2020年10月28日、山陽電車の西飾磨駅で下車し北西の英賀城跡を目指して歩き出し
帰りは山陽電車の夢前川に南下して戻るコースで散策してきました。
巡った場所をシリーズで書いていきます。
本日はその第4回で英賀城本丸跡石碑について写真紹介します。
シリーズ過去の記事にリンク
第1回 山陽電車 西飾磨駅から夢前川までの散策記 on 2020-10-28 その1 今在家地蔵 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
第2回 山陽電車 西飾磨駅から夢前川までの散策記 on 2020-10-28 その2 英賀城広江口石碑 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
第3回 山陽電車 西飾磨駅から夢前川までの散策記 on 2020-10-28 その3 道標 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
「英賀城本丸之跡」と書かれた石碑
英賀城であったとされる土地(字「城内」)の一角に昭和35年(1960)に建立された。
上の写真は英賀城本丸跡石碑の位置 ④の場所です。
①は細川地蔵、②は英賀城広江口石碑、③は道標
上の写真は英賀城の説明書きです。
英賀城(あがじょう)
岩繋城(いわつぎじょう)ともいう。南は海、西は夢前川、東は水尾川に面し、
北は湿地帯で、守るのに大変つごうのよい城であった。
鎌倉時代には、とりでが、造られていたが、室町時代になると播磨の守護大名で
あった赤松氏の一族が守った。しかし嘉吉の乱(1441年)によって勢力を失った後、 三木氏が城主となって城をさらに整えた。
天正8年(1580年)秀吉に滅ぼされるまで約140年間三木氏は、的形から室津の間を 中心にその周辺を支配し、一大勢力を誇っていた。
城内には本丸・二の丸をはじめ、一族がそれぞれ大きな屋敷を構えた。
また英賀五坊をはじめ多くの真宗寺院、商家や住宅が建てられ、交易の盛んな港の ある城下町(四十九町、約九百軒)として大いににぎわった。
昭和13年ごろまでは図に示したように土塁が残っていたが、今では英賀神社と 英賀薬師(城主の墓所・宝寿寺跡)の北側だけに残っている。
また英賀御坊跡は昭和13年ごろ夢前川の付替工事により消滅した。
その時、瓦・礎石や日常使用していた器などが出土した。
平成6年12月 姫路市教育委員会
上の写真は英賀城本丸・二の丸周辺復原図
上の写真は英賀城跡周辺区域復原図
上の2枚の写真の図は下側が北となっていますので注意が必要
天正5年(1577年)現在の英賀城郭概要
1)城郭面積 56ヘクタール 約17万坪
2)土塁堤防延長 3,700メートル
3)城内区域延長 東西900メートル・南北800メートル
4)城門 10門
5)城郭建物 本丸・二ノ丸ほか7館
6)英賀御坊ほか35ヶ寺
7)城内町衆の数 49町 860軒
上の写真は英賀城本丸跡石碑の遠景
石碑は昭和35年(1960)1月英賀自治振興会により建立されました。
当時の英賀城址保存顕彰会のメンバーが書かれた石碑もありました。(上の写真)
英賀合戦について簡単に記述しておきます。
小寺政職が織田方に味方するとの情報を知った毛利輝元は天正4年(1576)5月、 毛利軍の浦宗勝が5000人の兵を引き連れて、姫路城の南西7kmにある英賀村 (あが村=兵庫県姫路市飾磨区英賀)に上陸する。浦宗勝は、小早川隆景の水軍を 代表する名将で、毛利水軍を支えた人物である。このとき、小寺官兵衛(黒田官兵衛) は32歳であった。黒田官兵衛は小寺政職に対して小勢(500人~1,000人程度)で 毛利の大軍に立ち向かうためには敵の不意を襲うほかないと進言し、小寺政職が 出陣を許可すると、小寺官兵衛は、農民を集めて幟・旗・鐘・太鼓を持たせて後方の 茂みに伏せ、手勢500人を率いて英賀村に到着した浦宗勝の軍に奇襲攻撃をかけ (英賀合戦)戦いに勝利した。
このとき黒田官兵衛は次のような文章を残しています。
「身を捨てて運のほどを一戦の勝負に試み給へかし」
2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では英賀合戦についての第9回、3月2日
に放送されました。
当時、この場所付近を訪問しており下に添付のブログを書いています。