SpiMelo! -Mie Ogura-Ourkouzounov

L’artiste d’origine Japonaise qui mélange tout sans apriori

天動説と地動説

2024-01-20 20:45:00 | Essay-コラム

最近、オーケストラプロジェクト「フランス・アンティーユ・日本」で、カリブの伝統フルート奏者、マックス・シラさんのお宅でよくリハをしているのだけれど、マックスさんのお話を聞いていて思うのは、やっぱり素敵に歳を取られた方というのは、ニコレも生前そうだったけれど、無駄話みたいなのが淘汰されて、自分の本当に伝えたいことを真っ向から、真っ直ぐシンプルな言葉で伝えられるようになるんだな、ということ。


例えばこの言葉。


「太陽というのは、億万長者の上にも、貧しいホームレスの上にも、平等に降り注ぐ、共通のエレメントである」


何故このマックスの話が心に残ったのかと言うと、最近音楽院にまつわる話しで、幾つか引っ掛かることがあったからで、そのことを備忘録的に書いておきたい。



19区のとある中学校の初心者向け音楽科はうちの音楽院と提携していて、私もその教授陣の一員なのだけれど、その生徒たちのために編曲をするのに、編曲担当教授の友人が、各自のレベルに合うように編曲するのに大変手間取っているという。


彼女としては、やはり音楽の質を譲ってまで、リズムや音を変えてしまうことに対して苦痛を感じているということだ。


それって、あくまでバランスの問題ではあるけれど、あんまりにも「音楽」より「人間」のレベルを重視することで、音楽の方が譲ってしまうのなら、やはり本末転倒だと思う。


次は、音楽院の副院長との話。「ハンディーキャップ」の生徒についてどう思うか?と質問された。


どうやら音楽院ではハンディーキャップ向けの音楽習得機器のようなものの購入に向けて検討審議しているらしい。


私は、私のクラスに実際いる軽い筋肉の連動に関するハンディーキャップ有りと、お医者さんの証明書を持つ子のことを話した。


「試験では審査員に「音が良くない」って言われて、2回目でなんとか試験通ったけど、審査員に分かってもらうの、すごく難しかったですよ。その子はハンディーキャップのせいで口の筋力があまりないからか、音作りにも限界があるのかも知れない。でも、どんなに「この子はハンディーキャップの証明書がありますので、審査を緩和してください」と言ったところで、結局人間は、実際に出てきている「音」で判断するんですよね。こういう場合、審査員側が悪いとも言えないじゃないですか。審査とは正直であるべきだからです。とても微妙な問題ですよ。それに、誰がハンディーキャップ持ってるかなんて、一概に言えないんじゃないでしょうか。全てはグラデーションになっていますからね。いずれにせよ、私はハンディーキャップを持っているという子も区別せずに、他の子達と全く同じように教えてますよ。」


副院長先生も、私の埒のあかない話に全く同意してくれたが、中学校音楽科の編曲問題も含め、どうも気になる事があった。


なんだか最近、みんな人間側のことばっかり気にかけて、音楽のことを第一に考えてないんじゃないか?ってこと。


そこで、先程のマックス・シラの言葉が蘇ってきた。


音楽とは、どんなレベルの人間の上にも輝く、太陽のようなものじゃないのか?


天才であろうとハンデがあろうと初心者であろうと、意識次第でその光を受け取ることができる。しかしこっちの都合で、その光を人為的に調整することは出来ない。


だからあんまりにも「人間の平等」みたいな主義を掲げると、本末転倒になって人間中心の「天動説」みたいになるのではないか?


「お客様が喜ぶ曲を」とか、「聴衆に分かりやすいように」、「子供でも分かるように」とかいう考え方も、行き過ぎると私は、やはり同じく人間視点の「天動説」になると思う。


私としては、やっぱり「地動説」、私たちが中心なのではなく、音楽が私たちに燦々と降り注ぐ、その周りを私たちが回っているのだ、という認識で演奏したり教えていきたいと思う。



マックス・シラとオーケストラの出会い!

「フランス・アンティーユ・日本」

来週にコンサートを控え最終着陸態勢に入っております!パリ在住の皆さま、どうぞお越しを!



🔔126()19時半 パリ11区音楽院

Vendredi 26 Janvier 19h30 au CMA11/ 7, rue Duranti 75011 Paris

Entrée libre


🔔127()16時半 パリ13区音楽院

Samedi 27 Janvier 16h30 au CMA13/ 67 av.Edison 75013 Paris 

Entrée gratuite sur réservation 

reservation.conservatoire19@paris.fr


多方向に動く空気

2024-01-03 14:54:00 | Essay-コラム

2024年新年明けましておめでとうございます。


娘が生まれてからというもの、私のインスピレーションの元となっている、寒々しい冬の公園に還る。そこでしっかり根を張って冬を耐える木々たちを見上げる。


冬に葉っぱが全部無くなった木の、自由に広がる枝たちひとつひとつの描き出す複雑さが、本当にクリエイティブに見える。


どれだけ根っことなる本物の基礎を、どんなレベルにも教えることが出来るのか。今年もそこに挑戦したいと思う。


生徒たちにしても、「点を取るため」「単に上手になるため」「単に楽譜が読めるようになるため」に基礎を勉強してるんじゃなくって、各自がクリエイティブになるための基礎なんだ、そういうフィーリングになれば、きっと授業は、ただの週間のルーチンを超えたところに行き着けるのではないかと思う。




娘が小学校2年生の時、本当に素晴らしい担任の先生に恵まれたことがある。


彼女は、自分が教壇に立って、みんながそこに向かって一方向に机を並べる、という方式を取らない。クラスの中で幾つかのグループをつくり、それぞれのグループが色んな方向を向いて、先生が移動しながらそれぞれのグループの、それぞれの違った学習方法に参加する。


普通、出来る子に合わせれば下が乗り遅れる、出来ない子に合わせれば上が退屈するのに、彼女のクラスは出来る子供は伸びられるだけ伸び、しかも一番できない子供も解っていない事がひとつもない、そういうミラクルが起こっていた。


そういえば、音は分けても分からない。 - SpiMelo! -Mie Ogura-Ourkouzounovに登場した、とある19区の小学校の外国人クラスの担任の先生が、自分のセッションの持ち時間より早く学校に着いた私に「自分のクラスを是非観にこないか」と誘って頂いたのだけれど、その先生も、多次元な方向性の動く自由な空気の中で授業していた。(やっぱり各自の机は、木の枝の如く色んな方向を向いている。)




2023年学期最後の初心者の即興アトリエでは、そのような雰囲気に、瞬間的に近づくことができた。


みんなで音楽を聴いたり、楽器で音を探したり、それをどう楽譜に書きとるのか悩んだり、一緒にどうやって書くのか知恵を絞ったり、もう一回聴かせて!って気の済むまで聴いたり、もっとそれを思うように吹けるように練習したり、一緒に合わせてみたり。各自がそれぞれのレベルで、解ろう、という情熱が感じられたし、空気が一方向じゃなくて、色んな方向に自然に流れて、それぞれがそれぞれの場所にいながら、もっと上を目指そうとしている、そういう雰囲気が出来ると、私はもはや、「先生」じゃなくてよくなり、そこにいるだけで良いんだ。(ここに行き着くまでがめちゃくちゃ大変なんだけど。)


この、多方向に空気が流れる感じこそ、音楽でも教室でも(私にとって教室とは音楽の縮図だ)、私の理想である。 


3年前、自分がついに作曲する羽目になった、フランス・フルートオーケストラから委嘱を受けた時に書いた曲を、オーケストラという圧倒的なシステムに挑戦するに至ったプロジェクト「フランス-アンティーユ-日本」でも、5か月に及ぶリハの間、固定した視点が崩れて、色んな場面で空気が色んな方向に動いた。




例えばオケで楽譜を使わず「口伝的に」キューバ音楽を一曲演奏させようと、3か月の準備を経て臨んだ日。


_これは、夏に間に3か月間オーケストレーションするために机に向かったのと、正反対の方向からのアプローチである_


オケの間をウロウロ歩いて各楽器にアレンジを歌いながら伝えたり、指揮台に立って各パートのリズムが合わさったときのフィーリングを説明したりしている私に、同席していたお馴染みアフリカ音楽専門家の同僚Cが言った。


「ミエ、本当に指揮者たちは君のやりたいことを理解しているんだろうか?「楽譜を使わないなんて、無駄に時間がかかる」って言って困惑しているよ」


「私は彼らに理解して貰うためにこれをやってる訳じゃない。自分の習慣と違うものと出会うと納得できない、ぶつかる。その「ぶつかり」こそ、私が望んだことなんだ。そうしないことには何も変わらない。批判されても何でもいいから、私は100%自分を絞り出しているんだよ。」


このセッションの後は、大袈裟じゃなく本当にどっと疲れが出た。オケという巨人を相手にいつも即興アトリエでやっていることをやるのは初体験だったが、本当にものすごく大変な試みであった。


次の週のリハで、オケの演奏が一次元ふわりと上がったのを聴いた同僚Cは、「確かにあんたの言うとおりだ」って、言った。


音楽--楽譜 という関係性ほどエキサイティングなものはない。これを固定せず解きほぐすほど、音楽は深淵まで行けるのじゃないだろうか、と私はそこに希望を感じているのだ。




今年の決意、みたいなものが私にあるとすれば、自分が「ダークサイド」に立っていることを、絶対に忘れてはならない、ということかも知れない。


私には片側しか羽がない、完全ではない、そう理解できれば、カラフルでキラキラした既成の選択肢やら他人の見せかけやらに惑わされずに、自分のやるべきことが分かるのではないかと思う。


人生のある地点までは、運命みたいなものに流されて来たかも知れない、けれどある地点からは、自分が見つけるのだと思う。(その年齢は人によりけりだと思うけれど。)


そういえば娘が日本で「すみっコぐらし」というキャラクターに入れ込んできたのだけれど、これからも世界中のすみっコを訪れて、スパイラル的に、音楽の渦を立ち上げたいと思う。





今年も宜しくお願い致します!