私の生まれ故郷京都府宇治市にある世界遺産平等院について江戸時代の絵図を
中心に写真紹介していきます。
出典は鈴木 康久 、西野 由紀 編「京都 宇治川探訪―絵図で読みとく文化と景観」(2007)
と神居文彰著&編 志村ふくみ(巻頭エッセイ) 古寺巡礼 京都/13 「平等院」(2007)へい
私が小学校に通っていた昭和30年代の頃平等院の境内が通学路となっていました。
その頃は拝観料はとられていなかった。
いろんな意味でなつかしい平等院に関する思い出があります。
その頃修復工事も施工されていたと思います。
調べてみると昭和25年(1950)から昭和31年(1956)まで平等院鳳凰堂の
全面解体修理が行われ、昭和32年(1957)3月に3日間にわたり修理完工落慶法要が挙行
上の写真は文久3年(1863)文:暁鐘成、絵:松川半山「宇治川両岸一覧」の平等院
平等院鳳凰堂の前の阿字池は州浜の状態ではないことが判ります。
上の写真は安永9年(1780)に刊行の「都名所図会」で記載の平等院境内図
文:京都の俳諧師秋里籬島、図版:大坂の絵師竹原春朝斎
平等院(びやうどうゐん) は宇治橋の南にあり。初めは河原左大臣融公の別荘なりしか、
その後陽成院この地に行宮を建てられ、宇治院と号し、また承平御門もこのところにて
遊猟したまふこと『李部王記』に見えたり。
それより六条左大臣雅信公の所領となりしが、長徳四年十月、御堂関白この院を得て
山荘とし遊覧の地としたまひ、その後、子息宇治関白頼通公、永承七年に寺となして
平等院と号し、法華三昧を修せしむ。
仏殿は鳳凰を象り、左右の高楼・回廊を両翼とし、後背の廊を尾とす。
棟の上に雌雄の鳳凰あり(金銅をもって造る)。風に随ふて舞ふ。かるがゆゑに鳳凰堂といふ。
本尊阿弥陀仏は長六尺の坐像にして定朝の作なり。
堂内の長押に二十五菩薩の像あり。同四壁ならびに三方の唐戸に浄土九品の相を画く。
絵師の長者為成の筆。
上には色紙形ありて観経の文を害す。中納言俊房(としふさ)の筆跡なり。
天蓋・瓔珞等は七宝を鏤め、古代の作物にして美麗荘厳他にならびなし。
鳳凰堂は永承年中、頼通公建立よりかつて回禄の災ひなし。南方の奇観とす。
釣殿観音堂は最勝院と号す。本尊十一面観音は立像にして春日の作なり。
地蔵尊・不動明王を左右にして脇壇に安置す。
このところ宇治院の釣台を建てたまひて、釣りを垂れたのしみたまふところなり。
扇の芝は源三位頼政、治承四年五月二十六日このところにおいて自殺す。
委しくは『平家物語』にあり。駒繋(こまつな)ぎ松 頼政、馬をつなぎしところなり。
鎧懸けの松 頼政、鎧をぬぎすてしところなり。
阿字(あじ)池 鳳凰堂のめぐりにある池なり。恵心僧都の作りたまふ。
鐘楼 この鐘は竜宮より上がりしといふ。園城寺の摸形にして本朝三鐘のその一なり。
阿弥陀水 鐘楼の下壇の池なり。傍らに六字の名号の石塔を建つる。
法華水 浄家方丈の西、竹林の内にあり。
楼門の跡 いまのかり橋の北にあり。焼失の後、形を遺す。
そもそも当院は天台・浄土の二流ありて、台家は三井寺に属し、寺務は円満院御門主なり。
浄家は宇治関白の御菩提所にして、心誉上人より世々浄土宗をもって当院を守る。
方丈に頼政の鎧・兜および画像あり。
『金葉』 うぢの平等院の寺主になりて、うぢに住み付きてひえの山のかたをながめやりてよめる
宇治川の底のみくづとなりながらなほ雲かかる山ぞ恋しき 忠快法師
上の写真は釣殿観音 扇芝
釣殿は創建当初に貴族達が釣りを楽しんだ殿であるが現存せず
この地に本堂があり御本尊の十一面観音(春日の作)地蔵菩薩と不動明王を左右に安置
扇の芝と書かれた石碑が見えます。
源頼政は平家打倒を提唱し、以仁王の令旨を奉じ治承4年(1180)5月26日に
三井寺の僧兵とともに挙兵したが平知盛に破れ平等院の扇の芝(現存)付近の鎧懸松に鎧を懸け
で自害した。(平家物語に記載あり)
上の写真は江戸時代の平等院の境内図です。
次に創建間もない12世紀に改修された後の平等院伽藍について文献より引用
させていただきます。
上の写真は杉本宏著 日本の遺跡6 宇治遺跡群Page52 図21のコピー
です。
上の写真も同じく上記図書のPage54 図22のコピーです。
鳳凰堂の南側に伝説の経蔵や湯屋があります。
上の5枚の写真は平成24年(2012)9月3日~平成26年(2014)3月31日の平成の
大修理の前の平等院鳳凰堂です。 撮影:2011-12-29
上の写真は拝観券に描かれた平等院鳳凰堂
上の写真が小生の銅版画の作品(2011年2月に印刷)です。
文章が判り難いので記載しておきます。 Phoenix Hall and Pure Land Garden
平等院について少し述べておきます。
平等院の創建は今から約960年前の永承7年(1052)関白
藤原頼通によるものです。
平等院は浄土宗のお寺ですが別名「光の寺」と呼ばれています。
自然光により阿弥陀如来や雲中供養菩薩像52躯などが様々な
表情に変わっていきます。
とにかく落ち着ける場所であります。
平等院の年中行事
1/1 修正会
3/2 関白頼通忌(鳳凰堂)
3月 春季彼岸会(浄土院)
5/26 頼政忌(墓前、扇の芝)
9月 秋季彼岸会(浄土院)
11/25 十夜会(浄土院)
12/31 除夜会(鳳凰堂、鐘楼)
小生の書いたBlogにリンクしておきます。
また2009年の訪問記にもリンクしておきます。
平等院訪問記 その2
平等院にある鐘は日本の3名鐘の一つであります。
平等院の解説 By Wikipedia
Architecture of the Phoenix Hall
The Amitabha Hall, the central bulding of Byodoin Temple,
came to be called as the Phoenix hall in the early Edo Piriod(1600-1867).
The name of the Phoenix Hall is believed to have been given
because the entire hall looked like a bird spreading its wings
and also because a pair of Phoenixes adorned the ridge of
the Chudo(central hall) ,an integral part of the Phoenix Hall.
Byodoin temple was originally built in the early years of
the Heian period (794-1185), as a rural villa called "Uji-dono"
for court noble Fujiwara no Michinaga. After his death,
Michinaga's son Fujiwara no Norimichi inherited the villa,
and in the seventh year of the Eisho period (1052)
he turned the villa into a Buddhist temple which was then
named "Byodoin." In the following year, the Amida Hall was
constructed to provide a place of eternal rest for Amida,
the Buddha of Infinite Light and Life, and this hall still contains
architectural works and Buddha statues made around
1000 years ago.
The Phoenix Hall is also well known around the country
as it features on both the 10 yen coin and the 10000 yen note.
The Byoudoin Temple was also placed on the World Heritage
List in 1994 by UNESCO.
Introduction of Byodoin By Sacred distinations
上の写真は最近の平等院境内図。
上の写真は源頼政の慰霊墓(宝篋印塔)とその説明板及び源頼政の顕彰碑
上の写真は2017-4-11 関西テレビ よーいドンで紹介の平等院です。
岸和田の6人のオバサンが宇治を訪問する内容の番組でした
中心に写真紹介していきます。
出典は鈴木 康久 、西野 由紀 編「京都 宇治川探訪―絵図で読みとく文化と景観」(2007)
と神居文彰著&編 志村ふくみ(巻頭エッセイ) 古寺巡礼 京都/13 「平等院」(2007)へい
私が小学校に通っていた昭和30年代の頃平等院の境内が通学路となっていました。
その頃は拝観料はとられていなかった。
いろんな意味でなつかしい平等院に関する思い出があります。
その頃修復工事も施工されていたと思います。
調べてみると昭和25年(1950)から昭和31年(1956)まで平等院鳳凰堂の
全面解体修理が行われ、昭和32年(1957)3月に3日間にわたり修理完工落慶法要が挙行
上の写真は文久3年(1863)文:暁鐘成、絵:松川半山「宇治川両岸一覧」の平等院
平等院鳳凰堂の前の阿字池は州浜の状態ではないことが判ります。
上の写真は安永9年(1780)に刊行の「都名所図会」で記載の平等院境内図
文:京都の俳諧師秋里籬島、図版:大坂の絵師竹原春朝斎
平等院(びやうどうゐん) は宇治橋の南にあり。初めは河原左大臣融公の別荘なりしか、
その後陽成院この地に行宮を建てられ、宇治院と号し、また承平御門もこのところにて
遊猟したまふこと『李部王記』に見えたり。
それより六条左大臣雅信公の所領となりしが、長徳四年十月、御堂関白この院を得て
山荘とし遊覧の地としたまひ、その後、子息宇治関白頼通公、永承七年に寺となして
平等院と号し、法華三昧を修せしむ。
仏殿は鳳凰を象り、左右の高楼・回廊を両翼とし、後背の廊を尾とす。
棟の上に雌雄の鳳凰あり(金銅をもって造る)。風に随ふて舞ふ。かるがゆゑに鳳凰堂といふ。
本尊阿弥陀仏は長六尺の坐像にして定朝の作なり。
堂内の長押に二十五菩薩の像あり。同四壁ならびに三方の唐戸に浄土九品の相を画く。
絵師の長者為成の筆。
上には色紙形ありて観経の文を害す。中納言俊房(としふさ)の筆跡なり。
天蓋・瓔珞等は七宝を鏤め、古代の作物にして美麗荘厳他にならびなし。
鳳凰堂は永承年中、頼通公建立よりかつて回禄の災ひなし。南方の奇観とす。
釣殿観音堂は最勝院と号す。本尊十一面観音は立像にして春日の作なり。
地蔵尊・不動明王を左右にして脇壇に安置す。
このところ宇治院の釣台を建てたまひて、釣りを垂れたのしみたまふところなり。
扇の芝は源三位頼政、治承四年五月二十六日このところにおいて自殺す。
委しくは『平家物語』にあり。駒繋(こまつな)ぎ松 頼政、馬をつなぎしところなり。
鎧懸けの松 頼政、鎧をぬぎすてしところなり。
阿字(あじ)池 鳳凰堂のめぐりにある池なり。恵心僧都の作りたまふ。
鐘楼 この鐘は竜宮より上がりしといふ。園城寺の摸形にして本朝三鐘のその一なり。
阿弥陀水 鐘楼の下壇の池なり。傍らに六字の名号の石塔を建つる。
法華水 浄家方丈の西、竹林の内にあり。
楼門の跡 いまのかり橋の北にあり。焼失の後、形を遺す。
そもそも当院は天台・浄土の二流ありて、台家は三井寺に属し、寺務は円満院御門主なり。
浄家は宇治関白の御菩提所にして、心誉上人より世々浄土宗をもって当院を守る。
方丈に頼政の鎧・兜および画像あり。
『金葉』 うぢの平等院の寺主になりて、うぢに住み付きてひえの山のかたをながめやりてよめる
宇治川の底のみくづとなりながらなほ雲かかる山ぞ恋しき 忠快法師
上の写真は釣殿観音 扇芝
釣殿は創建当初に貴族達が釣りを楽しんだ殿であるが現存せず
この地に本堂があり御本尊の十一面観音(春日の作)地蔵菩薩と不動明王を左右に安置
扇の芝と書かれた石碑が見えます。
源頼政は平家打倒を提唱し、以仁王の令旨を奉じ治承4年(1180)5月26日に
三井寺の僧兵とともに挙兵したが平知盛に破れ平等院の扇の芝(現存)付近の鎧懸松に鎧を懸け
で自害した。(平家物語に記載あり)
上の写真は江戸時代の平等院の境内図です。
次に創建間もない12世紀に改修された後の平等院伽藍について文献より引用
させていただきます。
上の写真は杉本宏著 日本の遺跡6 宇治遺跡群Page52 図21のコピー
です。
上の写真も同じく上記図書のPage54 図22のコピーです。
鳳凰堂の南側に伝説の経蔵や湯屋があります。
上の5枚の写真は平成24年(2012)9月3日~平成26年(2014)3月31日の平成の
大修理の前の平等院鳳凰堂です。 撮影:2011-12-29
上の写真は拝観券に描かれた平等院鳳凰堂
上の写真が小生の銅版画の作品(2011年2月に印刷)です。
文章が判り難いので記載しておきます。 Phoenix Hall and Pure Land Garden
平等院について少し述べておきます。
平等院の創建は今から約960年前の永承7年(1052)関白
藤原頼通によるものです。
平等院は浄土宗のお寺ですが別名「光の寺」と呼ばれています。
自然光により阿弥陀如来や雲中供養菩薩像52躯などが様々な
表情に変わっていきます。
とにかく落ち着ける場所であります。
平等院の年中行事
1/1 修正会
3/2 関白頼通忌(鳳凰堂)
3月 春季彼岸会(浄土院)
5/26 頼政忌(墓前、扇の芝)
9月 秋季彼岸会(浄土院)
11/25 十夜会(浄土院)
12/31 除夜会(鳳凰堂、鐘楼)
小生の書いたBlogにリンクしておきます。
また2009年の訪問記にもリンクしておきます。
平等院訪問記 その2
平等院にある鐘は日本の3名鐘の一つであります。
平等院の解説 By Wikipedia
Architecture of the Phoenix Hall
The Amitabha Hall, the central bulding of Byodoin Temple,
came to be called as the Phoenix hall in the early Edo Piriod(1600-1867).
The name of the Phoenix Hall is believed to have been given
because the entire hall looked like a bird spreading its wings
and also because a pair of Phoenixes adorned the ridge of
the Chudo(central hall) ,an integral part of the Phoenix Hall.
Byodoin temple was originally built in the early years of
the Heian period (794-1185), as a rural villa called "Uji-dono"
for court noble Fujiwara no Michinaga. After his death,
Michinaga's son Fujiwara no Norimichi inherited the villa,
and in the seventh year of the Eisho period (1052)
he turned the villa into a Buddhist temple which was then
named "Byodoin." In the following year, the Amida Hall was
constructed to provide a place of eternal rest for Amida,
the Buddha of Infinite Light and Life, and this hall still contains
architectural works and Buddha statues made around
1000 years ago.
The Phoenix Hall is also well known around the country
as it features on both the 10 yen coin and the 10000 yen note.
The Byoudoin Temple was also placed on the World Heritage
List in 1994 by UNESCO.
Introduction of Byodoin By Sacred distinations
上の写真は最近の平等院境内図。
上の写真は源頼政の慰霊墓(宝篋印塔)とその説明板及び源頼政の顕彰碑
上の写真は2017-4-11 関西テレビ よーいドンで紹介の平等院です。
岸和田の6人のオバサンが宇治を訪問する内容の番組でした