SpiMelo! -Mie Ogura-Ourkouzounov

L’artiste d’origine Japonaise qui mélange tout sans apriori

ルーツと歴史〜らるちぇにっつぁトリオのメンバーそれぞれの捉え方

2021-12-30 13:52:00 | Essay-コラム

昨日たまたま成り行き上新しく封切りされたアメリカのアニメーション映画Tous en scène 2を見てきたんだけど、色んな意味ですごかった。


私は残念ながらあんまり普段映画を見ない人なのだけど、今日映画をみてびっくりしたのが


1:音が大きい。


朝一番だったこともあり、1音目の爆音に耳が吹き飛ばされてしまった。うちの娘も耳を塞ぐなど咄嗟に身体が防御反応を示している。


こりゃあいかん、、、と映画館の人に「ボリューム下げてもらえませんか?ここまで強いと子供に悪影響ですよ。このままなら途中で出ざるを得ません」と言うと、「このシネホールは特別仕様で、ホールに合わせた音響になっているのですがね、、、」などとブツブツ言いつつも我慢できるレベルまでは下げてくれた。それでも終わったら耳が曲がっていたけれど。


でも、見渡すと周りの家族連れは、全然衝撃受けてないし、見たところ普通に鑑賞してるみたいなんだよね、、、音量が下がったあとも、誰も気付いたようにも見えない。みんな耳がこういう音響に慣れっこになっているのだろうか。


歴史的に見ても、木製のフルートはオーケストラの巨大化に伴って金属管になり、また今日のあらゆる音楽はアンプリフィケートされ巨大な機材を必要とする。


でも人間の耳にはリミットというものもあると思うので、ボリュームの揺り戻しというのはないのだろうか。


2:アメリカーン!な衝撃。


物語はよくある一攫千金のアメリカンドリーム物語だし、すごい単純な話なのに、それをここまでエンターテインメントに仕上げられるのには感服しかない。

そして細部のプロフェッショナリズム、、、色彩が目眩く、立体エフェクトが凄すぎて目が痛いのは好みの問題としても、こんな単純な話を昇華させる技術の高さ、細やかさが素晴らしい。


「あのゴリラのヒップホップの踊り方といい、クライマックスの旋律のライオンが歌うネイティブアメリカンな美しさといい、さすがアメリカ音楽文化の深さって感じね」と私が言うと、アタ(相方)


「俺はあんたほど感服しないな。だいたい全然迷いがないんだよ、このアメリカ文化は、、、だからこそ強い。世界を圧巻する。最強のエンターテイメントだ、それは分かる。脱帽だよ。でも自分は迷いがないものは嫌いだ、、、」


なるほど、アメリカ文化から分断された時期を過ごした東欧ブルガリア出身の彼はこう捉えるんだ。


私「ていうか、こういうのを多くの人が「スタンダード」として捉えてるのが問題じゃないの?実はアメリカ文化、というローカルとして捉える人は少なくて、これを見て、世界はこのようなものだ、と普通に思ってこの後さあマクドナルドに行こう、、、みたいな。そういうルーツへの無関心さが文化のグローバリゼーションを生んで、みんな一緒くたになってしまうのかも?」


アタ「自分はこの文化が圧倒するこの世界で、世界の隅っこで小さいながら一生懸命に耐えて自分たちの独自の文化を守っているブルガリアの音楽が好きだよ。」


世界の隅っこで頑張っている立ち位置、なるほど。


これに関して思い出した話がある。


今年の8月には(もう5ヶ月も前になってしまった)、コペンハーゲンで久々にトリオメンバーで色々話せる機会が持てた。


ブルガリアの夏季アカデミーで(前ブログ参照)、生徒みんなが英語で歌っていて、ブルガリアの文化が消えてしまうのではないか、と私達を含め多くの人が危惧したという話をしていると、我らがリーダーのペーター・ラルチェフいわく


「でもな、例えばイヴォ・パパゾフのやったこと(電気楽器の持ち込みや奏法の改変)は当時ブルガリアで賛否両論だった。ところが今はこれがブルガリア音楽とはこういう演奏の仕方なんだというスタンダードになった。歴史って分からないものなんだよ。」


さすが現代ブルガリア音楽のトップ奏者として変化の真っ只中にいるペーターの言葉には、説得力がある。


それは今ではパリの象徴であるエッフェル塔が、建設当時は風景にそぐわないと嫌がる人が多く、モーパッサンがその姿が嫌いで、見なくて済むようにエッフェル塔上のレストランのみで食事をした、という話に通じるかも知れない。


最近娘が世界地理を習う年齢になり、色んな国歌に興味を持っているので聴いているのだが、しかし国歌とは国の性質を良くも悪くも如実に表しているものが多い。


フランスは血で血を洗って勝ち取る、武器を取れ!そら進め!と血なまぐさい歌詞。今だってデモをしまくって権利を勝ち取ろうとしているではないか。


対して日本は「さざれ石が巌となる」と永遠を謳い、随分と詩的だ。どうしても絶対に変化したくない、これこそが日本の奥底に流れる意識であるらしい、そう思えば政治が全く変わらないのも、ちょっとは腹が立たずに見守れるかもしれない。


村上春樹風に言えば、世界は変わりたい人たちと変わりたくない人たちに溢れている。


歴史とは、変化を望む人と望まぬ人のせめぎ合いの潮流なのかも知れない。


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悪魔と天使

2021-12-16 10:39:00 | Essay-コラム

今日朝学校にいつものように娘を送っていくと、学校の入り口である教諭に、主題は分からないが「昨日あなたはちゃんと寝なかったんだろ!だからそういう良い加減なこと言うんだ!」などと食ってかかっているお父さんがいた。「ちゃんと寝ましたよ」「いや、寝てないんだ!」で、お父ちゃんマスクをしていなかったので、教諭が「マスクは学校では義務ですよ、マスクをしないで話すのは失礼です」と言うとその父親は今度は「マスクをしないのは権利だ」と食ってかかる。あーあ、人にちゃんと寝てないと断定するくせに、自分がマスクしてないのは権利なのかい、いい加減にしろ。。。とイヤな気持ちになって我が愛車の自転車で帰ろうとすると、なんとチェーンが外れているではないか!


自分でチェーンを掛け直すには、チェーンカバーを外さなければいけないからいっつもドライバーをカバンに入れてたんだけれど、そうだ、アレはいつか空港の荷物検査で没収されたんだっけ。。。しかもこの後用事があるので、急いでいるしどうしよう。。。


途方に暮れていると、なんとさっきのマスクしない権利派のお父ちゃんがやって来て「どうされました?チェーン外れちゃいました?あら、食い込んでますね。。。カバー取らなくてもやれると思いますよ、、、ちょっと待ってくださいね」と、そそくさとかがみ込むと、5分でチェーンを掛け直してくれたのでした。


呆気にとられて「あ、ありがとうございました」と言う私。しかし、手のひら返しで悪魔が天使に変わる瞬間だった。


この人、きっと教諭にマスクのこと指摘されたときは、もしかしたら本当は悪いと思っていたのに、素直に謝れなかったのかも知れない。それで、そのあと人助けをすることで、その悪い感情を良い感情に変えてプラスマイナスゼロにしたのだろうか。


どうやらひとりの人間の中には悪魔と天使が同居しているようである。


昨日の即興アトリエでも、面白いことがあった。


思春期の子達のアトリエで、一人は素晴らしい存在感と音とフレージングで、でもまったく和声をガン無視してインプロして、もう一人の子は、特になにも面白いことはしてないが、ただ単に完全に和声の音だけでインプロした。


で、結果、どっちの音楽も本当に圧倒的に素晴らしかったのである。


教えながら、こう言うことは自分自身の歴史に残るし、悪魔と天使は行き着くところ一緒なのだ、という真理について考えさせられる。


また、「私今日は人生最悪の日だったの。だからいい即興が出来るわけないわ」と言った子がいたので、キース・ジャレットの話を聞かせた。


彼がかの世紀の名即興で誰もが知る「ケルンコンサート」を弾いた日は、彼の体調は最悪で、しかも会場のピアノの音が全く気に入らなかったのだと。そんな日に、あの圧倒的な音楽は生まれた。


逆に私が2006年にパリで彼のソロ即興コンサートに行った時、彼は一生懸命弾こうとしたが、結局一曲として弾けなかった。それで聴衆が咳をするからだ、現代社会には集中力がないからだ、などと議論を始めて、まさしくあれは彼にとって最悪の日だったと思う。


これがあの、世紀の即興家、天才の話なのである。


また、一番大きい子たちのアトリエでは、一週間前にコンサートしたばかりだったので、最近アトリエに来たばかりのチェリストに、「即興」を初めてしてコンサートしたことへの第一印象について聞いてみた。


すると「即興って、とっても曖昧なもののように感じる」という答えだった。まさしくそれは、私が彼女の演奏から感じる言葉だ。


で、それを聞いたアトリエ先輩たちが「私も!初めて即興した時はそう思った!でもね、長いことやっていると、それが普通になるのよ。経験よ。」


これも面白い感想である。まさしく、曖昧さが習慣になっている、彼女らの演奏から感じられることである。


そこで、一度この日「全くの自由即興」に立ち返ってみた。


すると、先輩の生徒らは、全く経験したことのない音を一から表現することになるから、足場を奪われ、このチェリストとまったく同じ立場に立たされることになるのである。


最初はいきなり極限に追い込まれてしまったので、笑って誤魔化したり、何して良いのか分からなかった生徒たちも、次第にただ「音

」に感応し、「習って出している音」

とは関係のない次元の場所から音を出す、という動作に入っていけたと思う。


今回は一番年齢の高い「高校/大学生」のアトリエで初めてやった自由即興のセッションだが、年齢によって、この「自由即興」への反応の仕方が全然違うのが面白いところだ。


もちろん、年齢が小さいほど、抵抗を示さない。同僚Cによると、言語的に年齢が小さいほど原始言語に近いからではないか、ということである。



即興は私にとっては「その瞬間にあるべき音を瞬間的に選びとっている」という意味で「曖昧さ」からは一番遠い、一番確信的なもの、とも言える。


ただし、その確信を持っている自分が「曖昧」であれば、それは一気に世界一「曖昧」なものになる。


じゃあ「楽譜」を演奏することは確信的なのか?いや、楽譜自体は音楽そのものじゃない。あれは音楽の輪郭を不確かになぞる手段に過ぎない。


即興だから曖昧だ、とか楽譜があるから曖昧じゃない、とか思うのは実は思い込みだけじゃないのか。


だから「ある日は自分がやってることが音階にしか聴こえない。ある日は素晴らしい音楽に聴こえる。どうしたらいいでしょう」この質問に対し、チックコリアが言った。

「そう言う時は外の景色を見て気分転換しなさい」と。


演奏は、自分がどういう価値観、感受性を持っているのかで全て変わってしまう。


そして、その日その瞬間ごとにその感受性は揺れ動いている。


だからこそただ、外の世界を眺める時間を持つことが大事なのだ。


チックはすごい。


いやー、何歳になっても即興は、また音楽はよう分からない。この世界の矛盾をすべて内包しているものとしか思えない。


だからこそ「曖昧な私」を通し、この価値を伝えていきたい、と強く思う。


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