CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

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JR西日本赤穂線 西片上駅から備前市役所までの史跡 on 2019-10-4 その2 潮光山正覚寺

2019年10月29日 06時12分36秒 | 旅行記

2019年10月4日(金)、岡山県の備前市に所用があった為、JR西日本赤穂線の西片上駅

から備前市役所まで歩いて行った。

途中で見つけた史跡を写真紹介していきます。

今回はその第2回で潮光山 正覚寺について写真紹介します。

シリーズ過去の記事:

第1回 JR西日本赤穂線 西片上駅から備前市役所までの史跡 on 2019-10-4 その1 宇佐八幡宮

 

光山 正覚寺の基本情報

住所:岡山県備前市西片上86  TEL:086-964-2358

宗派:浄土真宗 本願寺派 山号:潮光山 

上の写真は潮光山正覚寺の本堂と鐘楼

正覚寺の由緒や御本尊などの詳細情報は調査できず備前市役所で入手した「片上史跡めぐり」

のリーフレットに記載の以下の文のみを記載しておきます。

清十郎との悲恋の後、姫路からやってきたお夏を当時の住職法円師が変換還俗させた

上の写真は境内の親鸞聖人の銅像などの展示

上の写真は境内に設置の即如門主ご巡教記念に建てられた石碑

上の写真は山門

山門前の灯篭(常夜燈)には元文3年(1738)の銘が入っています。

 

神戸事件と正覚寺

神戸事件(慶応4年(1868)1月11日)で備前藩の指揮を執っていた日置帯刀以下

兵士約500名が1月5日~1月7日 片上宿滞留の記録(「日置家記写」)があります。

このことから正覚寺にも多くの隊員が逗留したと推定されます。

以下神戸事件について記しておきます。

備前藩士の一行(約500名の隊列)は3門の大砲をもって神戸の三宮神社付近を
通行中に下記に詳述の神戸事件が起きた。
フランス兵2名が隊列を横切りにたいして槍でその兵に軽傷を負わせた。
死者が出ていない事件に対して1人の切腹は刑が重過ぎるという考えも
あったが、備前藩士瀧善三郎正信の切腹で問題は解決した。

伊東博文が解決のための折衝役として動いたが決裂に終わり。(以下Wikipediaより引用)

1月15日(2月8日)、急遽、開国和親を朝廷より宣言した上で明治新政府への政権移譲を表明、

東久世通禧を代表として交渉を開始した。 諸外国側の要求は日本在留外国人の身柄の安全保証と

当該事件の日本側責任者の厳重処罰、すなわち滝の処刑というものであった。
この事件における外国人側被害に対して処罰が重すぎるのではないかとの声もあり、また、

日本側としては滝善三郎の行為は、少なくとも「供割」への対処は武士として当然のものでも

あったが、列強の強い要求の前に抗うことが出来ず、伊藤や五代才助(後の五代友厚)を通じた

伊達宗城の期限ギリギリまでの助命嘆願もフランスのレオン・ロッシュをはじめとする公使投票

の前に否決される。 結局、2月2日(2月24日)、備前藩は諸外国側の要求を受け入れ、

2月9日(3月2日)、永福寺において列強外交官列席のもとで滝善三郎を切腹させるのと同時に

備前藩部隊を率いた日置について謹慎を課すということで、一応の決着を見たのである。

神戸の開港1ヶ月後に起きた神戸事件は明治新政府にとって初めての外交交渉となった。
この事件の穏便解決で活躍したのは明治元年(1868)5月23日兵庫県の初代知事と
なった伊藤博文(当時28歳の青年であった)である。
伊藤博文は偶然事件翌日の1月12日に神戸に立ち寄っていた。
伊藤博文まず大阪の外国事務取調掛の東久邇通禧(ひがしくにみちとみ)を勅使として神戸の
各国の公使を集めて「王政復古」を宣言した後、新政府の代表者として認めさせたうえで
事件解決の交渉に入っていった。

瀧善三郎正信は備前藩士で500名の備前の警備隊の第三砲隊長であった。
神戸事件の概要(三宮神社前の説明文より引用)は以下のとおりです。

神戸開港早々の慶応4年(1868)正月11日、尼崎へ出向を命じられた岡山
備前藩の隊士の行列が三宮神社前を通過するとき、神戸沖に停泊中の外国軍艦の
乗組員数名が行列を横切った。隊士の瀧善三郎正信は日本の風習から無礼を怒って
相手を傷つけた。それがもとで外国兵と備前藩士の一行との間に砲火を交える
騒ぎとなった。その結果、神戸の街は外国兵によって一時占拠されてしまった。
同月15日、東久世通禧は勅命で神戸へ来て明治維新で天皇新政となったことを
初めて外国側に知らせ同時にこの事件について交渉をした。
結局、瀧善三郎は責任を一身に負い外国人代表ら立会いの面前で切腹して
問題は解決した。

滝善三郎正信の顕彰碑は神戸市兵庫区の能福寺にあります

能福寺の顕彰碑に関して下記のブログで書いています。

 瀧善三郎正信の顕彰碑


日置家記写、自裁之記をもとに「神戸事件と岡山藩」という題で詳細に記述されている

サイトにリンクさせていただきます。

 http://www.yomimonoya.com/koube/mitisuzi/mitisuzi04.html

このサイトで片上宿に宿泊していた瀧善三郎は、命じられて一度岡山にもどり、大砲の

用意をしている。再度往復したのだろう。壮健な青年だったと思われる。との記述あり。


 

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