10/11日~14日 福島の旅
11日(木)PM10:00出発。名立谷浜Pで仮眠し12日(金)正午ほどに「いわき市錦町」到着。
父母が転勤により昭和17年~20年の4年間新婚時代を過ごした地で、母が懐かしがり67年ぶりに今回訪れたものです。昭和20年の米軍航空写真をもとに、社宅の位置を割り出していました。道筋はほぼ当時の痕を残していたので、元の社宅の位置を確認し、工場への常磐線をくぐる地下道もそのまま残っていることを確認した。工場と社宅だけが田畑の中にかたまっていたのが周囲は住宅地で埋まっていました。「艦砲射撃にあっても逃げ出さず怖がらせ、また、灯火管制のも関わらず麻雀をしていて明かりが漏れていると近所から注意をされたものです。通勤は、地下道を通ったところに事務棟があり懐かしい。勿来の駅から線路沿いの社宅までよく歩いたものです。」…亡父への土産話ができたと喜ばれ、福島を訪問した甲斐があった。
作成中
2013/4/18 編集を中止したままですが、忘れたわけではありません。
原発事故があまりにすさまじき有様で、無人の地の静寂さは今も瞼から離れません。
子々孫々に伝うべく、かの地を訪れたのですが 書きとどめる意思に至らずにいます。
11日(木)PM10:00出発。名立谷浜Pで仮眠し12日(金)正午ほどに「いわき市錦町」到着。
父母が転勤により昭和17年~20年の4年間新婚時代を過ごした地で、母が懐かしがり67年ぶりに今回訪れたものです。昭和20年の米軍航空写真をもとに、社宅の位置を割り出していました。道筋はほぼ当時の痕を残していたので、元の社宅の位置を確認し、工場への常磐線をくぐる地下道もそのまま残っていることを確認した。工場と社宅だけが田畑の中にかたまっていたのが周囲は住宅地で埋まっていました。「艦砲射撃にあっても逃げ出さず怖がらせ、また、灯火管制のも関わらず麻雀をしていて明かりが漏れていると近所から注意をされたものです。通勤は、地下道を通ったところに事務棟があり懐かしい。勿来の駅から線路沿いの社宅までよく歩いたものです。」…亡父への土産話ができたと喜ばれ、福島を訪問した甲斐があった。
作成中
2013/4/18 編集を中止したままですが、忘れたわけではありません。
原発事故があまりにすさまじき有様で、無人の地の静寂さは今も瞼から離れません。
子々孫々に伝うべく、かの地を訪れたのですが 書きとどめる意思に至らずにいます。