自作自演インプロヴィゼーションプロジェクトのSpiral Melody。一人でものすごい沢山の楽器を演奏する、別名「タコ足コンサート」(笑)
娘がコンサート中、その印象をキュビズムみたいな絵にしてくれました。
先日のスパイラル・メロディー@バニョレの時、聴きに来てくれた友達が、私の演奏は即興演奏の時はリズムが先立つが、対し自分自身の作品の演奏ではメロディーが先立つので、旋律の出てき方が違う、と興味深いことを言っていた。
とても嬉しい感想である。何故かというと、彼女は音楽の「結果」みたいなのではなく音の「産まれ出る瞬間」を聴いてくれてたからである。
また、共演者のサックスのアルノーが終演後に
「ミエ、俺は本当に本当にメロディーが好きなんだ。だからこのプロジェクトは本当に好きだ、ずっとやっていきたい」
と言ってくれたことも嬉しかった。
確かに彼は今回、前にも増してはっとする音で彼にしか出来ないメロディーを奏でた。ピュアなインプロヴィゼーションが、ますます私の音と響いてきていると言うことだ。
私にとっては、そのようなはっとする音こそがライブで出てくることこそが宝物。
私の好きなもの全てを注ぎ込んだ音の宝物たちの中に、他の魂が共鳴してもっともっと宝物が増えていく。この感覚は即興という創造過程でしかあり得ない。
ピアノの椅子ではなく、スペインのパーカッション「カホン」に座る。
創造過程、と言えば、去年は色んな成り行きで、本当に人生で初めて作曲に集中した年であった。
その産みの苦しみを通り越して、今は作曲、即興、インタープレテーションという作業に、前より自然な流れができ、その流れに自分をよりうまく解放できるようになったと思う。
「メロディー」と「リズム」。この二つの面での傾倒は子供の頃から私の中にあって、湯山昭の「お菓子の世界」、三善晃の「海の日記帳」という、この二つのこどものための曲集が私の異様なお気に入りで、小学校の頃、全曲暗譜で弾けたほど。
湯山さんの方は、世界中の雑多なリズムを、現代的なスタイルと独自のユーモアで昇華して、バルトークやチックコリア、ドビュッシーがやったように、子供の感性で、何ともリズミックに、色んなお菓子になぞった曲集にまとめたもの。
対して三善さんの方は、目眩くフランス的な和声の世界、メロディーの花束が咲くように色彩感豊かなファンタジーに、これまた子供の感性で、海の動物の物語のタイトルがひとつひとつの曲についている。
今、大人になった私はチック・コリアとキース・ジャレットの二人に心酔している。
ご存知のように、チックの魅力はその怒涛のリズミックにあり、キースの魅力は美しいメロディックに収束される。もちろんこれは誤解を恐れずに言っているのであって、
チックの異様なまでにキレッキレのリズムが引き立つのには、背後に芳醇なメロディーとハーモニーがあるからであり、キースのあの世にも稀なメロディーのリリシズムは、複雑に絡み合うハーモニーと、重厚で精緻なリズムが支えている。
「リズム」は生きている鼓動そのもので、しかしそこには数学的な側面があり、インド人たちがやるように、それはどんな風にも細かく分割出来るし、チック・コリアの即興ソロのように、その数学的に壮大なロマンは、一生追求しても足りないと思えるほど。
そして「メロディー」とはまた相反する真理であり、「水のように湧き出してくるもの、水を組み合わせることは出来ないよ。」とキース・ジャレットは言っている。
これこそがこのプロジェクトの真髄で、私はそれを工業的に扱ったり、時代やスタイルがどうだこうだとか議論したり分析したりしたくない。
メロディーと言う言葉は、どうも時代遅れな単なる概念だと、誤解されがちだ。
それは私にとって、絶対に表面的な羅列であってはならない。内側から出てきて、内側で出会うものでなければならない。
今産まれでた本物のメロディーやリズムは、とびきり新鮮に時代を越えるんだ。
その人のsourceから溢れるメロディーを掬うこと、それこそがスパイラル・メロディー・プロジェクト。
魂から迸り出てくるもの、それがメロディーであるなら、それを好きで、好きで、嬉しくて嬉しくてしょうがない、と言えることの、なんと幸せなことだろう。
服飾アーティスト、安藤福子さんが創って下さった虹のスカーフは、私のスパイラルメロディーのイメージそのもの。