海鳴記

歴史一般

続「生麦事件」(35) 

2008-11-12 11:00:38 | 歴史
 前回、どうもわからない、という不本意な結果に終わってしまったが、考えてみれば、たかだか百数十年前の日本語の手紙を日本人が読めなくなっているというのは、情けないというか悔しいというか、どうしようもない断絶を感じてしまう。同じくずし字でも奈良原繁などはかなりましなほうで、というより達筆で正統的なくずし方だと思うので、私のような古文書解読を習い始めた者でもある程度内容はつかめるが、書いた人物によっては、かなり古文書に慣れている人でも悩まされるという。特に明治以降に個性的なものが多くなっているというのだ。私は、奈良原繁の子孫氏から、繁の四男である奈良原吉之助氏が、昭和10年代に書いたものを送ってもらったが、これもくずし字で、おまけに悪筆に近かったので、私ばかりか、かなりくずし字に慣れていた人をも悩ましたのである。ということは、戦前まで候文は当然のことながら、手紙などはくずし字が一般的だったのであろう。近代の歴史を勉強する人でも、先ず近世の古文書解読から始めなければならないとすれば、ご苦労さまと言いたい。

 閑話休題。奈良原繁の手紙は、幸いなことに、初心者の私でも比較的読み易く、この字のくずしだといわれればほぼ納得できるものがほとんどだが、海江田の手紙のコピーをもらったときは、唸ってしまった。最初の挨拶文から読めない。そして、解読文をもらったあとでも、どうしてこの文字がこう崩れていくのか説明を聞いてもよくわからなかったのである。
 奈良原繁と海江田信義の書簡をここに写真版で載せられないのは残念だが、繁と海江田は深い関係があるのだから、脱線ついでに、次回、この海江田の手紙を掲載してみたいと思う。海江田を知ることは、より繁を知るということにもつながっていくのだから。特に私は、明治20年代、海江田が何をしていたのかあるいは何を考えていたのか非常に興味をもっているのである。



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