犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

洪思翊②~忠誠

2007-05-29 00:16:41 | 近現代史
 山本七平の『洪思翊中将の処刑』は,韓国でも翻訳出版されたようですが,現在絶版。

 次は,ノ・ムヒョン政権になってから,親日反民族行為者リストの選別作業が行われる中で出た新聞記事。文化日報2002年3月13日の拙訳です。


[時論]親日派洪思翊

 「朝鮮人洪思翊です」
 洪思翊は日本の植民地期,朝鮮人出身として唯一日本帝国陸軍中将にまで昇った軍人で,戦後A級戦犯として処刑された。かれは日本帝国の将軍でありながら,最後まで創氏改名を拒否したまま洪思翊という名前で通した。そして軍隊内で自己紹介するとき,常に朝鮮人であることをまず明らかにした。軍首脳部さえ,彼のこのような頑さを曲げさせることができなかったそうだ。

※「A級戦犯」は誤り。捕虜虐待の罪,すなわちBC級戦犯です。

 最近,国会内の「民族の正気を建て直す議員の集い」による親日反民族行為者708人名簿の発表と関連して,再び彼の名が挙がった。発表時の名簿には含まれていないが,彼については諮問委員たちによる「提言」の4番目に取り上げられた。それによれば,「光復会で審議した692人にはチョン・ウンボク(安重根の伊藤博文処断に対する謝罪団団長),イ・イクフン(警察所長),洪思翊(将軍)など,親日反民族行為が歴然としている人士が漏れている。次の機会には名簿に入れることを望ましい」となっている。

 朝鮮朝末期の1887年,京畿道安城(アンソン)の貧寒な農家に生まれた洪思翊は,16歳のとき武官学校に入学したが,大韓帝国皇帝の命令で留学生として日本陸軍中央幼年学校に入る。しかし学業に精進していた途中の1910年,大韓帝国は日本に併合されてしまう。1900年6月19日に発表された大韓帝国皇帝の軍人諭勅を胸に抱いていた洪思翊と,同じ境遇の仲間にとって青天の霹靂の事態だった。彼らは秘密裏に会い,今後の身の処し方について議論した。全員脱走して帰国しようなど,さまざまな意見が出たが,ほとんどは洪思翊の主張のとおり,勉強を続けることにした。

 ここで最初の疑問は,洪思翊はなぜ祖国を失った武人の立場で学業の継続を主張したのかである。

 二つ目は,陸士生の時期に前後して,仲間から脱走と光復軍への参加を勧められたのにそれを拒んだ点だ。彼は仲間の一人,すなわち後に独立軍として名を馳せる李青天の誘いにもかかわらず,日本軍将校として残留する。一方で彼は自分の給料から,脱走して独立軍に走った者の残された家族に献身的に援助する。
 苦難よりは栄華を選んだ者の,わずかばかりの良心ゆえだったのか。

 日本帝国軍隊の将校として服務しながら,彼は毎年,新年に李王家への挨拶を欠かさなかった。最後まで大韓帝国皇帝の軍人諭勅を捨てなかったという彼の振る舞いは,このように矛盾があるように見える。洪思翊は後に,李王家以外では朝鮮人として唯一陸軍大学を出,将軍にまで進級する。そして中将だった1944年,フィリピン戦時捕虜司令官に赴任し,敗戦とともにA級(BC級の誤り)戦犯に分類される。

 三番目の疑問は,彼が長い裁判の過程で,ただの一言の弁明もなしに沈黙を通したという点だ。彼の心の中には,日本人が行った捕虜への残虐行為のいっさいを彼のせいにし,日本人の身代わりに絞首台に送るのではないかという疑惑や憤怒がわかなかったのか。あるいはマッカーサー元帥の焦りにたいし,嫌味のひと言ぐらいは吐けたのではないか。実のところ,マッカーサーはフィリピンで初期の日本軍の破竹の勢いに押され,自分の部下たちを捨て,一人逃げ出したという過去があったため,捕虜虐待問題についてどうしてもスケープゴートが必要な状況だった。洪思翊はなぜ何も言わなかったのか。

 洪思翊は1946年9月26日,処刑場へ移送され,絞首台に登った。彼が最後に立会人に頼んだのは,旧約聖書詩篇51篇の朗唱だった。「私が罪悪の中に生まれたのであり,母親が罪の中に私を身籠もったのだ。内心に真実であることを主は望まれるゆえ,私の中に知恵を知らしめたまえ」

 洪思翊の長い沈黙を,今日を生きるわれわれはどう受け止めるべきか。そして後世の人々の彼に対する親日派の仕分け作業を彼自身はどう受け止めているだろうか。洪思翊の忠誠の対象ははたして日本の天皇だったのだろうか。そうでなければだれだったのか。最近の親日派論争を見ながら感じる断想は,人間とはわれわれが考えるよりずっと複雑な存在だという点だ。(イ・シンウ論説委員)


 イ・シンウ論説委員も,たぶん洪思翊を「親日派」に分類することに疑問を持っているのでしょうが,こういう微妙な問題にははっきりした意見を言えないのが,現在の韓国の雰囲気です。

「洪思翊の忠誠の対象は何か」

 これは,著者山本七平の執筆動機でもありました。山本氏が韓国に渡り,洪思翊を直接知る人にしつこいぐらいに問い質したが,はっきりとした答えは得られなかった。「自らの決断への忠誠」といった,漠然としたイメージだった。

 その後,日本に帰国し,終戦を洪中将と共にした通信隊の日本人の話を聞いて,はじめて「自己の決断への忠誠」ということの意味が理解できたという。

 戦争が終わったそのとき,フィリピンの山中で洪中将に,

「これで韓国は独立する,洪中将も帰国されて,活躍されることでしょう」

といった意味の祝いの言葉をのべた。
 そのとき洪中将は威儀を正して

「自分はまだ制服を着ている,この制服を着ている限り,私はこの制服に忠誠でありたい。従って,これを着ている限り,そういうことは一切考えていない」

と言われた。
 すでに天皇の威力もそれへの忠誠も消え,それへの忠誠を基にした軍紀の有無も怪しかったあの混乱状態の中でこの言葉を聞けば,だれでも,忘れ得ぬ感銘をうけるであろう。洪中将は,自らの決断で帝国軍人の制服を着たのだった。自分がそれを着た決断は,天皇が消えようと日本軍が壊滅しようと変りなく,自らの意志と決断でその制服を脱ぐまでつづく,ということであろう。
 自らの決断への忠誠とは具体的にはこういう態度なのであろう。

 これが著者山本七平の結論でした。

 山本氏は自らも同じフィリピンの戦場をさまよい,そこで終戦を迎えましたが,自己を振り返るとき,
「制服への忠誠などという意識は微塵もなかった。否私だけでなく,将官幕舎で会った将官たちから一兵卒に至るまで,だれ一人,制服への忠誠などという意識はなく,そういう言葉は聞いたこともなかった。…そのさまは,洪中将と比較すれば,何となくここへ運ばれて来てしまった意志なき者の集団に見えた――将官に至るまで……」

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2 コメント

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yujc@ymail.com (劉 俊哲)
2011-12-01 01:23:32
Hi! Dear Mr/Mrs.
(I am writing ds letter assuming U read English.)

I don't read 日本語. Sorry.
My mother's father was 洪 思翊, 洪北乭, who passed sm yrs ago in Toronto, Canada.

When she lived, many of her high-school friends visited Korea, as well as Canada.

Even at the ages of 80s. I respected them all.

Now, esp. today I became to hear "Sukiyaki", which I hv bn looking for d correct name for many many yrs.

So i enjoyed to listen fm You-Tube.
And suddenly became to remember Mother and her favorited Father(in fact Her father's younger brother, though she lived more closer to d General in Tokyo, middle as well as High school).

. . . .

. . . . .

Would U please to write d above Japanese writing into English for me to read and understand the story what U wanted to tell to the ppl?

Thank U

and God Bless to U
with Ur Good Health.
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코맨트 감사합니다. (犬鍋)
2011-12-18 22:32:47
답변이 늦어 죄송합니다.

저는 이 기사에서 일본에서 간행된 책인 ‘홍사익 중장의 사형’의 내용을 요약 소개했습니다.

저자인 야마모토 시치헤에 씨는 패전시 필리핀에서 미군의 포로가 되어 우연히 홍 중장을 처형하기 위한 건물을 만드는 작업을 담당했답니다.

책은 홍 중장이 일본 제국 육군 군인으로서 얼마나 훌륭하게 살아냈는지 원죄임에도 불구하고 아무 변명도 하지 않고 의연있는 태도를 끝까지 지켰는지를 그렸습니다.

이 책을 읽은 일본인은 대부분 중장의 생애에 감명을 받을 것이고 가장 훌륭한 한국인의 한 사람으로 오래 기억할 것라고 생각합니다.
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