海鳴記

歴史一般

続「生麦事件」(32) 奈良原繁書簡(22)

2008-11-09 09:39:35 | 歴史
小官ニも近年中都合を以今一度実地ニ相臨
尚確実之方法も設置度事ニ存罷在候
今般吉井少輔殿実地見分も有之候由ニ付
御帰之上者同人ヨリ模様御聞取被遣不行届
之廉も候ハバ小官江迄御通シ相願度奉存候
先者此段御礼申上度乍御妨毎之乱筆を以
奉得鳳意候 以上
五月四日        奈良原繁
大隈重信様

 慶応4年4月には、太政官制が布かれ、それに従事する役人は官員というようになったので、もし明治3年段階で、奈良原繁が行政官なり刑法官なりの仕事に従事していたなら、この小官もおかしくない。だが、今のところそういう事実は見出されていないのだ。「明治維新史談会」の田村貞雄氏にこの疑問をぶつけたところ、宮内庁書稜部に、未だ刊行されていないこの時期の官員名簿があり、一部コピーを持っているから調べてみようと言ってくれたので、今それを待っているところだが、私はないと考えている。
 どうも内容から判断すると、明治11年以降(16年ごろまで)の安積疎水事業に従事していたころではないか、と思われるのだ。
 それに、「旧知事」の「知事」は、明治4年の廃藩置県後、旧藩主らがほんの一時期任命された職のようだし、明治10年代に旧藩主を旧知事と言ったとしも何の不思議もない。「吉井少輔」(注)という官職だって、明治18年まで、内務卿、大蔵卿、あるいは内務大輔、大蔵大輔という地位があったのだから、明治10年代に、「吉井(友実)少輔」が出てきても何の不思議もないのである。
 とにかく、明治2年2月、鹿児島藩の側役を最後に藩政から身を退き、明治4年10月に鹿児島県庁に出仕を命じられるまで浪人の身だったと考えたい。
 そしてそう考えないと、その後の繁がまたまた久光とべったりとなり、島津家の家令となったり、島津家が実質的に経営していた第五国立銀行の頭取になったりしている理由がわからないのである。

(注)・・・『日本史総覧』の「明治前期要職一覧」では、吉井(友実)は明治17年7月8日(明治19年2月5日まで)に「宮内大輔」に任命されている。






1 コメント

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解読修正 (冤罪事件追及者)
2008-11-20 15:03:18
いつも書簡解読のお世話になっている西ヶ谷氏より奈良原書簡の釈文がメールを通して送られて来ています。その都度修正しておりますので、ご参考にしてください。
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