SpiMelo! -Mie Ogura-Ourkouzounov

L’artiste d’origine Japonaise qui mélange tout sans apriori

白い邪悪な生き物

2022-07-25 15:13:00 | Essay-コラム

かれこれ1ヶ月近くブルガリアにいるけど、この国にいると、依然として冷戦後に世界が二分しているのがひしひしと感じられる。


例えばコロナワクチンを拒否する多くの人

たちの存在。そういう人たちは決まって、プーチンを面と向かって擁護までは行かなくとも、アメリカのやり方への拒絶感の方が強い場合が多い。


アタいわく、「強力なシステムというものを経験した人たち(この場合は「共産主義」)、それがトラウマになって、何かが起こるたびに信用できず、先ずは拒絶反応を起こすんだよ」


そういう反応を見ると偏ってるなぁ、と思うけれど、じゃあ西側は偏ってないのか?というと、フランスや日本では手放しで皆んなが「民主主義」を叫び、その名の元に色んな不正を隠している。



民主主義が如何なものだろう。その名の下に戦争を仕掛け何十万人を殺してきた?その名の皮を着てどれだけカネを儲けどれだけの弱い人間を踏み潰している?


どんな思想も当初はどんなに高尚なものであれ、それに名前を付けて利用した途端、もうそれは腐っている。


どちらにせよ、何とか主義、という名前のシステムに人々は傷付けられ、振り回され、利用され、そのシステムの頂点にいる人物のみが甘い汁を吸う、他のものは死んだってどうなたっていい、だから尤もらしい理由をつけて軍事力を増強し、憎しみを煽り、更なる権力を求めてシステム同士の戦争を求める。


宗教も政治も、搾取して上のものが良い思いをするようになったら全く同じ。


さらに汚い思念同士はジャンルを超えてしっかりと癒着する。


どっちのシステムがどれだけプロパガンダをしているのかを暴露し合い、洗脳した者たちにまるで個人の意見を言わせているかに見せかけ泥試合をさせている間に、権力者は自らのシステムをますます肥え太らせる。


旅をすることは、(単なる観光でなく、その地を本当に知るということは)、自分が偏った思考にどれだけ捉われているのかに気づかせる唯一の方法である。


ここのところいつもブログの話題に出るキース・ジャレットの話に戻るが、彼の言っている「自分の生まれながらの固まった習慣、それに伴う思考から抜け出すことこそが、自分の感覚を覚醒させることだ」


この言葉は全てを物語っていて、どこの国にいようと、私たちはその歴史、慣習による思考に囚われる。しかしそこから抜け出すこと以外に、システムを超える方法はない、ということではないかと思う。


システムを抜け出す、それは何か。

それは「個」の源泉に繋がることだけではないのか?

と私は漠然と思う。


自分の個の感覚を信じること。


本当に強い個の覚醒した感覚は、名前を付けられることを拒否する。


個の悲しみ、愛する人を思い守る気持ち。


私はそれを共有してくれる、一緒にいるだけですーっと心が静かに満たされる人たちを信じて大切にしていきたい。


ブルガリアの黒海沿岸に避難して来ているロシア人とウクライナ人はお互いの国籍がどうかに拘ることなく、問題なく一緒に暮らしていると聞いた。


これは素晴らしいことで、システムの介入さえなければ、国籍の違いによる諍いだってない。


権力者が煽る民族的な恨みは世代を超えて増大し、いつしか巨大な生き物となってその民族全体の首を絞め始める。


村上春樹の「海辺のカフカ」の最後に登場する、白い邪悪な生き物のように。


あの話は本当にすごくて、時代を先取りしている。人の個々の思いというものが時空を越え、名前を付けて説明できる範囲を凌駕して世界を変えていくことを書いている。ブルガリアから帰ったらすぐに読み返そうっと!


ブルガリアで出会う昭和。

2022-07-21 12:46:00 | Essay-コラム

ソフィアの外れ、相方アタのお姉ちゃん夫妻家近くにある、地元の食堂的なレストラン。






土曜日の午後には地元のおじいちゃん、おばあちゃん達が集まり、ビールやラキア(ぶどうや梅の国民的蒸留酒)を飲みながら懐メロを楽しむ会が開催されるのだそうな。


メニューは「シュケンベチョルバ(牛の内臓のスープ)」や「ショプスカサラダ(ソフィア風サラダ)」、「タラトル(ヨーグルトのスープ)」、各種魚や肉にフリッターなど、国民的超スタンダードな代表食のみ。日本で言うとラーメン、焼飯(チャーハンじゃなくて)、カレー、と言ったところか。




味はちょっとチープで適切な量、なんの気取ったところもない、でも食べ続けるとこの味じゃないと絶対ダメ、みたいな気分になってくる、アタいわく「ザ・小学校の時にばーちゃんが勤めていた学生食堂の味」。


香川の方言で言えば、まさに「ざいごげ」。


で、とにかく安い。先日は姉ちゃん夫妻と6人で散々魚のフリッターやサラダ、フライドポテト、ビールの大ジョッキを一人23杯とか馬鹿みたいに注文しまくって、ひとり千円ぐらいだった。今時こんな安いレストランが世界にあるのだろうか。




オーナーのトショさんは、毎朝この食堂の前に車を停めるが、停め方が一人だけ他の人の車と違って、道路に向かって直角に、ちょっとはみ出して停めるのがステイタス。


そして我らがスターは、たった一人で切り盛りするウエイトレス、ペチャさん。


ペチャさんは昔、ブルガリアのバレーボールチームに在籍していたという、いかにも細長い手足のスポーツ系の体型だが、ケガをしたことをきっかけにウェイトレスになったのだそうな。長い真っ直ぐな髪はオリエンタル風に真っ黒に染められていて、歳のころは40半ばというところ。


人に歴史あり。


毎回着席するなり


「あんた、今日は魚はないからな。で、20時には閉めるぞ。」


「あんた、テーブルまだ汚れてるじゃないか!掃除するからどいてくれろ」


とか


大酒飲みながらタバコ吸ってる客には


「あんたら昼間っからこんな大量に酒飲んで、タバコバカスカ吸ってさ。さっさと明日には死んじまうぜ!」


もうお分かりになったでしょうか。ペチャさんは、完全に「昭和に食堂を切り盛りしてたお姉ちゃん」を地で行っているのである。


私が残念だと思うのは、今日、多くの人がクレーマー化した為か、「ここではこのように言動しなければならない」と言うのがマニュアル化し、本人そのままの言動というのがなくなりつつあること。そして、それは平均化を生み出して、どこに行っても「マーケティング」の計算によって生み出された「小綺麗な誰からも好かれる外観」になってしまうこと。


音楽だって然りである。




私は昭和っていうのが、自分が生まれた時代だからただ好きなだけかも知れないけど、このトショさん食堂のように、ちょっと薄汚れた排気ガスにまみれたパッとしない景観の中で、何の計算もされていなく、ただ単にみんなに愛されて来たものを、お金の計算をすることもなく好きなだけ食べ、こういう「そのまんま」な人間たちの言動を感じられるど真ん中にいるいるだけで、ものすごくエネルギーチャージされるというか、最高に心地良い。


アタ「フランスにだってこういう人たちは居るけれど、その人たちが古い時代の空気を探しているだけで、国自体は先に進んでしまっているだろう?この国は国全体が100年前の時に留まっているのさ。」


この地球の中で、私の好きな時代にタイムトリップ出来るところがある、なんと贅沢なことだろう。



リーダーなるもの

2022-07-16 11:05:00 | Essay-コラム

音楽的にリーダーの資質の星に産まれる人は稀である。


ブルガリアではテオドシ・スパソフやペーター・ラルチェフ、イヴォ・パパゾフといった人たちだ。


今回、相方のアタが前からハマりまくって聴かせてくれていた、そのスパソフの「フォーク・クインテット」のソフィア・サマーフェストでのチケットを入手してきてくれた。


スパソフはまず、カヴァルという楽器の奏法を極限まで改革した人。__声や歌とのミックス、特殊奏法など__それに作品が驚愕。極シンプルで、いくつかの音しか使ってないというのに、すごい求心力と即興スペースを持っている。


まさに「ブルガリアン・フォークジャズ」の王道、この人の音を無くしてはそれは語れない。


リーダーというのは、「楽器がめちゃ上手い」とか「音楽性に優れている」また単に「リーダー気質である」などの表面的な能力だけでは務まらない。


それには他に譲らない作曲能力と、それに基づくはっきりとした方向性、共演者を選べ、かつ、最大限に彼らの能力を発揮させる、深い哲学に基づいたインテリジェンスが求められる。


それがないと、人は誰もついて行かないからだ。


このクインテットは奏者たちも本当に素晴らしい。


グループは、単に上手い奏者を寄せ集めたからって成功するものではないと思う。


頭で考えて「良い奏者」を寄せ集めたグループはたいてい長続きしない。


ガドゥルカのペヨ・ペエフさんは、私たちが初めてペーターさんと共演した時一緒にいらっしゃった方だが、すっとスペースが空いた時にさりげなく入ってくれるセンス、その優しさと柔軟性は他に類を見ない。その繊細さは作編曲家やピアニストとして、また現代の機材をも使いこなす多才に支えられる。誰もが彼と共演したがるのもよく分かる。



先日テレビで見たとき(原始な編成。の、ペヨさんの天上のソロ。


ガイダ(バグパイプ)の方は、本当に明るく、才能の赴くままに即興を繰り広げる人で、哲学的なスパソフさんとの対比がとても良く、この3者のミックスに聞き飽きることがない。


それを支えるタッパン(パーカッション)とリズムギター、時折使っているエフェクトペダルのカラーも良かった。


私が個人的にスパソフの好きなところは、独自の足跡、努力が見えるところだ。


ペーター・ラルチェフみたいな弾いているうちにどんどん何か出てくる天才タイプと違い、彼は即興の途中で止まって、考えてから何かを出していくタイプと思う。


だからペーターさんみたいに、次から次に出るフレーズの即興の中で永遠にエクスタシーが続いていく、みたいな感じでなく、今回聴いた彼は、一つのエレメントを捉えたら、そこを狂気で掘り下げることによって、そこにものすごい強さが産まれてきていた。



これがその渾身のカヴァルソロ!


ブルガリア音楽だけでなく多彩なジャンルを開拓し、そういう自分の気質を自分で知ってじっと見つめ、掘り下げてついにここまで来たんだなあと、感動を新たにした。


自分というものを分かり、自分の核に近づき、極めること。


そのお手本を見せてくれるのがスパソフさんなんである。


ではここで今一度、ペーター・ラルチェフの脅威のエクスタシー即興を私のフルートカバーで!もうすぐ彼に会いに、プロヴディフに行ってきます。



原始な編成。

2022-07-13 14:48:00 | Essay-コラム

先日ブルガリアの国営テレビで「ブルガリア国立伝統オーケストラ」をバックにした、ブルガリアの伝統フルート「カヴァル」の国民的英雄「テオドシ・スパソフ」のトリオのコンサートが放映されていた。




ちなみにこのオケの編成は


カヴァル(伝統フルート):3

ガドゥルカ(伝統ヴァイオリン):3

ガイダ(伝統バグパイプ):1

タッパン(伝統パーカッション):1

タンブラ(伝統撥弦楽器):2

ヴィオラ:3

エレクトリックギター:1

チェロ:1

コントラバス:1


見たところこんな感じ?




しかも、超スター揃い!!


1番ガドゥルカのペヨさん(初めてペーター・ラルチェフに私たちが出会った時、一度共演させていただいた)、1番カヴァルのネデリャコさん、エレクトリックギターのアンゲルさん達は、押しも押されもせぬ、これからのブルガリアを代表する飛び抜けた才能だ。我らがリーダー、ペーターさんとも一緒にグループでいつもとんでもない演奏を繰り広げていらっしゃる。


あーあ、巨匠テオドシ・スパソフのバックがこの人たちなんてなんて贅沢な!!この人たちの演奏を聴くと、もうワクワクして勝手にトリップしてしまう。





この音楽では、書かれたところと即興部の境界が全然ない。伝統と新しいもの、みたいな境界もない。


素晴らしい編曲をいつもやっていらっしゃるのは、指揮者の方やペヨさんらと聞いた。




ネデリャコさんのカヴァルの目眩くテクと色彩溢れる即興なんて、一応同じフルート吹きの私としてはもう夢の世界である。





ええな〜いつも思うけれど、4番フルートでいいから雇ってくれないかなぁ。。。こんなリズムの懐に包まれて演奏してみたい。


しかもこの編成で。世界のどこにもあり得ない「お隣さんががこうだったので」的な編成。


何度も言うけどめちゃええなぁ〜ー。。。


先日アンサンブル・ノマド音楽監督の佐藤紀雄さんが「壁のない音楽教室コンサートシリーズ」でトイピアノと三味線とギターというのをアタナスの曲でやっていたけれど、これも、ええなぁ〜!と思った。この時の響きの新鮮さを思い出す。


まるでバッハの「ブランデンブルク協奏曲」だ。


こういう場合には、「何とかの楽器の席が空いたから募集する」など、もう既成の編成があって楽器としての音色を先ず想定しているんじゃなくて「隣にいる人」の音を「おっ、ええなあ!」と感じるといった原始的な感覚から始まる。


そういえば私は昔から、クラシック編成のオケでフルートの音色の役をするのは苦手分野だった。最初から役割がきちんと設定されているものより、そういう原始的な方法が好きなのかも知れない。


私が個人的に一番好きなのは「デューク・エリントン・オーケストラ」で、これは凄い。それぞれの奏者は、いわゆる「楽器」という固定された意味でのカラーでなく、個人の即興の個性がめちゃくちゃ凄い。エリントンはそのそれぞれの個性でドラマを創り上げるのだ。DVDはもう百万回見たけど、その手腕、過激さ、面白さ。ほんとう時代を超えている。


あとは「ギル・エヴァンス・オーケストラ」。


村上春樹はこのオーケストラとマイルスの共演を


「ギルの緻密なオーケストレーションのスコアをマイルスが切り裂く」


というような表現をしていたと思う。


マイルス・デイヴィスがこのことについて自著で面白い供述をしている。


「この部分はなるべく個性を排したスネアが叩けるよう高度なテクニックを持ったクラシック奏者を、ここからはファンタジーを持って即興できるよう楽譜なしで、自分は楽譜があると十分なフィーリングが得られないから」


というように「個性」というものを根っこからから理解し、奏者を選び、意図的に作曲に取り入れていたのである。


こんな風に、知性を持って色んな世界が混ざっていくと面白いね!