私には4歳上の兄がいます。
兄が生まれた後、両親にとって二人目の子が流産したため、私が生まれるまで少し間隔があいたと聞いています。
幼時、私が育った大田区は、まだ畑や空き地が多く、農家には肥溜めなどもありました。水は井戸水を使い、下水道もまだ整っておらず、トイレは汲み取り式でした。1964年に東京オリンピックがあり、都内のインフラ整備は急速に進みましたが、私の住む地区の上下水道、道路舗装などは、60年代後半に持ち越されていました。
東京オリンピックのとき、私はまだ3歳でしたので競技についての記憶は全くありません。ただ、開会式の時でしょうか、東京の空にブルーインパルス(?)が五輪マークを描いていたことをおぼろげながら覚えています。
近所には子どもも多く、空き地で缶けり、鬼ごっこ、ベーゴマ、メンコなど、今は懐かしい遊びをしていました。私は兄と同年齢の仲間に混ぜてもらいましたが、体格も違うので、「おみそ」(できなくても大目にみてもらう)扱いでした。
私が小学校に入学したとき、兄は5年生でした。兄は運動能力に優れ、足が速かったので、学校対抗のリレーなどでは代表選手にもなり、私にとって誇らしい存在でした。私が同級生にいじめられていると、兄が加勢してくれることもありました。
私の小学生時代、相撲界は柏鵬時代。兄は柏戸ファン、私は大鵬ファンでした。柏戸は横綱になってから故障がちで、柏鵬戦はたいてい大鵬が勝っていたように思います。紙で相撲取りの人形を作り、紙相撲などという遊びもしていました。
「巨人、大鵬、卵焼き」という言葉もありました。わが家は当時巨人軍グラウンドがあった河川敷から徒歩15分ほどでしたので、一軍選手が来るときには練習を見に行き、自分のグローブなどに、王、長嶋、柴田、高田、森などのV9メンバーのサインをもらったりしました。
プロレスも盛んでしたね。定期的に読んでいた少年マガジンのグラビアページは、だいたいプロレスラーの流血シーンが載っていました。私たちは当時、プロレスが真剣勝負だったと信じていました。
兄が中学に進学してからは、二人の友だち、生活環境も変わり、いっしょに遊ぶというようなことは少なくなりました。兄は中学で柔道部に入り、部活で覚えてきた技を私にかけたり、受け身の仕方を教えてくれたりしました。
兄は、都立高校に進学してから、陸上部に入り、中距離の選手でした。昔から走ることが好きだったようです。
一方、プロレスがショーであるという事実を知ることになってから、兄はプロレスへの関心をなくし、ボクシングに興味を移していきました。当時の日本ボクシング界は第一期の黄金時代。柴田、海老原、大場、西条、小林、輪島など、世界チャンピオンを綺羅星のごとく輩出していました。蛙飛びの輪島功一と韓国の柳済斗の二度の戦い(敗戦とリターンマッチ)は今も覚えています。兄は、ときどき会場に足を運んで観戦していました。
私が中学2年生、兄が高校3年生のときに父が食道癌を発症。ちょうど兄の大学受験の時に入院や手術などがあって、兄にとってはかわいそうな状況でした。父は1年の闘病の後、死去。母は、その後、女手一つで私たち2人の兄弟を大学まで卒業させてくれました。
兄は、中央大学に進んでからは、特に運動部をやっていたわけではありませんが、走ることは好きなようで、青梅マラソンなどの市民マラソンで、10キロとか20キロを走ったりしていました。
ボクシングへの興味も相変わらず。モハメドアリと猪木戦、フォアマンが日本で行ったタイトルマッチを見に行ったりもしていました。野球(巨人)、ボクシング、オリンピックなどを中心に、スポーツ記事を切り抜いてはスクラップブックに整理していました。兄は大学時代に作ったスクラップブックは、優に100冊を越えます。
大学時代に学生主催の海外旅行ツアーに参加し、ヨーロッパの国々を回ったこと(当時は、海外旅行はまだまだ珍しかったです)がきっかけでしょうか、就職は旅行会社に決めました。
私は大学卒業後まもなくして結婚、新婚旅行に行ったモルジブは、兄の旅行会社が開拓した観光地でしたので、予約などの手配をしてもらいました。
ただ、結婚後、私は別居し、またその後長期に韓国に駐在することになりましたので、兄と顔を合わせる機会は少なくなりました。韓国駐在中に、兄の家族が韓国に遊びに来てくれて、済州島を観光したこともあります。
青年期はスポーツマンだった兄も、社会人になってからは運動不足だったのでしょう。糖尿病を患うなどしていましたが、50歳ごろになって、ボクシングジムに通うようになりました。ジムの経営者は輪島功一。元世界ジュニアミドル級(今のスーパーウェルター級)チャンピオンです。
ボクシングとは言っても、実際になぐり合うのではなく、リングの上でシャドウボクシングを行い、その格好を競う「エアボクシング」。老若男女が楽しめるスポーツとして、日本で生まれたスポーツです。
私が仕事でときどきタイに出張するので、「グローブを買ってきてほしい」などと頼まれたことがあります。
私が韓国から帰任してからは、ときどき池袋のコリアンバーで飲み、カラオケを歌ったりすることもありましたし、出身大学の中央大学の応援に、神宮球場で東都大学野球を一緒に観戦したこともありました。
毎年正月の箱根駅伝は楽しみの一つで、駅伝コースに街頭応援に行くこともあったそうです。
エアボクシングのほうは、競技の歴史は浅いのですが、近年は大会も開催されるようになり、兄も、昨年の11月には「60代の部」で出場、後楽園ホールのリングに上がりました。
しかし、あまりにも熱心に練習しすぎたのか、右腕に腱鞘炎を起こし、最近は練習を休止していたようです。
そんなときに話があったのが、東京マラソンへの参加。協賛企業が参加枠を持っていて、兄の勤務する会社がその取引先だったので、参加の誘いがあったのでした。若いころに陸上をやっていて、青梅マラソンに出場したこともあった兄は手を挙げ、健康診断でも問題なかったので、参加枠を獲得することができました。エントリーが決まってから、毎朝、出勤前に自宅近くの多摩川河川敷で5キロ近く走っていたとのことです。
ただ、今回は青梅マラソンとは違ってフルマラソン。兄も、フルマラソンは経験がなく、参加枠を提供してくれたスポンサー企業が主催する合同練習会に参加していました。練習会は4回あり、5キロ、10キロ、20キロと次第に距離を伸ばし、最後の4回目には42.195キロを走って本番を迎えるという段取りだったそうです。
兄の奥さんから私のスマホに電話があったのは、金曜日の午後。涙声で、「兄が突然亡くなった」、と。突然の訃報に文字通り絶句しました。
遺体が安置されていた湾岸警察署には、練習を主催していた企業の方々もみえていました。家族や主催者の話では、その日、会社を休み、第3回目の合同練習で20キロを走り切ったあと、参加者がクールダウンやストレッチなどをしているときに、兄は一人で運動場のトイレのほうへ向かい、その途中で倒れているのを通行人に発見され、119通報で救急車で病院に搬送されるも、すでに心肺停止の状態だったとのこと。
毎年受診している人間ドックでは心臓の疾患を指摘されることもなく、ボクシングと朝のランニングで日頃から体を鍛えていたそうですから、まさに予想もしていなかった「突然死」でした。
検視官の話では、心嚢の破裂でほぼ即死、苦しみはほとんどなかったのではないか、とのこと。
一昨年の秋に60歳になり、同じ職場で嘱託社員として勤務を継続していましたが、一人息子も再来年には就職予定、2020年の東京オリンピックの前にリタイヤし、通訳ボランティアをするために最近は知り合いの台湾人から中国語をならっていたそうな。自宅がかなり広いので、オリンピックのときには外国人が「民泊」できるように改装したとも聞いていました。
楽しみにしていた東京オリンピックが見られないのは無念でしょうが、昔から好きだったスポーツに打ち込んでいるときに亡くなったのは、本望だったかもしれません。
父が亡くなったとき、兄は大学1年でしたが、今、兄の一人息子は就職まであと1年ちょっとですから、そんなに心配することはないでしょう。
あまりにも早すぎる死でしたが、天国から残された家族を温かく見守ってくれればと思います。
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反省文を書くようにw
まだまだお若いのに残念なことでした。
私もランニングが好きなので、お兄さんのお気持ちは少しわかります。
ご遺族の皆様にはお力落としされませんようお願い申し上げます。
当時はジュニアミドル級、今はスーパーウェルター級なんですね。
輪島功一も、最初は公一だったと記憶します。
兄は愛煙家でした。死因と煙草の関係は不明ですが、煙草をやめることを真剣に考え始めています。
ましてや二人きりの兄弟、お悔み申し上げます。
娘が生まれて更に肩身が狭い今、私も禁煙を…と思いつつ、
酒と煙草と本を読む至福から離れられそうにありません。
5人兄弟とはうらやましい。育てるほうが大変でしょうけれど、大人になってみると、兄弟がもっといればよかったと思います。