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漆山の日向さんの供養墓 on 2021-3-25

2021年03月26日 04時06分16秒 | 神戸情報

明石市の県自動車試験場を過ぎ、右手に進路をとり第二神明の大蔵谷ICに向かう

途中の道路東側にひっそりとした小さな祠があります。

「漆山の日向さん」と呼ばれているこの祠は明石城6代藩主の日向守松平信之を

祀る祠(供養墓)です。

2021年3月25日に「漆山の日向さん」の祠の写真を撮ってきましたので紹介します。

「漆山の日向さん」の祠

上の2枚の写真は「漆山の日向さん」の松平信之供養碑の全景 撮影:2021-3-25

設置場所:神戸市西区伊川谷町有瀬762付近

上の写真は正面の拡大 松平日向守の戒名「長昌院殿従四位江月圓覺大居士」と

刻まれています。

供養墓は平成6年(1994)に同じ字体で再建され、翌年の阪神淡路大震災で被害を

受けたため復旧されたもので、300余年を経た古い塔は地下に埋蔵されています。

上の写真は裏面で「建立者 徳左エ門」と刻まれています。

上の写真は右側面で「貞享三丙寅天」と刻まれています。

上の写真は左側面で「仲秋中有二日」と刻まれています。

正しくは「仲秋中廿二日」と思います。

 【解説】
 貞享三年=1686年  丙寅(ひのえとら)の7月22日に松平信之は卒しています。
 仲秋中廿二日にしているのは7月22日に死去していますが江戸で火葬して下総古河の
 板間村に葬ったのが8月22日であるので古河藩の正式発表がこの日(8月22日)で
 あったためそのような表現となったと推定されます。

 

松平日向守信之の功績

17世紀中頃1659年より約20年間明石藩主であった松平日向守信之は、
積極的に新田開発を行った。大蔵谷、鳥羽新田、東野新田(現大久保森田)、
浜西村(魚住町浜西)、伊川谷の脇新田(吹上)、明石林崎村小久保、玉津村
水谷、永井(旧長井)、漆山、生田(旧田代)、垂水新田などを開発した。
また街道に松並木を植え防風林としたことや西区岩岡町で煙草栽培
(赤坂煙草)も奨励しました。

漆山の語源となる漆の木植えることを奨励したのも松平信之の功績です。

その威徳から村人から「日向さん」と慕われ、隣接する神出町同様「日向さん」
に関する伝承が多く残っています。

伊川谷掘割

寛文11年(1671)、生田村庄屋源左衛門と年寄三良兵衛が主となって伊川谷掘割を

開いた。旧明石郡伊川谷村前開の石堂神社の堰から同村の小寺、長坂、別府、生田

を経て太寺に到る3,092間(約5.6Km)の掘割である。この用水路の完成により伊川谷

の潤和、有瀬、太寺等の約45町歩の農地を潤した。

漆山付近もこの掘割によって灌漑された。

 

 

松平日向守信之の年譜
松平日向守信之は寛永8年(1631)父:松平山城守忠国と母:戸田氏鉄の娘との
間に次男として生まれました。長男の松平信久が早死したため嫡子となった。
父の松平山城守忠国は慶安2年(1649)に播磨明石城7万石転封され藤井松平家
初代の明石城主となりました。


以下6代藩主松平日向守信之について年譜を記載します。
慶安2年(1649) 信之(19歳):将軍家初見
承応2(1653)   従五位下日向守に任ぜられる。信之(23歳)
万治2年(1659) 父松平忠国が死去し信之が明石城主(6代目)を継承する。信之(29歳)
延宝7(1679)  大和郡山城8万石に転封。1685年まで
貞享2年(1685) 6月老中職となる 下総古河城9万石に転封。
貞享3年(1686) 旧暦7月22日(現在の暦で9月9日)老中在職中(9万石)に
         古河城(下総)で死去・・・享年56歳。 

         戒名:長昌院殿従四位江月圓覚大居士

現地説明板

上の写真は2016年8月に漆山日向さん保存会により設置された現地説明板

読み難いので左、中、右を拡大したものを添付しておきます。

上の写真は現地説明板、左面の拡大版です。

上の写真は現地説明板、中面の拡大版です。

上の写真は現地説明板、右面の拡大版です。

歴代明石城城主

明石城の築城は元和4年(1618)で初代城主は小笠原忠真。
この頃船上城から現在の明石城の位置に築城されました。
2代目城主は松平庸直(1633-1634)
3代目城主は松平光重(1634-1639)
4代目城主は大久保 忠職(1639-1649)
5代目城主は松平山城守忠国(1649-1659)

6代目城主は松平日向守忠之(1659-1679)

7代目城主は本多政利(1679-1682) 6万石
8代目城主は松平直明(1682-1701)
 明石藩主8代目松平直明公から15代松平斎宣公までの歴代の
 城主とその夫人、子供など約60基の御廟所となっている松厳山長寿院を
 紹介した小生のBlog(明石長寿院)へのリンク

9代目城主は松平直常(1701-1743)
10代目城主は松平直純(1743-1764)
11代目城主は松平直秦(1764-1784)
12代目城主は松平直之(1784-1786)
13代目城主は松平直周(1786-1816)
14代目城主は松平斉昭(1816-1840)
15代目城主は松平斉宣(1840-1844)8万石
 松平斉宣(なりこと)は徳川将軍家斉の25男で養子に来て明石城主となった
 養子に迎える見返りに2万石加増された。

16代目城主は松平慶憲(1844-1869)
 松平慶憲(よしのり)の時代、鳥羽伏見の戦い(1868)で山陽鎮撫使
(さんようちんぶし)が通過する際、それまで佐幕の方針を貫いてきた
 明石藩であったが藩の存続のため恭順した。
 江戸の明石藩邸にいた大目付の津田柳雪は脱藩し松石隊を結成彰義隊に加勢
 明治4年(1871)5月10日の上野戦争に加わった。
 上野戦争で松石隊は津田柳雪の子芳之助ら7人が戦死し壊滅。

17代目城主は松平直致(1869-1869)
   
松平 直致(まつだいら なおむね、嘉永2年8月4日(1849年9月20日) -
明治17年(1884年)6月28日)は明治2年(1869年)慶憲の隠居に伴い家督を
相続する。同年6月版籍奉還で知藩事となる。この年、鎮姫と婚姻する。

明治4年7月14日(1871年8月29日)、廃藩置県により明石県が置かれ、知藩事職を
免官となる。東京へ移住する。その後、11月2日(12月13日)に明石県は姫路県
に併合され、1週間後に姫路県は飾磨県と改称された。
明治6年(1873)廃城令により門や櫓
明治17年(1884年)に病没し、弟の直徳が家督を継いだ。

コメント
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