさんも「(楽曲の解釈で)、ちょっとでも1ミリでも何処かを大袈裟にしてご覧なさい、もうそれでお終いよ。」と言っていたのも印象に残っている。
私たちのエゴで自然を歪曲して、一部を誇張させることだけでも、それは真実から遠のいてしまう、それを肝に銘じるような言葉だった。
だからどんなに面倒でも、ひとつひとつのケースバイケースで、自然を勘で見極めながら進んでいくしかないと思う。
この歯医者さんの手つき、麻酔の打ち方、器具の扱い方、診察の時間の使い方、言葉の使い方に至るまで、一挙一動が長年の勘により研ぎ澄まされて的確で、無駄がなく、患者をリラックス安心させ、痛みを注意深く避け、その時々で出来る最大の効果を引き出している。
この間はフルート教育国家試験の審査員をした時思ったのだけど、やっぱり人間って正解が欲しいがため、固定化されたものに頼ってしまいがち。素晴らしいアイデアでさえも、少しの放漫さですぐに、そのアイデアは主義化、形骸化し、自然の真実から遠ざかってしまう。
混ぜるな危険!先入観に任せたカテゴリー化、感覚を無視した言語化、なんとか主義とかいって多数派を作って操作しようとするデマゴギー、そういうエゴから発した尤もらしい顔したデリカシーに欠ける発想。
指揮者サイモン・ラトルの言葉
「音楽とは常に横目で見ていると存在しているが、それを掴もうとするとさっと逃げてしまう」
掴もうとする、というのは物事を管理しようとするっていうことなのかな。横目でみる、その意味はきっと、物事をなるがまま、自然の落ち着く場所に居させること。私たちが苦労して培う勘はそのためにある。私と歯医者さんは全く違う職業にいて、きっと同じ考え方を共有しているのだろう。
勘を冴えさせるためにも、経験値からくる溜まった埃は、きちんと掃除しておかなければと思う。ホコリってなんだ?あー、家と一緒だ。早速掃除しようっと(笑)