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「海龍」下田沖で発見 旧海軍開発の特殊潜航艇  By 中日新聞プラス

2015年08月11日 14時39分26秒 | Weblog
「海龍」下田沖で発見 旧海軍開発の特殊潜航艇

中日新聞プラス 2015-8-11 5:00◆艇首に爆薬 移動中に座礁?
 旧日本海軍が特攻兵器を想定して開発した特殊潜航艇「海龍(かいりゅう)」とみられる船体が、下田港沖の海底で見つかった。県東部・伊豆地区の下田市と沼津市に海龍の出撃基地があり、過去に熱海市や下田市で二隻が発見されている。戦後七十年で発見した下田市の海洋調査会社の杉本憲一社長(68)は「戦争を考える時、実際に遺物があれば訴求力がある。歴史を反省し、これからの在り方を考えるきっかけになれば」と意義を強調した。
 杉本さんの会社「ウインディーネットワーク」は、全国で戦争遺産の調査を手掛ける。戦後七十年の節目には地元で発掘しようと、八月四〜五日に下田沖で音波と潜水による調査を行い、下田港灯台の南二百五十メートル、深さ三十五メートルの位置に船体を見つけた。長さ十七メートル、幅一メートル強で潜望鏡の部分が凸状になっている特徴から、海龍にほぼ間違いないという。
 艇首と艇尾は見える状態で水平に横たわり、さびで赤茶けて貝殻などが付着していた。潜望鏡のある部分は一部が破損。海龍は胴体左右に翼があり、翼のフラップを操作して上昇や下降をするが、翼は砂に埋もれて見えない。
 海龍は本土決戦に備えて開発されたが、実戦では使われなかった。防衛省資料によると、一九四五(昭和二十)年、神奈川県の横須賀鎮守府の指揮下に突撃隊が組織され、七月に下田に十二隻、沼津市江浦に二十四隻の配備命令が出ている。終戦直前に横須賀から油壺基地(神奈川県三浦市)や熱海付近を経由して、下田や沼津へ向かったという。
 七八年五月に熱海市網代沖、九九年九月に下田港灯台付近で、海龍とみられる潜航艇が見つかった。熱海市資料によると、網代沖で米軍の襲撃を受けて沈没したもの。下田沖の艇は戦後、艇首部分の爆薬を外して胴体部分を沈めたものだった。
 今回、下田沖で見つかった船体は爆薬の艇首部分が残っている。広島・江田島の海軍兵学校第七十四期生が九五年に発行した記念誌「江鷹(こうよう)」に寄せた元突撃隊の青山陸朗(りくろう)さん(故人)の手記は「八月十一日に横須賀から四艇が沼津の江浦に向かい、下田市須崎付近の海岸で一艇が座礁した」と記している。場所も一致しており、今回見つかった海龍とみられる。
 七十四期生のひとり徳山昭秀さん(88)=下田市白浜=は「戦後七十年がたち、若い人は海龍の名も知らないだろう。終戦がもう少し遅ければ伊豆半島が特攻の基地になり自爆する若者が出ていたことを忘れてはいけない」と話した。
(斉藤明彦)
<海龍> 旧日本海軍の2人乗り潜航艇。胴体側部に翼があるのが特徴で魚雷2本を備える構造だったが、艇首に600キロ爆薬を詰めた特攻兵器の使用が想定され「人間魚雷」ともいわれた。1945(昭和20)年春以降に製造が急激に進み、7月下旬までに224隻が完成。太平洋沿岸に基地が造られた。78年に熱海市網代沖で海龍が引き上げられ、大和ミュージアム(広島県呉市)で展示。99年にも下田港沖の海底で海龍とみられる艇が見つかっている。



関連サイト:大津島回天基地跡訪問記 on 2005-5-2

上記訪問時(2005-5-2)に撮った写真の一部

 

 

 

 
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