CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

新井用水の大中埋樋 in 播磨町 on 2019-3-17

2019年10月20日 06時52分03秒 | 神戸市以外の兵庫県

播磨町では新聞の父として知られるジョセフ・ヒコと共に加古川より灌漑用水である

新井(しんゆ)用水を建設した功績で知られる今里伝兵衛が2大有名人である。

2019年3月17日、兵庫県立考古博物館で開催の企画展『ひょうごの遺跡2019-調査研究速報-』

を観覧するために山陽電車播磨町駅より喜瀬川沿いを歩いている時に今里伝兵衛が苦労して

考案した逆サイフォンの原理を利用して作った新井用水の大中埋樋(おおなかうずみび)の

写真を撮りましたので紹介します。



上の3枚の写真は新井(しんゆ)の逆サイフォンの設備の近・中・遠景です。
この逆サイフォン設備を別の表現をすると新井水道の大中埋樋(おおなかうずみび)と
なります。

上の写真は現地説明板。

上の4枚の写真は別の現地説明板。新井用水が加古川下西条平松の五ヵ位洗堰から分水し
古宮(播磨町)の大池までの13Kmの経路が地図上に書かれています。
また、逆サイフォンの仕組みが説明されています。

当初は松材が使用され「埋樋」と呼ばれていましたが天保元年(1830)に石造りに変わり

昭和32~33年(1957~1958)に鉄筋コンクリート造りとなて現在に至っています。

大中埋樋は⑦の場所(文化13年(1816)の絵図に入れ込んだもので

他の場所は下記のとおり。

1.新井用水と五ヶ井
昭和63年建設の加古川大堰、加古川のめぐみを送る14Kmの出発点です。

2.曇川と新井用水
曇川の由来と川を横断するサイホン技術を紹介する

3.新井緑道
地形を活用した水路が四季彩かわる緑道沿いを流れる

4.昭和の歴史
用水に架かる軌道や橋の名前など80年前の近代歴史が遺る

5.ため池と水路
新井用水は多くのため池をうるおす。これは地形を巧みにりようした新井用水の特徴です。

6.傳兵衛の工夫
用水全線 14Km上下流の楽さはわずか 7m、ここに水をながす傳兵衛の工夫が随所に遺る

7.大中埋樋(うずみび)
50年前は農地ばかりの景色、加古川からの水はここ喜瀬川を超え大地へ流れる

8.播磨町大池
新井用水の終点、水鳥などの楽園、近くには今里傳兵衛の墓碑や公徳碑がある

上の写真は播磨町郷土資料館の展示で今里傳兵衛の活躍ぶりを伝えています。
承応3年(1654)古宮組18ヵ村の大庄屋であった今里傳兵衛=今里伝兵衛は
近隣の庄屋とともに藩に陳情した。
今里伝兵衛はすでにその時、自分の作った絵図面を作製しており、計画図もあった。
当時の藩主榊原忠次は、この溝を作ることは干害を防ぐ良策だと認め、領内全体から
夫役を集め、早急に完成させるよう命じた。
その結果工事は明暦元年(1655)1月16日から着工し、16万4千人という人夫が動員された。
五ヶ井は昔から水利用の権利は持っていたが藩の主導で決め事(干ばつ時には五ヶ井を優先)
をして新井用水の工事を進めさせた。
工事は技術的に難しい面も多々あったが明暦2 年(1656)3月に一応終わり、通水できた。
樋門、刎所、埋樋など木製の設備はメンテナンスが繰り返され新井用水は完成後も
順調に機能した。
説明板にも記載されているように大中埋樋は天保元年(1830)に石造りに変わり、
昭和32-33年(1957-1958)にはコンクリート造りとなり現在に到っています。

上の写真は播磨町郷土資料館の展示で大中埋樋の断面の図で逆サイフォンの仕組みを
説明しています。

ひろかずのBlogに今里伝兵衛について詳しい記事がありましたので紹介させて
いただきます。


平岡町二俣探訪:新井物語③ 今里伝兵衛

シリーズになっており平岡町二俣探訪:新井物語④・逆勾配

http://azaleapines.blog.ocn.ne.jp/hirokazu/2009/06/post_2d1b.html


平岡町二俣探訪:新井物語⑤・新井と池 
http://azaleapines.blog.ocn.ne.jp/hirokazu/2009/06/post_704d.html
も興味をもって読ませていただきました。

関連ブログとして下記の記事を書いています。

 今里伝兵衛ゆかりの石灯籠と頌徳碑(しょうとくひ) in 播磨町 on 2012-6-9

上記ブログの顕彰碑に記載の新井用水に関する文章を再掲します。

溜池や野井戸による灌漑しか方法がなかった当地はしばしば干ばつに悩まされて
いました。
このため、今里伝兵衛は関係23ケ村の庄屋を集め、西条平松五ケ井洗堰
(加古川市神野町)より分水路
を古宮大池まで開削する案を示して同意を得、明暦元年(1655)正月から着工し
翌年3月に完成しました。
働いた人夫延べ16万4千人、延長3里18町(約13Km)に及ぶ公示は、全てが
順調に進んだわけではなく、
大中堤樋にも見られる逆サイホン式通水などの技術を駆使し灌漑面積600ha、
当時の石高で1万石の良田を作りました。


他に播磨町立播磨南中学校の体育館の前に設置された今里伝兵衛ゆかりの
頌徳碑と新井(しんゆ)改修記念碑を写真紹介した下記ブログも書いています。

今里伝兵衛ゆかりの頌徳碑(しょうとくひ)と新井(しんゆ)改修記念碑  in 播磨町 on 2012-6-9


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八かく庵 ミント神戸店 でのランチ on 2019-10-15

2019年10月19日 04時48分55秒 | 神戸情報

2019年10月15日(火)、センター街のあみだ堂に所用があり三宮に出かけていました。
当日、とうふ百珍で有名な八かく庵 ミント神戸店でランチをいただきましたので

写真紹介します。

八かく庵 ミント神戸店の基本情報
住所:神戸市中央区雲井通7-1-1 ミント神戸8F
TEL:078-231-3510
料理ジャンル:とうふ料理

公式HP:http://www.dynac-japan.com/hakkakuan/w_news.html

 

豆腐百珍というキャッチフレーズでお店が紹介されています。

当日は奥様が豆富づくし膳 1,738円(税込)
私は月見豆富ハンバーグと選べる主菜のランチ1,430円(税込)を注文

選べる主菜には鶏天 黒酢餡を選択

上の写真は最初に出てくる名物そぼろ豆腐(お替りが可能です)

上の写真は奥様の豆富づくし膳

上の写真は奥様の豆富づくし膳の豆腐田楽

上の写真は奥様の豆富づくし膳のデザート

上の写真は私が選択した月見豆富ハンバーグと選べる主菜のランチ(鶏天 黒酢餡)

鶏天 黒酢餡が非常に美味しかった。

上の写真は豆冨づくし膳が掲載されているメニュー表

上の写真は月見豆富ハンバーグと選べる主菜のランチが掲載されたメニュー表



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ときわそば 名谷PATIO店でのランチ on 2019-10-14

2019年10月18日 04時28分15秒 | 神戸情報

2019年10月14日(月)体育の日の祝日、ときわそば 名谷パティオ店で昼食をとりましたので

写真紹介します。よく行く店の一つです。

ときわそば 名谷パティオ店の情報
住所:神戸市須磨区中落合2丁目須磨パティオ1号館1階  TEL:078-792-0123
料理ジャンル:蕎麦
営業時間:平日AM11:00~PM10:00 定休日:第3水曜日(正月元日休)


公式HP:http://www.tokiwasoba.com/shop.html

最寄り駅は神戸市営地下鉄 名谷駅です。


上の写真は私が選択した味噌煮込みうどん 1,050円(税込)

上の写真は奥様が選択した餅天ぶっかけ(温) 850円(税込)

上の写真は「餅天ぶっかけ」と「味噌煮込みうどん」が掲載されているメニュー表

 

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歴史秘話ヒストリア「夫婦で起こした家電革命 松下幸之助と妻 むめの」を視聴して

2019年10月17日 05時36分57秒 | Weblog

2019年9月25日、NHKTV歴史秘話ヒストリアは表題のテーマで放送されました。

この番組で気になったことと妻「むめの」の実弟で三洋電機の創業者「井植歳男」との

関係も含めて書いていきます。

まず、松下幸之助と妻「むめの」生年、没年の字幕とともに紹介したお二人の写真を

紹介します。

松下幸之助(1894~1989年)明治27年(1894)11月27日、和歌山県海草郡和佐村千旦ノ木

(現:和歌山市禰宜)に、小地主松下政楠・とく枝の三男として出生。

松下むめの(1896~1993年)明治29年(1896)3月3日、兵庫県津名郡浦村(現在の東浦町浦)

に、井植清太郎・こまつの二女として出生。

松下氏が生まれたころ松下家は村の旧家で、父親も村会に出たり役場の仕事をしたりと

暮らし向きも豊かなほうでした。しかし明治32年(1899年)頃に父親が米相場に失敗、

破産したため一家の生活は様変わりすることになったのです。

松下幸之助は10歳から大阪の自転車店で丁稚奉公、松下むめのは高校卒業後大阪で女中奉公

2人は同じ大阪で働いており大正4年(1915)9月4日、見合いで結婚。(幸之助20歳、むめの19歳)

上の写真は幼少期の松下幸之助。

結婚当時、松下幸之助の両親はすでになく、8人兄弟のうち、残ったのはわずかに長姉と

幸之助の2人だけであった。

松下幸之助は明治43年(1910)16歳で大阪電灯(現:関西電力)に入社し、7年間勤務する。

むめのとの結婚当時(幸之助20歳)は大阪電灯で配線工として勤務するサラリーマンであった。

当時の電球は自宅に直接電線を引く方式で、電球の取り外しも専門知識が必要な危険な

作業であったため、簡単に電球を取り外すことができる電球ソケットを在職中に考案する。

大正2年(1913)に18歳で関西商工学校夜間部予科に入学した。

上述の電球ソケットを上司に対して提案するが受け入れられず大正6年(1917)、大阪電灯を

依願退職した。(退職後おしるこ屋を経営することも考えた)

上の写真は結婚当初の松下幸之助と松下むめの。2人は大阪船場で暮らし始めた。

会社を辞めた松下幸之助と松下むめの及び大阪電灯の元同僚2人、さらに「むめの」に実弟

井植歳男は大正6年(1917)6月、大阪の鶴橋でソケットの製造を始めた。


上の2枚の写真は当時の製造現場であった長屋のスケッチとアタッチメントソケット

制作には苦労の連続であったが大正6年(1917)10月に何とか少数のソケットが出来て

いざ販売となったがさっぱり売れず資金繰りにも困窮し風呂代にも困る生活であった。

上の写真は当時、経理を担当していた「松下むめの」資金繰りのため質屋に入れた品々の

通い帳。現在も大阪府門真市のパナソニック本社に大切に保管されているようです。

この苦境により元同僚の2人は去り、幸之助、むめの、井植歳男(14歳)の3人だけが残った。

この窮地を救ったのが川北電気から持ち込まれた扇風機の碍盤(がいばん※絶縁体で電気を通さない板)

1000枚の大量注文でした。それまで川北電気は碍盤を陶器でつくっていましたが練物に代える

ことになり、「結果さえよければ2万なり3万なりの扇風機に全部応用する」となった。

3人はこの注文の製造に全力で取り組み80円の利益を生むことができた。

この成功によって窮地を脱した松下氏はその後、アタッチメント・プラグや二灯用差し込み

プラグを考案。これらがヒットしたことで経営が軌道に乗るようになり、大正7年(1918)の

12月に大阪市福島区大開町に松下電気器具製作所を創業することとなった。

上の写真は松下電器製作所が拡張する段階で雇用された従業員。

その賄や世話はムメノが担った

上の写真は当時の賄に使用された大鍋

井植歳男は大正12年(1923)20歳で軍隊に入営(旅順の重砲隊に配属)大正15年(1926)

1月に除隊後に松下電器製作所に復職、昭和10年(1935)12月に松下電器産業株式会社が

設立され専務取締役として同社の発展に尽くしています。

松下電器製作所は自転車ランプのヒットなどで順調に業績を伸ばすことになりますが、

昭和に入ってからは昭和4年(1929)の世界恐慌などにより、倉庫に入り切らないほどの

在庫を抱えてリストラを行うほかないという状況に追い込まれます。

しかしこの時、松下氏は「生産は即日半減するが従業員は1人も減らさない。このため工場は

半日勤務とする。しかし従業員には日給の全額を支給する」としたのである。

上の写真は当時開発された自転車のランプ

上の2枚の写真は自転車用のランプなどで急成長し300人規模の会社となった松下電器

 


上の3枚の写真は昭和4年(1929)の世界恐慌で景気が悪くなった時期にとった松下幸之助と

松下むめのがとった行動を示したものです。

松下氏はこの時期に「生産者の使命とは何か」を考えるようになり、米国で成功を治めていた

フォードの車を大量生産し安価に消費者に提供する大量生産方式を考え実行していきます。

有名な「水道哲学」(水道の水のように良質なものを大量に供給し、消費者に廉価で届けること)

昭和7年(1932)5月5日のことで、この日が会社の創業記念日となっています。

松下幸之助は電気アイロン、電気コタツ、ラジオなどの品を大量生産で安価で国民

に届けることとしました。(上の3枚の写真)

昭和8年(1933)広い工場敷地を求めて大阪府北河内郡門真町に移転。(下の写真)


さらに昭和10年(1935)には松下電器産業株式会社として法人化した。

不況を乗り越えて3,000人の従業員を擁する大企業となった。

上の写真は昭和14年(1939)西宮に建てられた松下幸之助・むめの夫妻の新しい住まい光雲荘

上の写真は光雲荘の「むめの」の部屋

しかし、昭和16年(1941)に太平洋戦争が勃発し、工場は軍の要請により木造の飛行機や

木造船の製造をするようになる。(木造船は昭和18年(1943)4月より着手)(下の写真)

そして、昭和20年(1945)の敗戦

上の写真はGHQの本部が置かれた東京大手町の旧第一生命ビルで、松下はGHQにより

財閥と認定され公職を追放された。

以下Wikipediaより引用。

戦後ただちにGHQによって制限会社に指定され、松下幸之助・井植歳男以下役員の多くが
戦争協力者として公職追放処分を受ける。
暖簾分けの形で井植兄弟を社外に出した幸之助は、「松下は一代で築き上げたもので、
買収などで大きくなった訳でもなく、財閥にも当らない」と反駁した。
一方で昭和21年(1946)11月にはPHP研究所を設立し、倫理教育に乗り出すことで世評を高めた。
内部留保を取り崩して人員整理を極力避けたことを感謝した労働組合もGHQに嘆願したため、
間もなく制限会社指定を解除され、昭和22年(1947)5月に社長に復帰する。

上の写真は労働組合がGHQに提出した嘆願書。
GHQは処分を解除。幸之助は社長職に復帰。(当時、約8,000人の署名が集められた)


一方、幸之助の義弟の井植歳男は昭和21年(1946)12月戦時中に軍需の生産を担当した
責任をとり、松下電器産業株式会社の専務取締役ほか各子会社の役員を辞し退社。
昭和22年(1947)1月、世界に通じる仕事を行い、日本の復興発展に尽くそうと、大阪府
守口市で三洋電機製作所を創設。北条工場(現在の兵庫県加西市)で自転車発電ランプの
生産を開始しています。
さらに、昭和25年(1950)4月、三洋電機株式会社を資本金2,000万円で設立。
取締役社長に就任。井植歳男47歳であった。

社長に復帰した松下幸之助は事業のヒントを得るために米国へ出張します。

上の2枚の写真は昭和26年(1951)1月、米国に出張する松下幸之助。
出張で目にしたものは米国の女性が生活家電(洗濯機、掃除機、冷蔵庫)により家事が軽減
され仕事場で女性が活躍している姿でした。
そこで考えついたのが主婦向けの生活家電の大量生産でした。(上の写真)

松下幸之助は洗濯機、電気炊飯器、電気掃除機、電気洗濯機など女性の家事を大幅に
軽減する品々を使いやすく壊れにくく高品質、低価格で供給していったのである。

昭和34年(1959)の皇太子さまご成婚でテレビが必需品となりこれらの製品が
益々売れていった。
この頃、むめのは経営から離れていたが洗濯機のモニター等をして夫を支えた。(上の写真)


当時の松下電器産業株式会社の販売は個人経営ナショナルショップで互いに競わせながら
販売方式をとっていた。西宮市で今もなおナショナルショップを経営されている高畑夫妻が
松下うめのから貰った手紙を残されており「むめの」さんの当時の気持ちが伝わるエピソード
が紹介されていました。

上の写真は戦後から昭和40年(1965)までの従業員数と売上高の推移表




上の4枚の写真は米国の雑誌「Times」1962年2月23日号に紹介された松下幸之助・むめの
夫妻の紹介。
上の写真は昭和43年(1968)に行われた創業50周年の式典で妻「むめの」に
感謝の言葉を述べる松下幸之助。
平成元年(1989)4月27日 松下幸之助永眠(享年94歳)
今年(2019)は没後30年の節目の年であります。
松下幸之助が亡くなって(1993)5年後の平成5年(1993)9月5日、松下むめのが死去

2人は松下電器(現パナソニック)本社敷地内の創業の森で銅像が建てられ

会社の行く末を見守っておられます。

 

やっと、書き終えました。ああしんど。・・・・・・・


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ゆず庵 神戸小束山店でのランチ on  2019-10-9

2019年10月16日 04時18分54秒 | 神戸情報

2019年10月9日(水)、ゆず庵 神戸小束山店で頂いたランチを写真紹介します。
2017年5月30日に洋服の青山の隣に出来たお店です。


ゆず庵 神戸小束山店の基本情報

住所:神戸市垂水区多聞町字小束山868-1358  TEL:078-784-7011
料理ジャンル:寿司、しゃぶしゃぶ、串焼き
営業時間:11:00~24:00(最終入店22:00) 定休日:?
経営:洋服の青山を展開する青山商事100%出資の株式会社glab(2011年7月6日 設立)が
   展開するチェーン店

公式サイト(メニュー表も記載):http://www.shabu-yuzuan.jp/

地図は下記のブログに添付しています。(過去の訪問記も添付

 ゆず庵 神戸小束山店でのランチ on  2019-6-25

上の写真は当日注文した秋の松花堂ランチ 1,408円(税込)

 

上の写真は食後のデザート

1人2点を選択します。

上の3枚の写真はメニュー表

 

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親鸞直筆の教典発見長崎・大村の寺院念仏や信心を重んじる

2019年10月15日 18時11分50秒 | Gooニュース


NBC 長崎放送の報道

NHKの報道

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キャトル(Quatre) でのランチ on 2019-10-11

2019年10月15日 04時42分58秒 | 神戸情報

2019年10月11日、西舞子の  キャトル(Quatre)でランチを頂きましたので
写真紹介します。隣の南園にはよく行きますがこちらは3回目の訪問です。
2017年5月29日に開店し、前から気になっていた店です。

過去の訪問記
 鉄板ビストロ  キャトル(Quatre)でのランチ on 2018-10-9

  鉄板ビストロ  キャトル(Quatre)でのランチ on 2018-11-4

鉄板ビストロ  キャトルの基本情報

住所:神戸市垂水区西舞子2-12-28  TEL:078-742-7374
営業時間:11:30~14:00(ランチ) 17:30~21:00(ディナー)
定休日:木曜日  お店の英文名:Quatre
開店:2017年5月29日


公式サイト:https://quatre4.amebaownd.com/
公式FB:https://www.facebook.com/pg/TEPPAN.BISTRO.Quatre/about/

 Goo地図はこちら

 

当日はランチ1,500円(税別)にデザート+300円(税別)を注文しました。 

上の写真は最初に出てくるサラダ

 

次にスープとパン(写真は無し)が出てきます

 

 上の写真は奥様が選択したメインの魚(鰆と鯛?)

上の写真は私が注文したメインで淡路産の鶏肉

 

 上の写真は奥様のデザート

上の写真は私のデザート

 

上の写真はメニューの看板

 

上の写真は駐車場の案内

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小惑星探査機「はやぶさ2」の記者説明会 on 2019-9-24

2019年10月13日 04時47分01秒 | 有用な情報

C型小惑星「リュウグウ」から岩石を採取して来年(2020年)末に地球への帰還を

目指しているJAXSAのはやぶさ2ミッションの記者説明会が2019年9月24日に

行われました。打ち上げから最新の情報まで判り易く説明されていますので

共有させていただきました。

小惑星探査機「はやぶさ2」の記者説明会(19/9/24)動画ライブ配信


写真が無いと寂しいので若干の写真を添付しておきます。

上の写真は1回目の着陸のイメージ図 実施日:2019年2月22日

上の写真ははやぶさ2の打ち上げ場面 実施日:2014年12月3日


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男山配水池公園から見た姫路城 on 2019-10-8

2019年10月12日 04時52分50秒 | 神戸市以外の兵庫県

2019年10月8日、男山配水池公園から姫路城の天守閣の写真を撮りましたので紹介します。

男山配水池公園の基本情報

住所:姫路市山野井町37−3

男山配水池の概要:昭和2年(1927)7月着工、昭和4年(1929)4月完成 工事費は26,840円

         鉄筋コンクリート製 長さ22.72m、幅22.42mが2基 

         有効水深3mで 貯水量は3,000㎥ 延べ工事人員11,719人

公園の整備公開:平成5年(1993)7月

 

Goo地図はこちら

 

 

上の2枚の写真は男山配水池公園から観た姫路城天守閣

 

 

上の3枚の写真は男山配水池公園

よく整備されています。

男山配水池公園は昭和4年4月に完成した姫路市で最も古い配水池を中心に平成5年(1993)

に姫路市により整備公開されました。。姫路城天守閣の北西の高台にあるため、姫路城を望む一等地

として知られています。大天守と3つある小天守すべてを眺望できるのは、「世界遺産姫路城十景」

の中でもここだけ。

男山は、姫路城の西にある標高57.5mの小さな山です。播磨国風土記(713年、奈良時代)には

筥丘(はこおか)」として登場します。登山道には、水尾神社、男山八幡宮、千姫天満宮などが

あります。

男山の由来の説明版(下の2枚の写真)が掲示されていました。


説明版の記述内容を要約して記しておきます。

この男山(標高57.5m)は播磨国風土記(713年、奈良時代)に記されている説話の中で

姫路の14の丘に出てくる「筥丘(はこおか)」だとされています。

その昔、大汝命(おおなむちのみこと)はその子「火明命(ほあかりのみこと)」があまりに

乱暴者なので、因達神山(現在の八丈岩山)におきざりにして船を出したところ、火明命は大いに

怒り、風波を起こし船を難破させました。その時、積荷の蚕子(ひめこ)の流れ着いた所が日女道丘

(ひめじおか)(姫路城のある現在の姫山)。箱の着いたところが「筥丘」・・・・・・と

名づけられたということです。

日本書紀に火明神は天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこあめのほあかりのみこと)の

正式名称で出てくる。男神である。

また男山は「播磨鑑」(1762年、江戸時代)に記されている「飾磨のかち染」の伝説にも関係

があり、今の自衛隊姫路駐屯地内にあった長者屋敷から難をのがれて旅の男が逃げてきた山を

男山、いっしょの女が逃げてきた山を姫山と名づけられたといいます。

男山の南中腹には、鎌倉から南朝の動乱の時代1346年に姫山に初めて城を築いたといわれる

赤松貞範がその鎮守として創建し、歴代の城主が信仰したといわれる「男山八幡神社」、

江戸時代1617年に城主となった本多忠政の子忠刻の妻千姫が建立したといわれる

「男山千姫天満宮」、南麓には「水尾神社」があります。


播磨国風土記  十四丘伝説の山々というサイトに播磨鑑に記載の伝説について

上記説明より詳しく書かれていますので引用紹介します。

江戸時代の地誌「播磨鑑」には、山名の由来について次のような話がある。増位山の麓、

平野村の長者屋敷に小鷹という乱暴者が住んでいた。小鷹は、旅人を泊めては、石の枕をさせ、

旅人が寝入るとおもしをかけて殺し、その血で衣を染めていた。

あるとき、美しい武士が泊まったが、小鷹の娘がこの武士をふびんに思い、「旅の人々、

石の枕はせぬものじゃ」と幼子を抱きすかしながら歌った。そして、武士と娘は、

長者屋敷からいっしょに飛び出して、男は男山に、娘は姫山に逃げ上った。

しかし、追いかけてきた小鷹に二人とも打ち殺されてしまった。

これより、男山・姫山というようになった……。

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大丸神戸店にある「キッチン スギモト」さんでのランチ on 2019-10-6

2019年10月11日 04時14分50秒 | 神戸情報

2019年10月6日に「キッチンスギモト」でランチを頂きましたので写真紹介します。

キッチンスギモトは杉本食肉産業株式会社が運営しているお店で国産牛や神戸牛の

すき焼き鍋などをリーズナブルな価格で食べられるお店で大丸神戸店の地下の食品売り場

のフロアの一角にあるお店です。初訪問です。

スギモトは明治33年(1900)創業の日本一を目指すお肉屋さんです。

キッチンスギモトの基本情報

住所:神戸市中央区明石町40 大丸神戸店地下1F TEL:078-331-8121

料理ジャンル:すき焼き、丼もの

営業期間:11:00~19:00  オープン日:2011年9月24日

公式サイト:https://www.daimaru.co.jp/kobe/


上の写真は当日、私が選択した和牛のすきやき鍋 1,320円(税込)


上の写真は奥様が選択したすき重 880円(税込)


奥様のものも味見させていただきました。

リーズナブル価格で十分満足の味でした。また行ってみたいお店です。


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