本日は2013年7月20日に訪問した第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮跡
現在の志貴御県坐神社について写真紹介します。
志貴御県坐神社は元伊勢神社の一つで日本書紀巻第五 崇神天皇の記述に
春日から磯城(しき)に都を移したとあります。
志貴御県坐(しきのみあがたにます)神社の基本情報
住所:桜井市金屋896 金屋の石仏から北西200m
神社西側には天理教敷島大教会
御祭神:大己貴神(おおなむちのみこと)
別名
大穴牟遅神/大名持神/大汝神:おおなむちのかみ
大国主神:おおくにぬしのかみ
大物主命:おおものぬしのみこと
八千矛神/八千戈神:やちほこのかみ
葦原色許男神/葦原醜男神:あしわらしこをのかみ
顕国玉神/宇都志国玉神:うつしくにたまのかみ
国作大己貴命:くにつくりのおおあなむちのみこと
所造天下大神:あめのしたつくらししおおかみ
所造天下大穴持命:あめのしたつくらししおおなもちのみこと
志貴連の祖神である天津饒速日命(あまつにぎはやひ)とする説など諸説あり
例祭: 9月17日
創建:不詳であるが天平2年(730)の正倉院文書の大倭国正税帳に
「志貴御県神戸・・・」との記載があり、遅くとも8世紀初頭には存在
現存する志貴御県坐神社は三輪山を背後に背負い、海柘榴市や仏教伝来地に近く、
大和平野やを見渡せる高台にあります。
現地案内板には下記のように書かれています。
「第十代、崇神天皇の皇居跡と伝えられています。
神山・三輪山を背後に背負い、歌垣の伝えで名高い海柘榴市を脚下に控えて、
大和平野を見渡す高燥の地です。
東へは、泊瀬道、伊勢を経て東国へ。
南へは、磐余道、飛鳥を通じて紀伊方面へ。
北へは、山辺の道、奈良、今日を経て北陸、日本海方面へ。
西へは、大和川の水運を利用して難波、瀬戸内海方面に繋がる交通の要衝です。
古代大和王権、発展の拠点であったとも言える場所です」
初期のヤマト政権の中心地「磯城(しき)」から志貴御県坐神社の名前と
なったことが判ります。
また、添 (そふ),山辺 (やまのべ),磯城 (しき),十市 (とおち), 高市 (たけち)
損城 (かつらぎ) の六つの県(あがた) は, 特に,六御県と称され、延喜式の式内社
として存在してきました。
上の写真は志貴御県坐神社拝殿です。
左手の献納された灯籠は明治13年、43年などの銘があり明治40年(1907)
も村社になる前からのものが残されています。
上の写真は志貴御県坐神社拝殿の側面と本殿です
上の写真は志貴御県座坐神社境内の磐境、磐座
上の写真は弁財天が祀られた摂社。
上の写真は万葉歌碑で
「磯城島の 大和の国に 人二人 ありしと思はば 何か嘆かむ」と書かれています
次に実在が確かな初めての天皇、第10代崇神天皇の皇居として伝承されてきた
磯城瑞籬宮(しきのみずがきのみや)跡に話題を移します。
磯城瑞籬宮の読みは「しきのみずかきのみや」と濁点の読みをしない文章が多い。
上の写真は第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮跡の看板と石碑。
石碑は大正4年(1915)11月に設置されたものです。
日本書紀 巻第五 崇神天皇の項に下記の記述があります。
「御間城入彦五十瓊殖天皇 稚日本根子彦大日日天皇第二子也 母曰伊香色謎命
物部氏遠祖大綜麻杵之女也 天皇年十九歳 立爲皇太子 識性聰敏 幼好雄略
既壯寛博謹愼 崇重祗 恆有經綸天業之心焉 六十年夏四月
稚日本根子彦大日日天皇崩 ・・・・中略・・・・・
三年秋九月 遷都於磯城 是謂瑞籬宮」
現代語訳は下記のとおり
「御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇)は、稚日本根子彦大日日天皇(開化天皇)の
第二子なり。母を伊香色謎命(いかがしこめのみこと)と曰す。
物部氏の遠祖、大綜麻杵の女なり。
天皇、年十九歳にして、立ちて皇太子と爲る。識性、聰敏し。幼くして、
雄略(大きな謀ごと)を好む。既に、壯にして寛博く謹愼みて、祇を崇て重む。
恆に、天業を經綸めむの心有します。
六十年の夏、四月に稚日本根子彦大日日天皇(開化天皇)崩る。
・・・・中略・・・・
三年秋九月(BC95.09)都を磯城(しき)に遷す。
是れを瑞籬宮(みずがきのみや)と謂ふ。」
日本書紀の巻第一と第二は「神代」の話
巻第三では神日本磐余彦天皇(かむやまといはれびこのすめらみこと)
すなわち神武天皇(第1代天皇)の東征
巻第四では 第2代の綏靖(すいぜい)天皇、第3代の安寧(あんねい)天皇、
第4代懿徳(いとく)天皇、第5代孝昭(こうしょう)天皇、
第6代孝安(こうあん)天皇、第7代孝霊(こうれい)天皇
第8代孝元(こうげん)天皇、第9代開花(かいか)天皇
8人の天皇について、天皇在世中の名である諱(いみな)、
没後に葬られた名の諡(おくりな)、宮居、母の名、后妃の名、子の名
御陵などが記載されています。
これら8人の天皇はさまざまな点から非実在と考えるのが定説で「欠史八代」
と呼ばれています。
8人の御陵が葛城に集中しており葛城王朝と呼ばれている。
一方、日本書紀 巻第五にでてくる第10代崇神天皇は3世紀から4世紀初め
にかけて実在した大王でヤマト政権の大王の始祖であると考えられています。
日本史研究の立場からは崇神天皇を初代天皇、あるいは神武天皇と同一人物
であるとする説が有力である
邪馬台国と大和朝廷は同一であるという認識のもと、水野正好は
「崇神天皇は卑弥呼の後継の女王であった台与の摂政だった」という説を
展開されています。
いずれにせよ、崇神天皇は大物主大神を祀り、天下平穏を願い疫病治癒の祈祷
全国を支配するために「四道将軍」を派遣し従わないものは討伐、また財政面でも
力を注ぎ戸口調査を行い税を課した。また農業も奨励し広めた。
国のまほろばを築いた天皇としてあがめられています。
上の写真は氏姓制度とヤマトの語族の分布をまとめたものです。
出典:詳説 日本史図録 第2版 山川出版社(2008)Page32
大王墓は前期の大型古墳が集中していた大和・柳本古墳群にあると考えられています。
崇神天皇の陵(みささぎ)は、奈良県天理市柳本町にある山邊道勾岡上陵
(山辺道勾岡上陵、やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)に治定
考古学名は柳本行燈山古墳(前方後円墳、全長242m)。
柳本行燈山古墳より少し前に造られた西殿塚古墳(前方後円墳、全長220m)を、
その真陵とする説(考え方)もある
上の写真は近畿の大型古墳の変遷
出典:詳説 日本史図録 第2版 山川出版社(2008)Page32
現在の志貴御県坐神社について写真紹介します。
志貴御県坐神社は元伊勢神社の一つで日本書紀巻第五 崇神天皇の記述に
春日から磯城(しき)に都を移したとあります。
志貴御県坐(しきのみあがたにます)神社の基本情報
住所:桜井市金屋896 金屋の石仏から北西200m
神社西側には天理教敷島大教会
御祭神:大己貴神(おおなむちのみこと)
別名
大穴牟遅神/大名持神/大汝神:おおなむちのかみ
大国主神:おおくにぬしのかみ
大物主命:おおものぬしのみこと
八千矛神/八千戈神:やちほこのかみ
葦原色許男神/葦原醜男神:あしわらしこをのかみ
顕国玉神/宇都志国玉神:うつしくにたまのかみ
国作大己貴命:くにつくりのおおあなむちのみこと
所造天下大神:あめのしたつくらししおおかみ
所造天下大穴持命:あめのしたつくらししおおなもちのみこと
志貴連の祖神である天津饒速日命(あまつにぎはやひ)とする説など諸説あり
例祭: 9月17日
創建:不詳であるが天平2年(730)の正倉院文書の大倭国正税帳に
「志貴御県神戸・・・」との記載があり、遅くとも8世紀初頭には存在
現存する志貴御県坐神社は三輪山を背後に背負い、海柘榴市や仏教伝来地に近く、
大和平野やを見渡せる高台にあります。
現地案内板には下記のように書かれています。
「第十代、崇神天皇の皇居跡と伝えられています。
神山・三輪山を背後に背負い、歌垣の伝えで名高い海柘榴市を脚下に控えて、
大和平野を見渡す高燥の地です。
東へは、泊瀬道、伊勢を経て東国へ。
南へは、磐余道、飛鳥を通じて紀伊方面へ。
北へは、山辺の道、奈良、今日を経て北陸、日本海方面へ。
西へは、大和川の水運を利用して難波、瀬戸内海方面に繋がる交通の要衝です。
古代大和王権、発展の拠点であったとも言える場所です」
初期のヤマト政権の中心地「磯城(しき)」から志貴御県坐神社の名前と
なったことが判ります。
また、添 (そふ),山辺 (やまのべ),磯城 (しき),十市 (とおち), 高市 (たけち)
損城 (かつらぎ) の六つの県(あがた) は, 特に,六御県と称され、延喜式の式内社
として存在してきました。
上の写真は志貴御県坐神社拝殿です。
左手の献納された灯籠は明治13年、43年などの銘があり明治40年(1907)
も村社になる前からのものが残されています。
上の写真は志貴御県坐神社拝殿の側面と本殿です
上の写真は志貴御県座坐神社境内の磐境、磐座
上の写真は弁財天が祀られた摂社。
上の写真は万葉歌碑で
「磯城島の 大和の国に 人二人 ありしと思はば 何か嘆かむ」と書かれています
次に実在が確かな初めての天皇、第10代崇神天皇の皇居として伝承されてきた
磯城瑞籬宮(しきのみずがきのみや)跡に話題を移します。
磯城瑞籬宮の読みは「しきのみずかきのみや」と濁点の読みをしない文章が多い。
上の写真は第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮跡の看板と石碑。
石碑は大正4年(1915)11月に設置されたものです。
日本書紀 巻第五 崇神天皇の項に下記の記述があります。
「御間城入彦五十瓊殖天皇 稚日本根子彦大日日天皇第二子也 母曰伊香色謎命
物部氏遠祖大綜麻杵之女也 天皇年十九歳 立爲皇太子 識性聰敏 幼好雄略
既壯寛博謹愼 崇重祗 恆有經綸天業之心焉 六十年夏四月
稚日本根子彦大日日天皇崩 ・・・・中略・・・・・
三年秋九月 遷都於磯城 是謂瑞籬宮」
現代語訳は下記のとおり
「御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇)は、稚日本根子彦大日日天皇(開化天皇)の
第二子なり。母を伊香色謎命(いかがしこめのみこと)と曰す。
物部氏の遠祖、大綜麻杵の女なり。
天皇、年十九歳にして、立ちて皇太子と爲る。識性、聰敏し。幼くして、
雄略(大きな謀ごと)を好む。既に、壯にして寛博く謹愼みて、祇を崇て重む。
恆に、天業を經綸めむの心有します。
六十年の夏、四月に稚日本根子彦大日日天皇(開化天皇)崩る。
・・・・中略・・・・
三年秋九月(BC95.09)都を磯城(しき)に遷す。
是れを瑞籬宮(みずがきのみや)と謂ふ。」
日本書紀の巻第一と第二は「神代」の話
巻第三では神日本磐余彦天皇(かむやまといはれびこのすめらみこと)
すなわち神武天皇(第1代天皇)の東征
巻第四では 第2代の綏靖(すいぜい)天皇、第3代の安寧(あんねい)天皇、
第4代懿徳(いとく)天皇、第5代孝昭(こうしょう)天皇、
第6代孝安(こうあん)天皇、第7代孝霊(こうれい)天皇
第8代孝元(こうげん)天皇、第9代開花(かいか)天皇
8人の天皇について、天皇在世中の名である諱(いみな)、
没後に葬られた名の諡(おくりな)、宮居、母の名、后妃の名、子の名
御陵などが記載されています。
これら8人の天皇はさまざまな点から非実在と考えるのが定説で「欠史八代」
と呼ばれています。
8人の御陵が葛城に集中しており葛城王朝と呼ばれている。
一方、日本書紀 巻第五にでてくる第10代崇神天皇は3世紀から4世紀初め
にかけて実在した大王でヤマト政権の大王の始祖であると考えられています。
日本史研究の立場からは崇神天皇を初代天皇、あるいは神武天皇と同一人物
であるとする説が有力である
邪馬台国と大和朝廷は同一であるという認識のもと、水野正好は
「崇神天皇は卑弥呼の後継の女王であった台与の摂政だった」という説を
展開されています。
いずれにせよ、崇神天皇は大物主大神を祀り、天下平穏を願い疫病治癒の祈祷
全国を支配するために「四道将軍」を派遣し従わないものは討伐、また財政面でも
力を注ぎ戸口調査を行い税を課した。また農業も奨励し広めた。
国のまほろばを築いた天皇としてあがめられています。
上の写真は氏姓制度とヤマトの語族の分布をまとめたものです。
出典:詳説 日本史図録 第2版 山川出版社(2008)Page32
大王墓は前期の大型古墳が集中していた大和・柳本古墳群にあると考えられています。
崇神天皇の陵(みささぎ)は、奈良県天理市柳本町にある山邊道勾岡上陵
(山辺道勾岡上陵、やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)に治定
考古学名は柳本行燈山古墳(前方後円墳、全長242m)。
柳本行燈山古墳より少し前に造られた西殿塚古墳(前方後円墳、全長220m)を、
その真陵とする説(考え方)もある
上の写真は近畿の大型古墳の変遷
出典:詳説 日本史図録 第2版 山川出版社(2008)Page32