CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

ジョリーパスタ塩屋浜店でのランチ on 2017-4-11

2017年04月17日 07時17分37秒 | 神戸情報
ジョリーパスタ塩屋浜店でのランチは過去、頻繁に行っていますがブログはまだ1回しか
作製していないので記事を書きました。

塩屋港付近の瀬戸内海の風景を楽しめ、且つパスタも私の好みなので好きなスポットの一つです

ジョリーパスタ Jolly Pasta 塩屋浜店の基本情報

住所:神戸市垂水区塩屋町1-5-2
TEL:078-753-7631    料理ジャンル:イタリア料理
営業時間:11:00~24:00 定休日:なし


公式サイト:http://www.jolly-pasta.co.jp/


上の写真は私が注文した日替わりパスタ(トマトソース)580円(税抜)


上の写真は奥様が注文した明太子イカのパスタ 690円(税抜)


上の写真は無料ドルチェのケーキ

無料のケーキ券はよく利用させていただいております。
当日は1人分の無料ドリンク券(150円相当)も利用させていただきました。

過去の訪問記:ジョリーパスタ塩屋浜店でのランチ on 2016-7-26
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志津屋 烏丸御池店(SIZUYA BAKERY)でのモーニング on 2017-4-13

2017年04月17日 06時55分52秒 | 京都情報
2017年4月13日(木)、京都市営地下鉄烏丸御池駅にある志津屋 烏丸御池店(SIZUYA BAKERY)で
モーニングをいただきましたので写真紹介します。

志津屋 烏丸御池店(SIZUYA BAKERY)の基本情報

住所:京都市中京区虎屋町地先 京都市営地下鉄烏丸御池駅構内 TEL:075-211-7205
料理ジャンル:ベーカリー(イートインコーナー有)
営業時間:7:00~21:00  定休日:年中無休(元日のみ休み)

公式サイト:http://www.sizuya.co.jp/


上の写真は当日いただいた モーニングセットB 500円です。
飲み物は選択できます。


上の写真はお店の外観


上の写真は京都市営地下鉄烏丸線のホーム安全ガードです。


上の写真は京都市営地下鉄東西線のホーム安全ガードです。
47歳で死去した義弟がスタッフの一員として設置の仕事に携わりました。
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モッチモ・パスタ 須磨店でのランチ on 2017-4-7

2017年04月16日 04時50分01秒 | 神戸情報
本日は2017年4月7日(金)に食べたモッチモ・パスタ 須磨店でのランチを
写真紹介します。

モッチモ・パスタ須磨店の基本情報
住所:神戸市須磨区多井畑東町22-1  TEL:078-791-0300
ジャンル:パスタ  定休日:1月1日を除き無休
営業時間:11:00~21:30 金、土、日は22:00まで
料理ジャンル:イタリア料理 イタリアン


お店のHP(グルナビ)

注文したのは選べるランチセット ナスとベーコンのトマトソース 1,200円(税別)と
キノコと帆立のたらこソース 1,250円(税別)


上の写真はランチのモッチモセットのサラダ


上の写真はランチのモッチモセットのロングバケットとドリンクバーの飲み物


上の写真は私が注文したナスとベーコンのトマトソース


上の写真は奥様が注文したキノコと帆立のたらこソース
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明石海峡を臨む西舞子のN'OCEAN (ノーシャン)でのランチ on 2017-4-14

2017年04月15日 05時16分47秒 | 神戸情報
2017年4月14日(金)、N'OCEAN (ノーシャン)でランチをいただきましたので
写真紹介します。
明石海峡大橋、対岸の淡路島を臨めるオーシャンビューを楽しめます

N'OCEAN (ノーシャン)の基本情報
住所:神戸市垂水区狩口台7-15-40 TEL:078-783-0111
料理ジャンル:オーガニック&ヘルシーなスペイン・イタリア創作料理
営業時間: 11:30~14:30(LO)、18:00~22:00(LO)
定休日:火曜

公式FB:https://www.facebook.com/Nocean-1616806088531499/

Goo地図はこちら
 

注文したのはパエリア+サラダです。1,700円(税抜)です。
明石の昼網も売りのようですが当日はありませんでした。


まず無農薬の有機野菜のサラダ


上の写真はメインのパエリア
シェリー酒がたっぷり使用されているそうです。


上の写真はお店の外観です。

基本情報とダブっていますがお店紹介名刺を添付しておきます。

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京都山科 毘沙門堂 on 2017-4-13

2017年04月14日 06時35分33秒 | 京都情報
2017年4月13日、京都山科の毘沙門堂門跡を訪問し写真を撮ってきましたので紹介します。
毘沙門堂は天台宗京都五門跡の一であり、山科毘沙門堂、毘沙門堂門跡とも呼ばれる。
「毘沙門堂門跡」以外のの門跡は①青蓮院門跡、②三千院門跡、③妙法院門跡、④曼殊院門跡

当日、京都へ行く時はいつもはJRを利用することが多いのですが阪急を利用したこと
京都地下鉄東西線の山科、御陵、蹴上の3駅で桜の疎水巡りで歩き過ぎたことさらに滋賀県
坂本の日吉大社の山王祭を観てきたことなどでいささか疲れました。

まず、いつものように京都山科 毘沙門堂の基本情報から始めます。

京都山科 毘沙門堂門跡の基本情報
住所:京都市山科区安朱稲荷山町18 TEL:075-581-0328
宗派:天台宗  山号:護法山  御本尊:毘沙門天
開創:大宝3年(703) 文武天皇の勅願で行基が開創した
拝観時間:8:30~17:00(16:30最終受付) 12月~2月は16:30閉門(16:00最終受付)


公式サイト:http://bishamon.or.jp/
公式FB:https://www.facebook.com/bishamondo


上の写真は毘沙門堂の本堂を中心とした遠景


上の写真は仁王門から観た毘沙門堂本殿


上の写真は毘沙門堂の現地説明板






読みづらいので拡大版を添付しました(上の3枚の写真)


上の写真はJR山科駅から毘沙門堂までのルートを示した説明版(毘沙門堂の説明も有り)




読みづらいので拡大版を添付しました(上の2枚の写真)





上の写真は毘沙門堂本殿の近景写真
扁額には出雲寺と記載されています。毘沙門堂は創建当初、出雲寺と呼ばれていました。
Wikipediaによれば
出雲寺の名前の由来は創建当初、出雲路(上京区・御所の北方)にあったことによります。
出雲路は現在の上御霊神社付近
平安時代末期には出雲寺は荒廃していたが、鎌倉時代初期、平親範が平家ゆかりの3つの寺院を
合併する形で再興。中世末期には再び荒廃していたが、寛文5年(1665)徳川家康とも関係の深かった天海と
その弟子の公海によって現在地に移転・復興されました。


この中に御本尊の毘沙門天はこの本殿に安置されています。
この毘沙門天像は天台宗の宗祖伝教大師(最澄)のご自作で延暦寺根本中道の御本尊薬師如来の予材
で刻まれたもので像の高さは7cm程度だそうです。秘仏はお前立「毘沙門天像」の背後にある多宝塔
の中にあり300年?に1回御開帳があるとのことでした。

500円の拝観料を払って見どころを説明していただきました。
但し撮影禁止なのでリーフレットよりコピーしたものを使用して説明します。



上の写真は霊殿の守護龍で、狩野永叔主信の作。眼の向きや顔が、見る角度によって変化する。
案内に従ってうえを見ながら鑑賞させていただきました。

霊殿は元禄6年(1693)第3世公辦法親王の建立で阿弥陀如来を中心にした歴代住職の影像や位牌が安置



上の写真は宸殿内部の襖絵の一部で狩野探幽の養子で駿河台派の始祖狩野益信の作だそうです
どの角度から見ても、鑑賞者が中心になるという逆遠近法の手法。

机を見ながら左右に動いてみるとみる角度で机の形が変わることを実感しました


上の写真は丸山応挙の作品で 鯉は背景の描き方さらに木目や節も考えた構図になっているとの
説明を受けました。


上の写真は極楽橋の近くに掲示してあった毘沙門堂の境内案内図です。

上記境内図の下側に毘沙門堂門跡の年中行事が書かれていましたので添付(下の写真)


これに従って境内案内をしていきます。
極楽橋



上の写真は極楽橋と現地説明板
第111代天皇「後西天皇(1637~1685)在位は1654~1663」が行幸された時のエピソード
如何に高貴な方もの橋の前では下車されたそうです。

仁王門

上の写真は仁王門の遠景です




上の2枚の写真は仁王門の仁王像


上の写真は仁王門の外側の蟇股(かえるまた)拡大図

地蔵尊

上の写真は地蔵尊の近景 遠景は既に添付した仁王門の遠景の中で右手に写っています。



本殿
本殿の写真は既に何枚か添付しています


上の写真は本殿前の唐風門


上の写真は本殿を側面から撮ったものです。


上の写真は弁天堂から撮った本殿


上の写真は本殿の周囲の回廊

経蔵


上の写真は経蔵の建物外観 中には仏像の他、お経の入った木箱が置かれていました。

手水舎


上の写真は手水舎

境内社

上の写真は境内社

弁天堂



上の写真は弁天堂の参道と弁天堂

鐘楼

上の写真は鐘楼

山王社

上の写真は山王社

宸殿





上の3枚の写真は桜に囲まれて華やかな宸殿


上の写真は宸殿の現地説明板

勅使門





上の3枚の写真は勅使門と現地説明板

前庭の枝垂れ桜









上の5枚の写真は毘沙門堂 宸殿の前庭の枝垂れ桜


上の写真は宸殿と前庭の枝垂れ桜のコラボ

晩翠園





上の3枚の写真は晩翠園と現地説明板
池の奥側に観音堂が建っています。

霊殿


上の写真は霊殿

毘沙門堂の拝観後同じ毘沙門堂の塔頭寺院の山科聖天双林院に寄りました。
これから出かける時間となり時間が足りませんので写真のみを添付しておきます。














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建仁寺 訪問記 on 2014-12-17 その1 俵屋宗達の作品「風神雷神図」

2017年04月13日 03時50分05秒 | 京都情報
2014年の12月17日に建仁寺を訪問しています。

今回はその第1回として俵屋宗達の作品「風神雷神図」を紹介します。

建仁寺の基本情報

住所:京都市 東山区大和大路通四条下る四丁目小松町584
TEL:075-561-0190
山号:東山  御本尊:釈迦如来
宗派:臨済宗建仁寺派大本山 京都五山(注)の3位
開山:栄西  開基:源頼家

公式HP:http://www.kenninji.jp/

(注)京都五山:南禅寺(別格)・天龍寺(1位)・相国寺(2位)・建仁寺(3位)・
        東福寺(4位)・万寿寺(5位)
 Wikipediaによれば「京都五山=京都の禅寺の格付と一般に勘違いされやすいが、それは
  決して正しい解釈ではない。京都五山はあくまで足利氏の政治、政略的な格付けであり、
  大徳寺は同様の理由から格を下げられ、後に五山制度から脱却している」

公式サイト以外で建仁寺について詳しく纏められたサイトへのリンク

 http://www.bell.jp/pancho/k_diary-11/2014_05_08.htm 

 http://takaoka.zening.info/Kyoto/Gion/Kenninji_Temple/index.htm 

 http://www.rinnou.net/cont_03/12kennin/




上の写真が俵屋宗達の作品「風神雷神図」

ここに置かれているのは、本物ではない。精巧に作られたレプリカである。
Canonの複写技術が生かされています。
国宝に指定されている本物の屏風は、京都国立博物館に寄託されています。




上の2枚の写真は俵屋宗達の作品「風神雷神図」の拡大図


上の写真は俵屋宗達の作品「風神雷神図」の現地説明版です。




上の2枚の写真は三十三間堂(妙法院)の国宝「風神像」と「雷神像」参考のため添付しました。
こちらは堂内撮影禁止なので三十三間堂の佛たちという冊子からのコピーです。

三十三間堂の千体観音立像の前に二十八部衆と両端の「風神像」と「雷神像」を加えた30体の像
が並んでいます。

両者共に鎌倉時代の彫刻で昭和30年(1955)2月2日に国宝に指定されています。
風神像は像高123cm、風神はVayu(ヴァーユ)で風天と訳されます。数頭立ての馬車で天を駆けて
悪神を追い払い、富貴栄達を授ける神とされ天界の神酒・ソーマを好むことからソーマバーとも呼称。
一方の雷神像は像高105cm、Varuna(ヴァルナ)という水神だといわれます。
天候を司る神であることから豊穣を祈る古代人から恩恵と畏怖心がこのような神格を生んだとされる。
6世紀に製作された中国の莫高窟の壁画が風神、雷神の最古のものとされています。



上の写真は「風神雷神図」の隣に金澤翔子(かなざわ しょうこ)の作で「風神雷神」と
墨書された大きな屏風です。彼女は1985年生まれの新進気鋭の書家である。新生児期に敗血症にかかり、
後にダウン症と診断されたが、5歳の頃より書道を始めた。2004年に書家としての号「小蘭」を取得し、
2005年には最初の個展である「翔子 書の世界」を銀座書廊で主催している。
2009年11月、彼女は建仁寺に「風神雷神」の屏風を奉納した。この作品が建仁寺所蔵の国宝「風神雷神図」
の隣に展示されたため、当時は大きな反響を呼んだそうである。


上の写真は上の写真は建仁寺境内図です。

上述の俵屋宗達の作品「風神雷神図」と金沢翔子の書は本坊の玄関にあります。


上の写真は本坊の建物を外から見たものです。
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平等院 江戸時代の絵図を中心として 

2017年04月12日 16時39分30秒 | 京都情報
私の生まれ故郷京都府宇治市にある世界遺産平等院について江戸時代の絵図を
中心に写真紹介していきます。

出典は鈴木 康久 、西野 由紀 編「京都 宇治川探訪―絵図で読みとく文化と景観」(2007)
と神居文彰著&編 志村ふくみ(巻頭エッセイ) 古寺巡礼 京都/13 「平等院」(2007)
へい

私が小学校に通っていた昭和30年代の頃平等院の境内が通学路となっていました。
その頃は拝観料はとられていなかった。
いろんな意味でなつかしい平等院に関する思い出があります。
その頃修復工事も施工されていたと思います。
調べてみると昭和25年(1950)から昭和31年(1956)まで平等院鳳凰堂の
全面解体修理が行われ、昭和32年(1957)3月に3日間にわたり修理完工落慶法要が挙行


上の写真は文久3年(1863)文:暁鐘成、絵:松川半山「宇治川両岸一覧」の平等院
平等院鳳凰堂の前の阿字池は州浜の状態ではないことが判ります。


上の写真は安永9年(1780)に刊行の「都名所図会」で記載の平等院境内図
 文:京都の俳諧師秋里籬島、図版:大坂の絵師竹原春朝斎
平等院(びやうどうゐん) は宇治橋の南にあり。初めは河原左大臣融公の別荘なりしか、
その後陽成院この地に行宮を建てられ、宇治院と号し、また承平御門もこのところにて
遊猟したまふこと『李部王記』に見えたり。
それより六条左大臣雅信公の所領となりしが、長徳四年十月、御堂関白この院を得て
山荘とし遊覧の地としたまひ、その後、子息宇治関白頼通公、永承七年に寺となして
平等院と号し、法華三昧を修せしむ。
仏殿は鳳凰を象り、左右の高楼・回廊を両翼とし、後背の廊を尾とす。
棟の上に雌雄の鳳凰あり(金銅をもって造る)。風に随ふて舞ふ。かるがゆゑに鳳凰堂といふ。
本尊阿弥陀仏は長六尺の坐像にして定朝の作なり。
堂内の長押に二十五菩薩の像あり。同四壁ならびに三方の唐戸に浄土九品の相を画く。
絵師の長者為成の筆。
上には色紙形ありて観経の文を害す。中納言俊房(としふさ)の筆跡なり。
天蓋・瓔珞等は七宝を鏤め、古代の作物にして美麗荘厳他にならびなし。
鳳凰堂は永承年中、頼通公建立よりかつて回禄の災ひなし。南方の奇観とす。
釣殿観音堂は最勝院と号す。本尊十一面観音は立像にして春日の作なり。
地蔵尊・不動明王を左右にして脇壇に安置す。
このところ宇治院の釣台を建てたまひて、釣りを垂れたのしみたまふところなり。
扇の芝は源三位頼政、治承四年五月二十六日このところにおいて自殺す。
委しくは『平家物語』にあり。駒繋(こまつな)ぎ松 頼政、馬をつなぎしところなり。
鎧懸けの松 頼政、鎧をぬぎすてしところなり。
阿字(あじ)池 鳳凰堂のめぐりにある池なり。恵心僧都の作りたまふ。
鐘楼 この鐘は竜宮より上がりしといふ。園城寺の摸形にして本朝三鐘のその一なり。
阿弥陀水 鐘楼の下壇の池なり。傍らに六字の名号の石塔を建つる。
法華水 浄家方丈の西、竹林の内にあり。
楼門の跡 いまのかり橋の北にあり。焼失の後、形を遺す。
そもそも当院は天台・浄土の二流ありて、台家は三井寺に属し、寺務は円満院御門主なり。
浄家は宇治関白の御菩提所にして、心誉上人より世々浄土宗をもって当院を守る。
方丈に頼政の鎧・兜および画像あり。
『金葉』 うぢの平等院の寺主になりて、うぢに住み付きてひえの山のかたをながめやりてよめる
  宇治川の底のみくづとなりながらなほ雲かかる山ぞ恋しき  忠快法師




上の写真は釣殿観音 扇芝
釣殿は創建当初に貴族達が釣りを楽しんだ殿であるが現存せず
この地に本堂があり御本尊の十一面観音(春日の作)地蔵菩薩と不動明王を左右に安置
扇の芝と書かれた石碑が見えます。
源頼政は平家打倒を提唱し、以仁王の令旨を奉じ治承4年(1180)5月26日に
三井寺の僧兵とともに挙兵したが平知盛に破れ平等院の扇の芝(現存)付近の鎧懸松に鎧を懸け
で自害した。(平家物語に記載あり)


上の写真は江戸時代の平等院の境内図です。

次に創建間もない12世紀に改修された後の平等院伽藍について文献より引用
させていただきます。

上の写真は杉本宏著 日本の遺跡6 宇治遺跡群Page52 図21のコピー
です。


上の写真も同じく上記図書のPage54 図22のコピーです。
鳳凰堂の南側に伝説の経蔵や湯屋があります。










上の5枚の写真は平成24年(2012)9月3日~平成26年(2014)3月31日の平成の
大修理の前の平等院鳳凰堂です。 撮影:2011-12-29


上の写真は拝観券に描かれた平等院鳳凰堂


上の写真が小生の銅版画の作品(2011年2月に印刷)です。
文章が判り難いので記載しておきます。 Phoenix Hall and Pure Land Garden
平等院について少し述べておきます。

平等院の創建は今から約960年前の永承7年(1052)関白
藤原頼通によるものです。
平等院は浄土宗のお寺ですが別名「光の寺」と呼ばれています。
自然光により阿弥陀如来や雲中供養菩薩像52躯などが様々な
表情に変わっていきます。
とにかく落ち着ける場所であります。
平等院の年中行事
1/1 修正会
3/2 関白頼通忌(鳳凰堂)
3月 春季彼岸会(浄土院)
5/26 頼政忌(墓前、扇の芝)
9月 秋季彼岸会(浄土院)
11/25 十夜会(浄土院)
12/31 除夜会(鳳凰堂、鐘楼)


小生の書いたBlogにリンクしておきます。
また2009年の訪問記にもリンクしておきます。
平等院訪問記 その2


平等院にある鐘は日本の3名鐘の一つであります。

平等院の解説 By Wikipedia
Architecture of the Phoenix  Hall
The Amitabha Hall, the central bulding of Byodoin Temple,
came to be called as the Phoenix hall in the early Edo Piriod(1600-1867).
The name of the Phoenix Hall is believed to have been given
because the entire hall looked like a bird spreading its wings
and also because a pair of Phoenixes adorned the ridge of
the Chudo(central hall) ,an integral part of the Phoenix Hall.
Byodoin temple was originally built in the early years of
the Heian period (794-1185), as a rural villa called "Uji-dono"
for court noble Fujiwara no Michinaga. After his death,
Michinaga's son Fujiwara no Norimichi inherited the villa,
and in the seventh year of the Eisho period (1052)
he turned the villa into a Buddhist temple which was then
named "Byodoin." In the following year, the Amida Hall was
constructed to provide a place of eternal rest for Amida,
the Buddha of Infinite Light and Life, and this hall still contains
architectural works and Buddha statues made around
1000 years ago.
The Phoenix Hall is also well known around the country
as it features on both the 10 yen coin and the 10000 yen note.

The Byoudoin Temple was also placed on the World Heritage
List in 1994 by UNESCO.

Introduction of Byodoin By Sacred distinations




上の写真は最近の平等院境内図。






上の写真は源頼政の慰霊墓(宝篋印塔)とその説明板及び源頼政の顕彰碑


上の写真は2017-4-11 関西テレビ よーいドンで紹介の平等院です。
岸和田の6人のオバサンが宇治を訪問する内容の番組でした
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時を刻むまち 明石

2017年04月11日 04時22分39秒 | 神戸市以外の兵庫県
明石市が作成しと地図の中に1)時を刻む街として明石が紹介されており、さらに
説明書きには2)明石海峡大橋、淡路島を臨む街、 3)柿本人麻呂
4)魚の棚商店街5)明石城
の名前が出てきます。

これらのキーワードに関連した写真を添付して明石を紹介していきます。







上の3枚の写真は上述の地図の中にあった明石の紹介
明石市の市章、市の木:キンモクセイ、市の花:キクも紹介されています。
現在の市章となる町章が制定されたのは明治44年(1911)3月30日

まず、明石市を全般を紹介するものを添付します。


上の写真は明石市のマンホールの図案です 撮影:2017-3-24


上の写真も明石市のマンホールで9月10日が下水道の日であること、2011年に
下水道が出来て100周年であることことをPRされています。
大久保小学校3年生の作品 撮影:2017-4-5


上の写真は私の銅版画の作品で明石の概要を紹介しています。2014年6月に製作


上の写真はJR明石駅北側にある看板の一部を撮ったものです
撮影:2017-4-5

ここで明石市の基本情報として人口などを添付します。
  平成29(2017)年4月1日現在
 推計人口:294,312人 

 推計世帯数:123,812世帯

 面積:49.22 km²


上の写真は明石市の市民生活指標 出典:明石市公式サイトより

最後に各アイテム毎に関連の写真を添付して終了します。

1)時を刻む街

明治17年(1884)にワシントンで開催された国際子午線会議でイギリスの
グリニッジ天文台を通る子午線がグリニッジ標準時(世界時)と定められました。
日本では明治21年(1888)1月1日より東経135度子午線の時刻を「日本標準時」
として使用されるようになった。

経度が5度違うと約20分のズレがあるのですがそれを日本全国一律に標準時で
管理運用されています。


上の写真は2013年6月10日に明石市立天文科学館を訪問した時のものです。

関連ブログ:
  時の記念日 in 明石市立天文科学館 on 2013-6-10

  明石市内の子午線のモニュメントや標識

  月照寺

  電波時計

2)明石海峡大橋、淡路島を臨む街


上の写真は明石海峡大橋と淡路島が写ったものです 神戸市垂水区より撮ったものですが・・・
 撮影:2007-11-7

3)柿本人麻呂

上の写真は柿本人麻呂の画と歌が書かれた絵葉書です。
 歌は「ほのぼのと明石の浦の朝霧に  島隠れゆく舟をしぞ思ふ」と詠まれています。
 古今和歌集の「題しらず、詠み人しらずの歌」ですが
 「この歌は、ある人の曰く、柿本人麿が歌なり」という脚注あり

万葉集にも柿本人麻呂が明石について詠んだ歌があります。
 天離 夷之長道従 恋来者 自明門 倭嶋所見
(あまざかる ひなのながぢゆ こひくれば あかしのとより やまとしまみゆ)
【現代語訳】
 遠く隔たった地方からの長い旅路に、ずっと故郷を恋しく思いつつやって
 来たら、明石海峡から懐かしい大和の山々が見えてきた。


上の写真は柿本人麻呂に所縁の柿本神社(戦前の絵葉書)

関連ブログ:明石公園と柿本神社のロウバイ on 2014-1-21

4)魚の棚商店街


上の写真は魚の棚(うおんたな)商店街 撮影:2017-4-5

5)明石城

上の写真は2016年12月1日に新装開店したパピオス明石の7階から撮った明石城
撮影:2017-4-5

明石城の概要説明を明石城パンフレット(一部加筆)より引用紹介します。

「元和三年(1617)、小笠原忠真(おがさわら ただざね)が信州松本より
明石に国替えとなり、現在の明石城より南西約1km程の所にあった船上
(ふなげ)城に入ったことから明石藩が生まれた。
現在の明石城は、元和四年(1618)徳川二代将軍秀忠が、西国諸藩に対する
備えとして、藩主忠真に新城の築城を命じたことに始まる。
徳川秀忠は姫路城主であった本多忠政の指導を受けるように命じ、3ヶ所の
築城候補地をあげ、現在の地が選ばれた。幕府は普請費用として銀壱千貫目
(時価31億円程度)を与え、3名の普請奉行を派遣している。
この頃、姫路藩本多忠政に仕官していた宮本武蔵が町割り図を作った。

石垣の普請(=現在の土木工事)は元和五年(1619)の正月に始められ、
工事は町人請負で行われたとされる。本丸、二の丸等の城郭中心の石垣、
三の丸の石垣、土塁及び周辺の堀の普請が同年八月中旬に終わり、幕府より
派遣の普請奉行はその任を終え江戸へ帰参している。
幕府直営工事は本丸、二の丸、三の丸までで、その他の郭の石垣・土塁工事は
幕府と小笠原氏の共同工事で行われている。

普請を終え、同年九月から藩主忠真により櫓、御殿、城門、塀などの作事
(=現在の建築工事)が始められ、その用材は幕府の一国一城令により廃城と
なった伏見城及び同国の三木城などの資材を用いて建てたとされている。
創建当初の坤櫓については次の資料があり、伏見城の建物を幕府からもらい受け
移築されたことを示している。
「坤ノ櫓ハ伏見御城ノ櫓ナリシヲ此度公儀ヨリ公エ下サレコレヲ建ル」
                          『小笠原忠真年譜』
「幕府から伏見御城の三重櫓一つ下され、御本丸未申の角に立候也」
                           『笠系大成附録』
各建物の建築は翌元和六年(1620)四月に完了した。

築城当初の明石城は、本丸に三層の御殿を築き、四隅に三重の櫓を配したが、
天守台の石垣は築かれたものの、天守は建てられなかった。」


関連ブログ:
  明石城 坤櫓(ひつじさるやぐら)訪問記 on 2012-11-10

  明石城の象徴 巽櫓と坤櫓

   船上城跡

   明石城 巽櫓 一般公開 見学記 on 2016-4-30
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神戸人形の展示 in KIITO on 2017-1-28&2017-2-25

2017年04月10日 04時26分38秒 | 神戸情報
2017年1月25日からデザイン・クリエイティブセンター神戸KIITOにて神戸開港150周年記念
神戸港と神戸文化の企画展 「神戸・みなと・時空」が開催されています。
その中で、日本玩具博物館が企画した 「TOY & DOLL COLLECTION」の中で
神戸人形の展示と神戸人形の歴史の概要のパネル説明がありました。

小生は神戸人形の知識は皆無の状況でしたので上記KIITOでの展示内容を利用して
神戸人形についてまとめてみることにしました。

参照:神戸と外国文化  4  京都精華大学人文学部国内フィールドワーク報告書
   京都精華大学人文学部呉研究室 1997 Page326-392

1.神戸人形とは

明治中期に現在の神戸市長田区で商店を営んでいた「長田の春さん」と呼ばれた男性が、
ろくろ首や三つ目のからくり人形を手作りしたのが神戸人形のルーツとされる。
「長田の春さん」の店の名前は野口百鬼堂?。
それよりも古い時代(1868年の兵庫開港の頃)淡路の人形師の中村某が神戸港の
黒人の船員を見て神戸人形を作ったのが最初という説もあるようです。

ユニークな仕掛けが特徴で、手のひらに乗る大きさの木製で、台座のつまみを回すと
内部の糸によって人形が動く。大正から昭和初期に主に外国向けの神戸土産として
盛んに作られ「お化け人形」と親しまれた「布引人形」という名前でも呼ばれていました。
昭和初期には作品全体が黒い色に塗られ「神戸人形」の名前が定着していきました。


ニュースサイトで読む: https://mainichi.jp/articles/20160825/k00/00e/040/164000c#csidx181f4edd0ec2af8a4b38996a661443f
Copyright 毎日新聞


上の写真は展示の説明パネル

2.神戸人形の歴史

 (1)創始期の神戸人形
 
  上の写真は創始期の神戸人形の説明パネル




上の2枚の写真は「長田の春さん」の作品


明治35年(1902)の頃には出崎房松(1883-1967)が登場し黒い色の人形も登場します。

  
 上の作品は創始期の神戸人形の作品

 (2)最盛期の神戸人形

 
 上の写真は最盛期の神戸人形の説明パネル

 小田太四郎(1883-1950)は親戚である出崎房松(前出)から技術を習い、外注などで
 ある程度、量産をして外国人のお土産として布引の売店で売られたことから「布引人形」
 の名前でも呼ばれた。神戸人形を有名にした功労者である。

 (3)再現期の神戸人形

 
 上の写真は再現期の神戸人形の説明パネル
  副題に~数岡雅敦(喜八)・キヨシマ屋・神戸センター~

 日本玩具博物館HPより引用しますが、

 神戸人形は、太平洋戦争中に岡山へ疎開した小田太四郎によって戦後も作られますが、
 小田の死(昭和25年(1950))後、しばらくは途絶えます。その後、昭和30年代中頃から、
 神戸人形の復活に取り組む人が現れました。兵庫県加古川市に住む数岡雅敦(喜八)は、
 古い神戸人形を分解研究するなどして、その再現に成果を上げました。昭和時代の神戸人形は、
 数岡のほか、神戸市内の民芸店神戸センターと元町の玩具店キヨシマ屋が製作・販売を行い、
 復元の形をとりながら伝承を受け継ぎました。数岡の作品は一体が8千円から8万円と高価で、
 普及にも限りがありましたが、神戸センター製やキヨシマ屋製の作品は、数岡に比べて細工等の
 質は落ちるものの安価で、普及版としての大きな役割を果たしました。



 

 
上の2枚の写真は最盛期の小田太四郎の神戸人形作品と戦後の作者・数岡雅敦(1928-1989)
 の作品。数岡雅敦(喜八)は数百種に及ぶ神戸人形を精力的に製作しています。

 
 上の写真はキヨシマ屋の神戸人形

 
 上の写真は神戸センター製の神戸人形

 (4)平成時代の神戸人形
  副題に~ウズモリ屋と日本玩具博物館~

 
 上の写真は平成時代の神戸人形の説明パネル

 数岡雅敦の死後も細々と作られ続けてきた神戸人形は、平成7年(1995)の阪神淡路大震災を経て
 廃絶してしまいます。海外から里帰りさせた創始期の作品をはじめ、600点に及ぶ神戸人形を所蔵
 する日本玩具博物館では、神戸人形復活を期して、度々「神戸人形」をテーマとする企画・特別展を
 開催してきました。また、平成15年(2003)からは藤尾秀久らと”日本玩具博物館版神戸人形”の
 製作に取り組んできましたが、諸事情により平成26年(2014)に製作がストップしていました。
 嬉しいことに、平成27年(2015)、神戸市在住で人形劇美術を専門とする吉田太郎氏が
 神戸人形製作をひき継いで下さることとなりました。
 ”日本玩具博物館版神戸人形”には、「西瓜喰い」「酒飲み」「釣鐘お化け」「面冠り」の4種類が
 ありますが、吉田太郎氏は、ウズモリ屋の名前で独自の神戸人形も製作されています。


 
 上の写真はウズモリ屋・吉田太郎製の神戸人形


上の写真は神戸人形作家のウズモリ屋・吉田太郎の紹介パネル


上の写真はウズモリ屋・吉田太郎さんが手掛ける作品群の説明パネル



上の写真は神戸開港150年を記念して特別に製作されたウズモリ屋・吉田太郎の神戸人形作品


上の写真は2017年12月28日まで開催予定の「TOY & DOLL COLLECTION」の年間予定表
神戸人形の展示は6月14日から10月15日まで展示予定だそうです。

また、ウズモリ屋・吉田太郎氏の講演会が2017年6月25日(日)14:00~15:30
KIITOで行われる予定。参加してみようと思っています。
詳細は下記サイト:http://www.kobeport150.jp/event/img/kobeningyo.pdf 

  
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神戸市歌

2017年04月09日 05時34分02秒 | 神戸情報
神戸市の市歌は昭和26年(1951)に「国際港都神戸」にふさわしい歌をということで、
神戸市が公募し、1000近い数の応募曲の中から選ばれた歌です。当時の賞金は、五万円でした。

作詞:木村靖弘(神戸市補訂)
作曲:信時潔(のぶとききよし)です

神戸市歌の歌詞は以下の通り

朝雲(あさぐも)騰(あが)れり 光のうずに
伸び行(ゆ)くいらかの 虹こそかかれ
伝統つとに 時代に先駆(さきが)く
絵巻とひろがる 歴史の都
栄(は)えあれ神戸 神戸 神戸 我等(われら)ひらかん

潮の香揺れひく 汽笛のすえに
七つの海原 幸(さち)よぶかどで
躍進きょうぞ 時代に勢(きお)えり
名だたる海港 世界の都
栄えあれ神戸 神戸 神戸(こうべ) われら興(おこ)さん

山脈(やまなみ)明(あ)かれり 呼交(よびこ)う声に
ころもはずみて いそしむところ
産業まさに 時代に羽ばたく
花咲き匂える 文化の都
栄えあれ神戸 神戸 神戸 われらたたえん


神戸市歌については神戸市のサイト(下記)に詳述されています。
 http://www.city.kobe.lg.jp/information/about/energy/shika/

神戸市役所では昼休みに神戸市歌が流されています。

平成27年(2015)1月11日にメリケンパークで行われた神戸市消防出初式で
藤木美和さんによる神戸市歌の斉唱の動画を撮っていますので、添付しておきます。


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