CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

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松尾芭蕉の句碑 in 明石市立天文科学館前庭 on 2021-3-16

2021年03月17日 05時36分11秒 | 神戸市以外の兵庫県

2021年3月16日、明石市立天文科学館の前庭にある松尾芭蕉の句碑の写真を

撮りましたので紹介します。

上の写真が松尾芭蕉の句碑です。

芭蕉翁 本とゝ起寸 幾え行可多や 嶋比とつ(ほととぎす きえいくかたや しまひとつ)

 笈の小文(おいのこぶみ)では 「ほとゝぎす 消行方や 嶋一ツ」 と記載

 

貞亨5年3月20日(新暦換算1688年4月20日)、明石で詠まれた句と推察できます。

昔の明石郡で詠まれた句としては次の2つが有名で句碑にもなっています。

 1)「蛸壺やはかなき夢を夏の月」柿本神社・月照寺の南側に句碑

    詳細は下記ブログで記載

     蛸壺塚 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 2)「蝸牛 角ふりわけよ 須磨明石」須磨浦公園に句碑

    詳細は下記ブログで記載

     須磨浦公園 松尾芭蕉の句碑 on 2010-8-24 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

松尾芭蕉の俳諧紀行(旅行記)に神戸、明石が出てくるのは笈の小文です。

この旅は1687年10月25日に江戸深川を出発し、翌年8月末に戻るまでの長期のものです。

笈の小文(宝永6年 (1709)に刊行)は芭蕉自身の死後、大津の門人、川合乙州

(かわいおとくに)によって編集されたものです。

 

神戸及び明石に残る松尾芭蕉の句碑については下記ブログで纏めています。

  松尾芭蕉と神戸&明石 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

上の写真は現地説明板

昭和44年(1969)、中崎にあった藩主の別邸「浜の茶屋」跡から移転。

移転に当たって故 山口みつゑ先生が尽力された。

同じ敷地内に「一バンボシミツケタ」の詩碑もありました。

 

松尾芭蕉が神戸の地に足を踏み入れたのは貞享5年(同年の9月30日に元禄と改元)
3月19日(新暦換算:1688年4月19日)尼崎を船出し兵庫に夜泊しています。

時に芭蕉45歳、奥の細道の旅に出る前年のことでした。少なくとも3月21日までは
滞在していた。23日に京に帰るとの記述あり(猿雖宛て手紙)

松尾芭蕉が窪田猿雖(えんすい)に宛てた手紙(下に添付)が神戸&明石訪問
の証となっています。窪田猿雖の別名で惣七と呼ばれることもある。(伊賀上野の門人)

この手紙の中に訪問した場所が詳細に記述されています。

十九日尼崎出舩。兵庫に夜泊。相国入道の心を尽されたる経の嶋・わだの御崎・
わだの笠松・だいり屋敷・本間が遠矢を射て名をほこりたる跡などききて、

行平の松風・村雨の旧跡・さつまの守の六弥太と勝負し玉ふ旧跡かなしげに過て、
西須磨に入て、幾夜寝覚ぬとかや関屋のあとも心とまり、一ノ谷逆落し・鐘掛松
・義経の武功おどろかれて、てつかひが峰にのぼれば、すま・あかし左右に分れ、
あはぢ嶋。丹波山、かの海士が古里田井の畑村など、めの下に見おろし、
天皇の皇居はすまの上野と云り、其代のありさま心に移りて、女院おひかかえて
舟に移し、天皇を二位殿の御袖によこだきにいだき奉りて、宝剣・内侍所
あはただしくはこび入、あるは下々の女官は、くし箱・油壷をかかえて、
指櫛・根巻を落しながら、緋の袴にけつまづき、ふしまろびたるらん面影、さすがに
みるここ地して、あはれなる中に、敦盛の石塔にて泪をとどめ兼候。
磯ちかき道のはた、松風のさびしき陰に物ふりたるありさま、生年十六歳にして
戦場に望み、熊谷に組ていかめしき名を残しはべる。その哀、其時のかなしさ、
生死事大無常迅速、君忘るる事なかれ。此一言梅軒子へも伝度候。
すま寺の淋しさ、口を閉ぢたる斗に候。蝉折・こま笛・料足十疋、見る迄もなし。
この海見たらんこそ物にはかへられじと、あかしより須磨に帰りて泊る。
廿一日布引の瀧にのぼる。以下略

3月20日に芭蕉らは須磨の現光寺境内の風月庵に宿を取ったといわれている

但し、笈の小文では明石夜泊と書かれています。

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