ポエトリー・デザイン

インハウスデザイナーが思う、日々の機微。

評論とか、そういうものについて。

2005年11月29日 | blog
評論する人については、
読む人にとって、
そのキャラクターの共有が必要だとおもうんですね。

たとえば「おすぎ」。
ドコの誰だか知らないひとのブログの映画評はつまんないけど、
「知り合い」なら読もうとおもえる。
「おすぎ」はその人となりと価値観を共有できているから??
「聞ける」んだとおもいます。
映画のCMとかしちゃうのは「評論家として」どうなのか、
とかは置いといて。

徳大寺有恒の「間違いだらけのクルマ選び」がヒットした一つの理由は、
「いま売ってるの全部乗った」という「物量」だとおもいます。
いっぱしのクルマ好きならば、一台や二台乗ったことはあるわけで、
そのときの自身の「感想」に照らして、
「俺的にどうなのか」とかんがえる基準になるわけです。

マイケル・ムーアは、その目線の偏りゆえに立ち位置が明確で、
だからこそ「定規」としての正確性を増している、といえるかもしれない。
自動車評論家とか、バイクもそうですけど、
「筆者のキャラクター化」を意識した部分、ありますよね。

「カーグラ」の「車評」はすこし苦手なんですが、あれは
「公明正大」を真摯に目指そうとしているからじゃないかとおもいます。
必要ですけどね、そういうのも。
まぁ紙面全体でひとつの「人格」を形成しているのかもしれないけれどあれは。

だからというか、
なんか自宅の家財道具一切合切大公開!みたいになってますが、
やはり人様がつくったモノについて、
なにがしかのことを言うためには、
物量をこなして自らの「価値観」を披露しなきゃ成立しないだろう、
とおもっているのです。

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1 コメント

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おすぎ。 (本人)
2005-11-30 19:46:29
評論家がCMしていいんかい、というのはあるけれど、同時に「おすぎとピーコの生きざま」って、「どんなことしてでも生きのびてきたのよッ!」ということでもあるから、彼ら…彼女らのパーソナリティーとしては「正解」なんでしょうね。
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