ドーハ世界陸上で50km競歩で鈴木雄介選手が優勝し、この競技初の金メダルを獲得したり、ラグビーワールドカップ日本大会で日本(協会)代表チームが強豪アイルランドを下したり、スポーツ界も活気出るニュースが次々とあり本当に喜ばしい。
批判的な人は「傭兵、外人ばかりで日本人とは思えない」とか「走ったほうが爽快なのに無理に歩いていて窮屈、終始見ていると長時間で苦痛」となかなか煩いが、そういう意見も少しは納得できるけど、スポーツは「ルール」に則って行われるものだ。ルール違反でなければ全く問題ない。本気でルール改正するならば正規の方法で競技団体に提言してみたらよかろう。無論、相手にされず門前払いだろう。
ラグビーだとドラマ「スクールウォーズ」を真っ先に思い出してしまう。故・平尾誠二さんが存命のうちに、ワールドカップの日本開催と今回のジャイアントキリング(強豪喰い)を見せてあげたかった。
さて、ドーピングは本当にいけないのかと、いつもスポーツを見ていると思うことがある。
勿論、「ドーピングは、スポーツ精神、フェアプレイの精神に根本的に反する」とか「深刻な健康被害を引き起こす」、武井壮さんが言うように「文化や経済を奪う行為」というのは知っており、至極当然のことと思う。
(万物を司る神や親子等の縁によって)与えられた肉体と精神を、肉体構造の改造や薬物なしで、公平にトレーニングで鍛えて競技に臨むべきというのは異論は無い。
じゃあ、何が私の心にひっかかるかというと、仮に健康被害を及ぼす程のドーピングをしなかったら、ドーピング等をしてはいけないというルールのある競技会に参加しなかったら、純粋に自分のパーフォマンスを上げて主に自己満足の為、もしくは見世物、ショービジネスの為に行うのだったら許されるのではないか、とふと思うのである。
私はマラソンとか競歩も、そしてラグビーの選手になりたいと思ったことは少年の時期からも一向にない。いかにも厳しく辛いスポーツだから。そして私の肉体が貧弱で才能もないと自覚していたからである。
ただ、競技としては単純な100m,200mの短距離走やお金の稼げる野球選手に憧れたことは少年時代にはある。それも当然、才能が無かったのですぐに断念した。その上、世界に伍していくとなると骨格や筋肉の民族的ハンディもある。
もしも、(ここから得意の妄想になるが)肉体改造や強力なドーピングでハンサムかつ強靭な肉体を得られるというなら、例え、競技に参加できなくても見世物としてでも、ハイパフォーマンスを見せつけたいと飛びつくかもしれない。遺伝子操作だってする。本当に「倫理的に」いけないのか、とふと思うのである。この気持ちは狂おしいほどの劣等感、無力感や対抗意識、狂気を持った経験がなければわかってもらえないだろう。