評論する人については、
読む人にとって、
そのキャラクターの共有が必要だとおもうんですね。
たとえば「おすぎ」。
ドコの誰だか知らないひとのブログの映画評はつまんないけど、
「知り合い」なら読もうとおもえる。
「おすぎ」はその人となりと価値観を共有できているから??
「聞ける」んだとおもいます。
映画のCMとかしちゃうのは「評論家として」どうなのか、
とかは置いといて。
徳大寺有恒の「間違いだらけのクルマ選び」がヒットした一つの理由は、
「いま売ってるの全部乗った」という「物量」だとおもいます。
いっぱしのクルマ好きならば、一台や二台乗ったことはあるわけで、
そのときの自身の「感想」に照らして、
「俺的にどうなのか」とかんがえる基準になるわけです。
マイケル・ムーアは、その目線の偏りゆえに立ち位置が明確で、
だからこそ「定規」としての正確性を増している、といえるかもしれない。
自動車評論家とか、バイクもそうですけど、
「筆者のキャラクター化」を意識した部分、ありますよね。
「カーグラ」の「車評」はすこし苦手なんですが、あれは
「公明正大」を真摯に目指そうとしているからじゃないかとおもいます。
必要ですけどね、そういうのも。
まぁ紙面全体でひとつの「人格」を形成しているのかもしれないけれどあれは。
だからというか、
なんか自宅の家財道具一切合切大公開!みたいになってますが、
やはり人様がつくったモノについて、
なにがしかのことを言うためには、
物量をこなして自らの「価値観」を披露しなきゃ成立しないだろう、
とおもっているのです。
読む人にとって、
そのキャラクターの共有が必要だとおもうんですね。
たとえば「おすぎ」。
ドコの誰だか知らないひとのブログの映画評はつまんないけど、
「知り合い」なら読もうとおもえる。
「おすぎ」はその人となりと価値観を共有できているから??
「聞ける」んだとおもいます。
映画のCMとかしちゃうのは「評論家として」どうなのか、
とかは置いといて。
徳大寺有恒の「間違いだらけのクルマ選び」がヒットした一つの理由は、
「いま売ってるの全部乗った」という「物量」だとおもいます。
いっぱしのクルマ好きならば、一台や二台乗ったことはあるわけで、
そのときの自身の「感想」に照らして、
「俺的にどうなのか」とかんがえる基準になるわけです。
マイケル・ムーアは、その目線の偏りゆえに立ち位置が明確で、
だからこそ「定規」としての正確性を増している、といえるかもしれない。
自動車評論家とか、バイクもそうですけど、
「筆者のキャラクター化」を意識した部分、ありますよね。
「カーグラ」の「車評」はすこし苦手なんですが、あれは
「公明正大」を真摯に目指そうとしているからじゃないかとおもいます。
必要ですけどね、そういうのも。
まぁ紙面全体でひとつの「人格」を形成しているのかもしれないけれどあれは。
だからというか、
なんか自宅の家財道具一切合切大公開!みたいになってますが、
やはり人様がつくったモノについて、
なにがしかのことを言うためには、
物量をこなして自らの「価値観」を披露しなきゃ成立しないだろう、
とおもっているのです。