ぶらいやWATTY 探求の泉

人生も残り少なくなってきたので、単なる近況報告となります。

天才と狂人は紙一重

2019年06月25日 22時56分52秒 | 妄想
言い古されたフレーズですね。今回は「妄想」ジャンルで。
あまりに先進的・画期的な思考や成果をあげる人と本当に狂っている人、区別つかないことがあります。
自分が理解できない、到底不可能なことをやってのけるので、畏敬、時に恐怖を感じることがあります。
まあ、自分は数学・物理分野は全く理解できないので「天才」にしか思えない人は数多くいました。宗教・哲学分野では、言っていることの概要、実感もわかないときがあり「これは天才」と思ったことあります。学生のときは倫理社会でイエス・キリストの生涯を教えてもらったとき、最初は「狂人」と思いました。途中で「詐欺師または奇術師」のちに「天才」と考え直しました。

故・小室直樹博士の「数学を使わない数学の講義」に関する投稿を以前しましたが、たまに再読すると示唆に満ちたものが見つけられました。
P217に「科学においては、わかっているかいないかの境界がはっきりしており、しかも方法が確立しているから、分業ができる。分業ができれば、皆の協力によって積み重ねができ、積み重ねができるから進歩もできる。この点だけは科学的知識だけがもっている特性であり・・・・」

いずれは「狂人」も「天才」とわかるときがあるのもしれないが、上記のような特性をもつ「科学的知識」、これを包含・超越する何かによる集積ができるまで解明されないだろう。

「霊界」とやらがあるのかどうか、「神」が存在するかどうか、私には明確に認識できないので何とも言えませんが、世間の人達が期待するようなものでないのかもしれない。そんな世界があるとしたら肉体的制約・桎梏の無い「思考」の世界が私のイメージであり、「現世」とやらは、桎梏の中で可能な限り力を結集しなければやっていけない、皆の期待する「神」の助けなど無い修羅の世界で、世界を司る法則を発見し沿って生きなければ生きぬく力がつかないところと私は思っている(私の妄想だ)

あと、何言おうかね。。。。
私がこの人は本当に狂ったと思うときは、未知の分野、極端にはオカルトに乗り出したときでなく、非常識な対人アプローチをしたとき(人は常識世界に居ますので)、踏むべきステップを極端に省いたときである。

「転生」というのも、世間が期待するものとは違って、一部記憶・思考だけが飛んできた「別人」と思える。死んでから明確に再生した存在を私は知らないし、色々な見聞では、幼少の頃前世記憶はあってもやがて消失していて今後の人生を生きていくという例ばかり。それでは単なる別存在ではないか。ダライ・ラマはどうなのかね。積み重ねてきた過去世の記憶は明確にあるのかね。会ったこと無いから知らんけど。「人生は一度きり」と思っていたほうがいいでしょうね。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 他者を引き寄せたい、訴えた... | トップ | ジャニー喜多川氏危篤疑い。... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

妄想」カテゴリの最新記事