大型連休も終わりました。新作を執筆しなければ、と思いながらも、やや停滞気味です。頑張らねばと思います。
今回は『幻影2 荒原の墓標』第17回です。
3
午前一一時前に葵の家を出発した。賤機山に登るので、みんなは軽いハイキングができるだけの装備をしていた。葵のマンションから西を眺めると、低いながらも賤機山の山並みが、静岡市の街を前景に、堂々と鎮座している。美奈たちは登山口である浅間神社まで歩いた。途中のスーパーマーケットで、ペットボトル飲料やおやつなどを買った。葵がパートで勤めているスーパーだ。
「中村さん、今日はお休みですね。お友達とハイキングですか?」
ラフな格好でデイパックを背負っている葵たちの一行を見て、同僚のレジのおばさんが、葵に尋ねた。
「はい。名古屋にいたころの親友がはるばる訪ねてきてくれたので、今日は賤機山に登ってきます」
「まあ、それは遠いところから。頑張ってきてください。賤機山はいい山ですよ」
レジのおばさんは美奈たちに郷里の里山を自慢した。
葵のマンションから浅間神社までは、約二キロの道のりだった。神社の一〇〇段以上ある石段を登るのはきついので、大鳥居の左側の、交番の脇道からハイキングコースに入った。少し行くと、賤機山古墳がある。中に入ることはできないが、覗くことはできる。中を覗くと照明がついており、石棺のようなものが見えた。古墳の脇には模型があり、写真や図を添えて、わかりやすく説明してあった。
道はしばらく階段になっていた。キノコのような形をした休憩所があったので、そこで一休みした。
「葵さん、強くなったね。ここまで全然息が上がってない」
ハアハアあえぎながら恵が感心した。葵と美奈は汗をかいていても、全く息を切らしていない。登山口に入る前に、暑い市街地を三〇分以上歩いてきたので、みんなバテ気味だった。汗かきの葵は、盛んに顔や首筋の汗をぬぐった。
賤機古墳の模型
「私、最近タトゥーにかかりっきりで、運動してなくて身体なまってるから、けっこうきつい。おなかも空いて、シャリバテだよ」
シャリバテとは、登山などで長時間運動をして、血糖値が著しく低くなり、動けなくなってしまうことだ。
「さくら、あんたまだ若いでしょう。三〇近いおばさんが頑張っているんだから、しっかりしなさいよ」
二八歳の葵が自らをおばさんと言って、さくらを叱咤した。さくらは二三歳だ。さくらはトヨと共に、卑美子や隆一の手ほどきにより、ときどき空手の稽古をしている。心身の鍛練を重視する、卑美子の方針だ。それでも運動不足は否めない。
「葵さんがおばさんなんて言わないでくださいよ。私だって一一月で二八になるんですよ。葵さんはまだまだ若いです」
トヨが長袖をまくりながら、口を挟んだ。トヨが長袖の腕を肘までまくると、鮮やかなタトゥーが露わになる。
「暑いから袖まくりたいけど、やっぱり目立つんでまずいかしら?」
「それぐらい、いいんじゃないですか? きれいだし。でも、日焼けしたり、木の枝で肌を引っかけたりしないように気をつけてくださいね」
葵が笑いながら応えた。トヨの左腕には自分で練習として彫った、花や蝶、スカルなどのタトゥーが入っている。右の前腕部は卑美子の作品である、美しい古代の王妃の絵が彫ってある。トヨというアーティスト名の元となった、邪馬台国(やまたいこく)の女王、台与(トヨ)をイメージした図柄だ。
「それじゃあ私もまくっちゃお」 とさくらも両方の袖をまくった。さくらの左右の腕には、肩から手首まで、最近トヨに彫ってもらった龍が入っている。右腕には肩に頭がある青い昇り龍、左は手首を頭にした、緑の下り龍だ。余白の部分には桜の花が散らしてある。
「あら、さくらも腕までやっちゃったの?」 と葵が驚いた。
「うん、やっぱりタトゥーアーティストになると、どんどん増えてっちゃう。最近、みんなタトゥーが増えたよ。メグさんも背中に龍を彫っちゃったし。私が彫ったんだけど」
「友達にタトゥーアーティストがいると、ついやりたくなっちゃうんだから。私も悪の誘惑に負けちゃったわ」
「え、すごい。マンションに帰ったら見せてね」
「まだ彫り始めたばかりで、やっと色が少し入ったところだけど」
恵はマンションに戻って、シャワーを浴びたら、葵に見せると約束した。
しばらく歩くと、ベンチがいくつかある広場に出た。そこはかつて、リフトの山頂駅だったという。一九七四年七月七日の七夕豪雨で、山崩れが起き、リフトは廃止になった。この広場はその山頂駅の跡だそうだ。
東西の見晴らしがいい。美奈が持ってきた小型の双眼鏡で、みんなは景色を楽しんだ。しかし、大気中の水蒸気が多いせいか、どんより靄がかかっていて、期待していた富士山は見えなかった。左側は安倍川(あべかわ)が流れており、そのすぐ向こうに山並みがあった。遠くの南アルプスの山並みは霞んでいた。よく晴れてはいるものの、遠方の山までは見渡せず、残念だった。大気が澄んでいる冬なら、真っ白に雪化粧をした富士山や南アルプスがきれいだろうな、と美奈は想像した。

「うちのマンションはあのあたりよ」 と、葵が指さしてみんなに教えた。さくらがその方向に、双眼鏡を向けた。
「ここでお弁当にしましょうか? みんな朝早かったから、おなか空いてるでしょう?」
もう一二時近いので、葵が提案した。
「賛成。私、もうおなかぺこぺこ。朝食べたの、七時前だもんね。おなかの虫が、腹減った、めし食わせろって鳴いてる」
さくらが一番に賛成した。ほかにも何人もの人たちが休憩しているので、葵は広場の隅の、他人の邪魔にならない、日陰になる場所を探して、シートを敷いた。静岡の街並みが眼下に見下ろせる。みんなはシートの上で弁当を広げた。日差しが強いので、トヨとさくらは、腕まくりした前腕部にも、日焼け止めを塗った。
葵が作ってくれた握り飯を、みんなで分け合った。
「さくらは大食らいだから、一個余分に、おにぎり四個ね」
「乙女に向かって大食らいはひどいですぅぅ、葵さん。乙女心が傷ついちゃいました。せめて食いしん坊ぐらいにしといてください」
さくらが口をとがらせて、葵に抗議した。そう言いながらも、さくらはちゃっかり四個を自分の分として確保した。その様子を見て、みんなが笑った。
野菜の煮物やサラダ、ウインナーソーセージなどをつまみながら、楽しく食事をした。美奈がガスストーブで湯を沸かし、コーヒーを淹れた。美奈は自分の飲み水以外に、みんなの分として、一・五リットルのペットボトルいっぱい水を持ってきていた。
「熱いコーヒーでは余計に汗が出てしまうかもしれませんが」
美奈は紙コップにコーヒーを注(つ)ぎながら、みんなに勧めた。
「いいえ、インスタントじゃない、本格的なコーヒーを山でいただけるなんて、最高ですよ」
コーヒー好きのトヨが喜んだ。さくらは六グラム入りのスティックシュガーを二袋入れたので、みんながあっけにとられた。
「そんなに入れて、甘すぎるんじゃない? 太るわよ」 と葵が注意した。
「大丈夫。今日はたくさん歩くから、これぐらいの糖分なら、すぐ消費しちゃうから。私、甘いコーヒーが好き。いつもはお砂糖少なめで我慢してるんだから」
食後、しばらく休んでいたら、五〇年配の女性がトヨとさくらの腕のタトゥーを見て、 「それ、描いているんですか?」 と興味深げに声をかけた。
「あ、これ、タトゥー、いれずみなんです」 とトヨが応えた。
「いれずみなんですか? もう一生消えないの?」
その女性は二人の鮮やかなタトゥーに驚いた。
「はい。皮膚の表皮の下まで、針でインクを刺して入れるので、もう一生消えないんです」 とトヨが説明をした。
「そんなことして、痛いでしょう。でも、いれずみというと、怖いイメージがありましたが、きれいなものですね。龍だって、こうして見るととてもきれい。桜の花もたくさんあるし。こんなの、初めて見ました」
「今は女性でも、けっこうファッション感覚で入れてるんですよ。私たち、名古屋でタトゥーのスタジオをやってるんです」
両腕に龍を入れているさくらが言った。
「え、あなたがいれずみを彫る人なんですか? 今はあなたたちみたいな若い娘さんが、そんなことやってるんですね。いれずみを彫る人といったら、怖そうなおじさんをイメージしちゃいますが。今日は珍しいものを見せてもらいました」
その女性は一言お礼を言って、先へ進んでいった。
「やっぱり、袖は下ろしておいたほうがよさそうですね。目立ちますから」
そう言ってトヨとさくらは袖を下ろした。
それから五分ほど歩いて、観音像がある広場に着いた。その観音像には“静岡市戦禍犠牲者慰霊塔”とある。案内板によると、そこが浅間山山頂一四〇メートルとなっている。賤機山はさらに先の、賤機城跡があるあたりだという。
観音像
観音広場を過ぎると、それまでの整備されたハイキングコースとは一転、いかにも山道という感じの道になった。葵が先頭を歩き、 「これからはちょっと厳しい道になりますよ」 と警告した。
しばらく下りが続いたが、今度は急な登りとなった。ロープや鎖を張った険しいところもある。たかだか一七一メートルの山だと思っていたら、意外と登り甲斐がある。最近よく山を歩いていて、けっこう歩き慣れた葵も、息を弾ませた。ときどき山頂の方から下ってくるハイカーとすれ違い、挨拶を交わした。
深い樹林の中を歩き、ようやく賤機城跡に着いた。城跡といっても、今はうっそうとした樹林の中だ。セミの鳴き声がやかましい。ふだんあまり聞くことがない、ヒグラシの鳴き声も混ざっており、珍しかった。美奈は猿投山の登山口である雲興寺(うんこうじ)の近くで、ヒグラシの声を聞いたことがある。本丸跡にはそれを示す石碑と、城の説明を記した案内板が立っていた。
先を行くと、左右が開けているところがあり、景色を眺めることができた。稜線上に野菜畑や茶畑があった。畑の世話をしている人にも出会った。そんな光景を見ていると、賤機山の山並みは、いかにも市街地に近い里山なのだと実感できた。
山上の茶畑
ところどころで舗装された農道に出る。そしてまたすぐに樹林の中に入る。
農道に出てから、ずっと舗装された道を歩き続けた。もう一〇分近く歩いている。左側は稜線に続く斜面、右手は下り斜面に茶畑やみかん畑が広がっている。
「おかしいわね。この前下見に来たときはこんなに舗装された道を歩かなかったのに。でも、左側に、稜線に入る道標ってなかったよね」
「はい。私も注意して見ていましたが、ありませんでした」
一番後ろを歩いていた美奈が応えた。
「でも、絶対おかしい。稜線はあんなに高いところにあるのだし。途中で道を見落としたとしか、考えられないわ」
葵は左手の稜線を指した。稜線はずっと上の方にある。
「わかるところまで引き返したほうがよさそうですね」
美奈が決断した。
「ええー、引き返すの? そのへんから上に上がれる道ないんですか?」
さくらは不満そうに言った。
「みかん畑や茶畑を突っ切って稜線に出るなんて、ちょっと無謀よ。美奈の言うとおり、引き返すほうがいいわ」
葵が美奈に賛成した。
今来た道をしばらく戻ると、二台の車が駐車してあった。その車の向こうを見てみると、そこにルートを示す道標があった。
「この車が道を隠していたのね。道理で見落としたはずだわ。こんなところに駐めるだなんて、迷惑よ」
ふだんはおおらかな葵も、憤懣やるかたないといったふうだった。
正規のルートに入ると、すぐにみかん畑が広がった。静岡県は日本一のお茶の産地であるとともに、みかんの栽培も盛んだ。和歌山県、愛媛県に続いて、日本第三の生産量を誇る。みかんの実はまだ青く、小さかった。もう歩き始めてから、三時間になる。食事の時間を差し引いても、二時間以上歩いている。
やがて、茶畑の中に、円柱状のタンクのようなものがあるところに出た。それは貯水槽だ。
「このあたりがこの山域で一番高いところで、二三〇メートルぐらいだそうよ。ゴールまであと一時間半ぐらいよ」
葵は事前に調べた知識を紹介した。
「えー? まだ一時間半もあるの?」 とさくらが驚いた。
さくらばかりではなく、トヨも恵も疲れていた。美奈はまだ大丈夫だが、二〇〇メートル程度の山並みとはいえ、けっこうきついコースだなと思った。山中を歩く距離が長いので、四〇〇メートル級の稜線が続く春日井市、多治見市の境界上にある道樹山、大谷山、弥勒山の縦走路より、ずっと厳しい。ところどころ狭くて歩きにくい道もある。以前は最初にバテていた葵だが、最近はよく賤機山を歩いているだけあって、多少は山慣れしたようだ。日陰を見つけて、少し休憩した。暑いので、熱中症防止のためにも、水分はこまめに取らなければならない。休んでいると、ときどき蚊に襲われた。
左側は安倍川をまたいで、建設中の新東名高速道路が見える。視力が弱い美奈は、メガネをかけていてもよくわからないが、双眼鏡で見ると、安倍川は水が少ないようだ。水量が豊富な木曽川や長良川、揖斐川と比べ、静岡県を流れる川は、南アルプスなどの豊富な水を集めているはずなのに、天竜川も大井川も、富士川も河口付近の水量が少ない。特に天竜川は木曽川に匹敵する長さと流域面積がある。大井川もかつては豊富な水量を誇り、 「越すに越されぬ大井川」 とうたわれたほどだ。富士川は日本三大急流の一つだ。途中でダムなどから取水して、下流では水が減ってしまうのだろうか。

ひと頑張りして、福成(ふくなり)神社に着いた。そのあたりは標高二二七メートルだ。神社の社(やしろ)のところで道が二つに分かれている。どちらに行ってもかまわないので、左の道を行った。ゴールの鯨ヶ池までは、あと少しだ。
その後はあまり大きな登りはなかった。徐々に標高を下げていった。ただ、左側が切り立っているところがあり、足を踏み外さないように注意が必要だ。みんな疲れてきているので、慎重に歩いた。
ようやく眼下に、ゴールの鯨ヶ池が見えてきた。少しずつ高度を落としていく。前方にある高い山は文殊岳(もんじゅだけ)、薬師岳(やくしだけ)の二つのピークを有する竜爪山だろうか。美奈にとって、竜爪山も一度登ってみたい山だった。また葵さんのところに来るときに、みんなを誘ってみようと思った。
道を右に折れるとすぐ大きなトイレがあった。順番でトイレに入った。池の畔に出て、山旅もフィナーレを迎えた。池にはシラサギが一羽、水に浮かんだ木ぎれに留まっていた。魚を狙っているのだろうか。
魚を狙うシラサギ
「ああ、やっと着いたわ」
恵が疲れ果てたという感じで呟いた。
「葵さん、強くなったわね」
「そんなことないよ。私だって、本当はフラフラ。でも、案内役だから、弱音を吐けないなと思って、頑張った」
「でも、そこがすごいところよ。山女の美奈は特別だけど、私もさくらもけっこうグロッキーなのに、葵さん、最後まで頑張ったんだから」
「そうですね。低い山だからと甘く見てたけど、私もバテバテです。やっぱり私も最近タトゥーにかかりきりで、運動しないから」
トヨも葵のことを感心した。トヨは高校生のころ、鳳来寺山(ほうらいじさん)や明神山(みようじんやま)など、故郷の三河の山に、ときどき登っていた。
「まあ、私は専業主婦になっちゃって、けっこう時間もあるんで、ダイエットのためにときどき賤機山に登っているから、少しは鍛えられたかもしれないけど。それに一度歩いているから、あとどれぐらいとわかっている安心感みたいなのもあるかしら」
みんなは池の畔で休憩した。残ったおやつを分け合って食べた。
「バス停まであと少しだから、最後まで頑張ろう」
しばらく休んでから、葵が発破をかけた。葵は事前にバスの時刻表を調べていた。バスの本数が多く、特に時間を気にする必要はなかった。県道を右に行き、新桜峠トンネルをくぐった。トンネルには歩道がつけてあったが、排気ガスの臭いがこもっていた。二〇分ほど歩いて、麻機(あさばた)というバス停に着いた。静岡市もこのへんは非常に緑が豊富で、とても政令指定都市とは思えない、のどかな田園風景が続いている。しかしバス停がある辺りまで歩くと、住宅や団地が多くなってきた。ほどなく、しずてつジャストラインのバスがやってきた。時刻表を見て、郊外のバス停なのに、名古屋の市バスより本数が多いことにみんなが驚いた。名古屋市内は地下鉄が便利なため、競合する路線の市バスが減らされているのだ。
葵のマンションの近くのバス停で下車し、山旅は終了した。午前一一時前に葵宅を出発し、帰宅したのは夕方五時近くだった。みんなはバスルームを使わせてもらった。シャワーで汗を流し、着替えをしてさっぱりした。
恵は約束通り、背中の龍を葵に見せた。右肩のあたりに頭があり、胴を背中いっぱいにうねらせている。尻尾がお尻の左側に来ており、何輪かの牡丹の花を添えてある。左の腰にある、桜の花弁の中に、“さくら”とアーティストの銘が刻まれている。左肩には卑美子が彫った青っぽいアゲハチョウが入っており、蝶とのバランスも絶妙だ。さくらは、転写ではなく、手描きで直接肌に下絵を描いた。卑美子もトヨも、大きな龍の胴を描く場合は直接手描きをする。龍の複雑なうねりは、立体である人間の身体には、転写より直接手描きするほうがよい。彫り始めてまだ間がないので、色は龍の頭にしか入っていなかった。龍は青色だった。龍を飾る牡丹は赤や黄、紫など、鮮やかに彩色する予定だ。
「わぁ、すごい。メグ、大きなものは入れないと言っていたのに、結局やっちゃったのね。昔オアシスにいたアカネの龍は、伝統的な和彫りで迫力があったけど、メグのはすごくきれい。完成が楽しみね」
葵はかつての同僚だったアカネの背中の龍と比較した。アカネは背中から臀部にかけて、額彫りといって、周りを黒く染めた、本格的な龍の彫り物を入れていた。龍の顔が背中の中央で、正面を向いており、非常に威圧感があった。さくらがオアシスに入店してしばらくしてから、連絡もなく店に来なくなってしまったので、美奈はアカネとは面識がなかった。
恵の龍は、迫力があるアカネの龍に比べれば、優しく美しい。
葵はあと一つだけ、プロになったさくらにタトゥーを入れてもらうつもりだ。恵も美奈もトヨも、さくらがプロとなった一号、二号、三号の作品として、牡丹の花を彫ってもらったので、葵も牡丹の花を腰に入れることにした。秀樹の図柄も牡丹だ。名古屋に行く機会を作り、そのとき入れてもらう予定でいる。
「葵さん、子作り、励んでます?」 とさくらが質問した。
「そんな野暮なこと、訊かないでよ。新婚だから、わかりきってるでしょう」
葵が顔を赤く染めた。
「ただ、きちんと避妊はしてるわ。私もまえがまえだから、いらぬ疑惑を招かないよう、半年は子供を作らないようにしてるの。もっともプロの私が、失敗なんかするはずないけどね。本格的な子作りは、一〇月からよ」
オアシスを三月末に辞めてから半年ということだ。葵は二人ぐらい子供を欲しいと思っている。トヨは卑美子が懐胎し、年内で仕事を休止することを話した。
「そうなの。卑美子先生がご懐妊ですか。おめでとうございます。これで、トヨさんとさくらの責任重大ですね。頑張ってくださいね」
葵は卑美子の懐妊を喜び、トヨとさくらを激励した。
秀樹が会社から帰ってから、一緒に近くの中国料理店に行った。庶民的な店だが、葵が推薦するだけあって、味はおいしかった。
その夜は葵のマンションに泊まり、翌朝、再会を約束して葵の家を辞した。帰りはさくらが運転をしたがったので、浜名湖サービスエリアまで、さくらに運転を替わってもらった。
「この車、運転してて、なんか落ち着くわ」 とさくらは感想を述べた。さくらはふだんならもっとスピードを出すのだが、今回はほとんど時速一〇〇キロ以上は出さなかった。
「私、今までちょっと運転、乱暴だったかもしれない。これからはもっと安全運転することにする」
さくらは安全運転宣言をした。これがきっかけでさくらが安全運転をしてくれるようになれば、事故の危険も減る。ひょっとしたら、それは車の守護霊である多恵子の影響なのだろうかと美奈は考えた。多恵子は親友まで守ってくれるのだと思うと、美奈はとてもありがたかった。
美奈はトヨとさくらを卑美子ボディアートスタジオの前で降ろし、それから恵のマンションに行った。しばらく恵の部屋で休憩してから、一緒にオアシスに向かった。
その日の午後、葵から 「昨日はみんなの前だったから、つい空(から)元気を出していたけど、今日は足が痛くて、パートしているスーパーまで歩くのが辛い(ToT)。レジでずっと立ってるのも大変よ。今まで山に行ったとき、リーダーとして私たちを引率してくれた、美奈の苦労がよくわかったわ」 とみんなにメールが入った。
今回は『幻影2 荒原の墓標』第17回です。
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午前一一時前に葵の家を出発した。賤機山に登るので、みんなは軽いハイキングができるだけの装備をしていた。葵のマンションから西を眺めると、低いながらも賤機山の山並みが、静岡市の街を前景に、堂々と鎮座している。美奈たちは登山口である浅間神社まで歩いた。途中のスーパーマーケットで、ペットボトル飲料やおやつなどを買った。葵がパートで勤めているスーパーだ。
「中村さん、今日はお休みですね。お友達とハイキングですか?」
ラフな格好でデイパックを背負っている葵たちの一行を見て、同僚のレジのおばさんが、葵に尋ねた。
「はい。名古屋にいたころの親友がはるばる訪ねてきてくれたので、今日は賤機山に登ってきます」
「まあ、それは遠いところから。頑張ってきてください。賤機山はいい山ですよ」
レジのおばさんは美奈たちに郷里の里山を自慢した。
葵のマンションから浅間神社までは、約二キロの道のりだった。神社の一〇〇段以上ある石段を登るのはきついので、大鳥居の左側の、交番の脇道からハイキングコースに入った。少し行くと、賤機山古墳がある。中に入ることはできないが、覗くことはできる。中を覗くと照明がついており、石棺のようなものが見えた。古墳の脇には模型があり、写真や図を添えて、わかりやすく説明してあった。
道はしばらく階段になっていた。キノコのような形をした休憩所があったので、そこで一休みした。
「葵さん、強くなったね。ここまで全然息が上がってない」
ハアハアあえぎながら恵が感心した。葵と美奈は汗をかいていても、全く息を切らしていない。登山口に入る前に、暑い市街地を三〇分以上歩いてきたので、みんなバテ気味だった。汗かきの葵は、盛んに顔や首筋の汗をぬぐった。


「私、最近タトゥーにかかりっきりで、運動してなくて身体なまってるから、けっこうきつい。おなかも空いて、シャリバテだよ」
シャリバテとは、登山などで長時間運動をして、血糖値が著しく低くなり、動けなくなってしまうことだ。
「さくら、あんたまだ若いでしょう。三〇近いおばさんが頑張っているんだから、しっかりしなさいよ」
二八歳の葵が自らをおばさんと言って、さくらを叱咤した。さくらは二三歳だ。さくらはトヨと共に、卑美子や隆一の手ほどきにより、ときどき空手の稽古をしている。心身の鍛練を重視する、卑美子の方針だ。それでも運動不足は否めない。
「葵さんがおばさんなんて言わないでくださいよ。私だって一一月で二八になるんですよ。葵さんはまだまだ若いです」
トヨが長袖をまくりながら、口を挟んだ。トヨが長袖の腕を肘までまくると、鮮やかなタトゥーが露わになる。
「暑いから袖まくりたいけど、やっぱり目立つんでまずいかしら?」
「それぐらい、いいんじゃないですか? きれいだし。でも、日焼けしたり、木の枝で肌を引っかけたりしないように気をつけてくださいね」
葵が笑いながら応えた。トヨの左腕には自分で練習として彫った、花や蝶、スカルなどのタトゥーが入っている。右の前腕部は卑美子の作品である、美しい古代の王妃の絵が彫ってある。トヨというアーティスト名の元となった、邪馬台国(やまたいこく)の女王、台与(トヨ)をイメージした図柄だ。
「それじゃあ私もまくっちゃお」 とさくらも両方の袖をまくった。さくらの左右の腕には、肩から手首まで、最近トヨに彫ってもらった龍が入っている。右腕には肩に頭がある青い昇り龍、左は手首を頭にした、緑の下り龍だ。余白の部分には桜の花が散らしてある。
「あら、さくらも腕までやっちゃったの?」 と葵が驚いた。
「うん、やっぱりタトゥーアーティストになると、どんどん増えてっちゃう。最近、みんなタトゥーが増えたよ。メグさんも背中に龍を彫っちゃったし。私が彫ったんだけど」
「友達にタトゥーアーティストがいると、ついやりたくなっちゃうんだから。私も悪の誘惑に負けちゃったわ」
「え、すごい。マンションに帰ったら見せてね」
「まだ彫り始めたばかりで、やっと色が少し入ったところだけど」
恵はマンションに戻って、シャワーを浴びたら、葵に見せると約束した。
しばらく歩くと、ベンチがいくつかある広場に出た。そこはかつて、リフトの山頂駅だったという。一九七四年七月七日の七夕豪雨で、山崩れが起き、リフトは廃止になった。この広場はその山頂駅の跡だそうだ。
東西の見晴らしがいい。美奈が持ってきた小型の双眼鏡で、みんなは景色を楽しんだ。しかし、大気中の水蒸気が多いせいか、どんより靄がかかっていて、期待していた富士山は見えなかった。左側は安倍川(あべかわ)が流れており、そのすぐ向こうに山並みがあった。遠くの南アルプスの山並みは霞んでいた。よく晴れてはいるものの、遠方の山までは見渡せず、残念だった。大気が澄んでいる冬なら、真っ白に雪化粧をした富士山や南アルプスがきれいだろうな、と美奈は想像した。


「うちのマンションはあのあたりよ」 と、葵が指さしてみんなに教えた。さくらがその方向に、双眼鏡を向けた。
「ここでお弁当にしましょうか? みんな朝早かったから、おなか空いてるでしょう?」
もう一二時近いので、葵が提案した。
「賛成。私、もうおなかぺこぺこ。朝食べたの、七時前だもんね。おなかの虫が、腹減った、めし食わせろって鳴いてる」
さくらが一番に賛成した。ほかにも何人もの人たちが休憩しているので、葵は広場の隅の、他人の邪魔にならない、日陰になる場所を探して、シートを敷いた。静岡の街並みが眼下に見下ろせる。みんなはシートの上で弁当を広げた。日差しが強いので、トヨとさくらは、腕まくりした前腕部にも、日焼け止めを塗った。
葵が作ってくれた握り飯を、みんなで分け合った。
「さくらは大食らいだから、一個余分に、おにぎり四個ね」
「乙女に向かって大食らいはひどいですぅぅ、葵さん。乙女心が傷ついちゃいました。せめて食いしん坊ぐらいにしといてください」
さくらが口をとがらせて、葵に抗議した。そう言いながらも、さくらはちゃっかり四個を自分の分として確保した。その様子を見て、みんなが笑った。
野菜の煮物やサラダ、ウインナーソーセージなどをつまみながら、楽しく食事をした。美奈がガスストーブで湯を沸かし、コーヒーを淹れた。美奈は自分の飲み水以外に、みんなの分として、一・五リットルのペットボトルいっぱい水を持ってきていた。
「熱いコーヒーでは余計に汗が出てしまうかもしれませんが」
美奈は紙コップにコーヒーを注(つ)ぎながら、みんなに勧めた。
「いいえ、インスタントじゃない、本格的なコーヒーを山でいただけるなんて、最高ですよ」
コーヒー好きのトヨが喜んだ。さくらは六グラム入りのスティックシュガーを二袋入れたので、みんながあっけにとられた。
「そんなに入れて、甘すぎるんじゃない? 太るわよ」 と葵が注意した。
「大丈夫。今日はたくさん歩くから、これぐらいの糖分なら、すぐ消費しちゃうから。私、甘いコーヒーが好き。いつもはお砂糖少なめで我慢してるんだから」
食後、しばらく休んでいたら、五〇年配の女性がトヨとさくらの腕のタトゥーを見て、 「それ、描いているんですか?」 と興味深げに声をかけた。
「あ、これ、タトゥー、いれずみなんです」 とトヨが応えた。
「いれずみなんですか? もう一生消えないの?」
その女性は二人の鮮やかなタトゥーに驚いた。
「はい。皮膚の表皮の下まで、針でインクを刺して入れるので、もう一生消えないんです」 とトヨが説明をした。
「そんなことして、痛いでしょう。でも、いれずみというと、怖いイメージがありましたが、きれいなものですね。龍だって、こうして見るととてもきれい。桜の花もたくさんあるし。こんなの、初めて見ました」
「今は女性でも、けっこうファッション感覚で入れてるんですよ。私たち、名古屋でタトゥーのスタジオをやってるんです」
両腕に龍を入れているさくらが言った。
「え、あなたがいれずみを彫る人なんですか? 今はあなたたちみたいな若い娘さんが、そんなことやってるんですね。いれずみを彫る人といったら、怖そうなおじさんをイメージしちゃいますが。今日は珍しいものを見せてもらいました」
その女性は一言お礼を言って、先へ進んでいった。
「やっぱり、袖は下ろしておいたほうがよさそうですね。目立ちますから」
そう言ってトヨとさくらは袖を下ろした。
それから五分ほど歩いて、観音像がある広場に着いた。その観音像には“静岡市戦禍犠牲者慰霊塔”とある。案内板によると、そこが浅間山山頂一四〇メートルとなっている。賤機山はさらに先の、賤機城跡があるあたりだという。

観音広場を過ぎると、それまでの整備されたハイキングコースとは一転、いかにも山道という感じの道になった。葵が先頭を歩き、 「これからはちょっと厳しい道になりますよ」 と警告した。
しばらく下りが続いたが、今度は急な登りとなった。ロープや鎖を張った険しいところもある。たかだか一七一メートルの山だと思っていたら、意外と登り甲斐がある。最近よく山を歩いていて、けっこう歩き慣れた葵も、息を弾ませた。ときどき山頂の方から下ってくるハイカーとすれ違い、挨拶を交わした。
深い樹林の中を歩き、ようやく賤機城跡に着いた。城跡といっても、今はうっそうとした樹林の中だ。セミの鳴き声がやかましい。ふだんあまり聞くことがない、ヒグラシの鳴き声も混ざっており、珍しかった。美奈は猿投山の登山口である雲興寺(うんこうじ)の近くで、ヒグラシの声を聞いたことがある。本丸跡にはそれを示す石碑と、城の説明を記した案内板が立っていた。
先を行くと、左右が開けているところがあり、景色を眺めることができた。稜線上に野菜畑や茶畑があった。畑の世話をしている人にも出会った。そんな光景を見ていると、賤機山の山並みは、いかにも市街地に近い里山なのだと実感できた。

ところどころで舗装された農道に出る。そしてまたすぐに樹林の中に入る。
農道に出てから、ずっと舗装された道を歩き続けた。もう一〇分近く歩いている。左側は稜線に続く斜面、右手は下り斜面に茶畑やみかん畑が広がっている。
「おかしいわね。この前下見に来たときはこんなに舗装された道を歩かなかったのに。でも、左側に、稜線に入る道標ってなかったよね」
「はい。私も注意して見ていましたが、ありませんでした」
一番後ろを歩いていた美奈が応えた。
「でも、絶対おかしい。稜線はあんなに高いところにあるのだし。途中で道を見落としたとしか、考えられないわ」
葵は左手の稜線を指した。稜線はずっと上の方にある。
「わかるところまで引き返したほうがよさそうですね」
美奈が決断した。
「ええー、引き返すの? そのへんから上に上がれる道ないんですか?」
さくらは不満そうに言った。
「みかん畑や茶畑を突っ切って稜線に出るなんて、ちょっと無謀よ。美奈の言うとおり、引き返すほうがいいわ」
葵が美奈に賛成した。
今来た道をしばらく戻ると、二台の車が駐車してあった。その車の向こうを見てみると、そこにルートを示す道標があった。
「この車が道を隠していたのね。道理で見落としたはずだわ。こんなところに駐めるだなんて、迷惑よ」
ふだんはおおらかな葵も、憤懣やるかたないといったふうだった。
正規のルートに入ると、すぐにみかん畑が広がった。静岡県は日本一のお茶の産地であるとともに、みかんの栽培も盛んだ。和歌山県、愛媛県に続いて、日本第三の生産量を誇る。みかんの実はまだ青く、小さかった。もう歩き始めてから、三時間になる。食事の時間を差し引いても、二時間以上歩いている。
やがて、茶畑の中に、円柱状のタンクのようなものがあるところに出た。それは貯水槽だ。
「このあたりがこの山域で一番高いところで、二三〇メートルぐらいだそうよ。ゴールまであと一時間半ぐらいよ」
葵は事前に調べた知識を紹介した。
「えー? まだ一時間半もあるの?」 とさくらが驚いた。
さくらばかりではなく、トヨも恵も疲れていた。美奈はまだ大丈夫だが、二〇〇メートル程度の山並みとはいえ、けっこうきついコースだなと思った。山中を歩く距離が長いので、四〇〇メートル級の稜線が続く春日井市、多治見市の境界上にある道樹山、大谷山、弥勒山の縦走路より、ずっと厳しい。ところどころ狭くて歩きにくい道もある。以前は最初にバテていた葵だが、最近はよく賤機山を歩いているだけあって、多少は山慣れしたようだ。日陰を見つけて、少し休憩した。暑いので、熱中症防止のためにも、水分はこまめに取らなければならない。休んでいると、ときどき蚊に襲われた。
左側は安倍川をまたいで、建設中の新東名高速道路が見える。視力が弱い美奈は、メガネをかけていてもよくわからないが、双眼鏡で見ると、安倍川は水が少ないようだ。水量が豊富な木曽川や長良川、揖斐川と比べ、静岡県を流れる川は、南アルプスなどの豊富な水を集めているはずなのに、天竜川も大井川も、富士川も河口付近の水量が少ない。特に天竜川は木曽川に匹敵する長さと流域面積がある。大井川もかつては豊富な水量を誇り、 「越すに越されぬ大井川」 とうたわれたほどだ。富士川は日本三大急流の一つだ。途中でダムなどから取水して、下流では水が減ってしまうのだろうか。

ひと頑張りして、福成(ふくなり)神社に着いた。そのあたりは標高二二七メートルだ。神社の社(やしろ)のところで道が二つに分かれている。どちらに行ってもかまわないので、左の道を行った。ゴールの鯨ヶ池までは、あと少しだ。
その後はあまり大きな登りはなかった。徐々に標高を下げていった。ただ、左側が切り立っているところがあり、足を踏み外さないように注意が必要だ。みんな疲れてきているので、慎重に歩いた。
ようやく眼下に、ゴールの鯨ヶ池が見えてきた。少しずつ高度を落としていく。前方にある高い山は文殊岳(もんじゅだけ)、薬師岳(やくしだけ)の二つのピークを有する竜爪山だろうか。美奈にとって、竜爪山も一度登ってみたい山だった。また葵さんのところに来るときに、みんなを誘ってみようと思った。
道を右に折れるとすぐ大きなトイレがあった。順番でトイレに入った。池の畔に出て、山旅もフィナーレを迎えた。池にはシラサギが一羽、水に浮かんだ木ぎれに留まっていた。魚を狙っているのだろうか。

「ああ、やっと着いたわ」
恵が疲れ果てたという感じで呟いた。
「葵さん、強くなったわね」
「そんなことないよ。私だって、本当はフラフラ。でも、案内役だから、弱音を吐けないなと思って、頑張った」
「でも、そこがすごいところよ。山女の美奈は特別だけど、私もさくらもけっこうグロッキーなのに、葵さん、最後まで頑張ったんだから」
「そうですね。低い山だからと甘く見てたけど、私もバテバテです。やっぱり私も最近タトゥーにかかりきりで、運動しないから」
トヨも葵のことを感心した。トヨは高校生のころ、鳳来寺山(ほうらいじさん)や明神山(みようじんやま)など、故郷の三河の山に、ときどき登っていた。
「まあ、私は専業主婦になっちゃって、けっこう時間もあるんで、ダイエットのためにときどき賤機山に登っているから、少しは鍛えられたかもしれないけど。それに一度歩いているから、あとどれぐらいとわかっている安心感みたいなのもあるかしら」
みんなは池の畔で休憩した。残ったおやつを分け合って食べた。
「バス停まであと少しだから、最後まで頑張ろう」
しばらく休んでから、葵が発破をかけた。葵は事前にバスの時刻表を調べていた。バスの本数が多く、特に時間を気にする必要はなかった。県道を右に行き、新桜峠トンネルをくぐった。トンネルには歩道がつけてあったが、排気ガスの臭いがこもっていた。二〇分ほど歩いて、麻機(あさばた)というバス停に着いた。静岡市もこのへんは非常に緑が豊富で、とても政令指定都市とは思えない、のどかな田園風景が続いている。しかしバス停がある辺りまで歩くと、住宅や団地が多くなってきた。ほどなく、しずてつジャストラインのバスがやってきた。時刻表を見て、郊外のバス停なのに、名古屋の市バスより本数が多いことにみんなが驚いた。名古屋市内は地下鉄が便利なため、競合する路線の市バスが減らされているのだ。
葵のマンションの近くのバス停で下車し、山旅は終了した。午前一一時前に葵宅を出発し、帰宅したのは夕方五時近くだった。みんなはバスルームを使わせてもらった。シャワーで汗を流し、着替えをしてさっぱりした。
恵は約束通り、背中の龍を葵に見せた。右肩のあたりに頭があり、胴を背中いっぱいにうねらせている。尻尾がお尻の左側に来ており、何輪かの牡丹の花を添えてある。左の腰にある、桜の花弁の中に、“さくら”とアーティストの銘が刻まれている。左肩には卑美子が彫った青っぽいアゲハチョウが入っており、蝶とのバランスも絶妙だ。さくらは、転写ではなく、手描きで直接肌に下絵を描いた。卑美子もトヨも、大きな龍の胴を描く場合は直接手描きをする。龍の複雑なうねりは、立体である人間の身体には、転写より直接手描きするほうがよい。彫り始めてまだ間がないので、色は龍の頭にしか入っていなかった。龍は青色だった。龍を飾る牡丹は赤や黄、紫など、鮮やかに彩色する予定だ。
「わぁ、すごい。メグ、大きなものは入れないと言っていたのに、結局やっちゃったのね。昔オアシスにいたアカネの龍は、伝統的な和彫りで迫力があったけど、メグのはすごくきれい。完成が楽しみね」
葵はかつての同僚だったアカネの背中の龍と比較した。アカネは背中から臀部にかけて、額彫りといって、周りを黒く染めた、本格的な龍の彫り物を入れていた。龍の顔が背中の中央で、正面を向いており、非常に威圧感があった。さくらがオアシスに入店してしばらくしてから、連絡もなく店に来なくなってしまったので、美奈はアカネとは面識がなかった。
恵の龍は、迫力があるアカネの龍に比べれば、優しく美しい。
葵はあと一つだけ、プロになったさくらにタトゥーを入れてもらうつもりだ。恵も美奈もトヨも、さくらがプロとなった一号、二号、三号の作品として、牡丹の花を彫ってもらったので、葵も牡丹の花を腰に入れることにした。秀樹の図柄も牡丹だ。名古屋に行く機会を作り、そのとき入れてもらう予定でいる。
「葵さん、子作り、励んでます?」 とさくらが質問した。
「そんな野暮なこと、訊かないでよ。新婚だから、わかりきってるでしょう」
葵が顔を赤く染めた。
「ただ、きちんと避妊はしてるわ。私もまえがまえだから、いらぬ疑惑を招かないよう、半年は子供を作らないようにしてるの。もっともプロの私が、失敗なんかするはずないけどね。本格的な子作りは、一〇月からよ」
オアシスを三月末に辞めてから半年ということだ。葵は二人ぐらい子供を欲しいと思っている。トヨは卑美子が懐胎し、年内で仕事を休止することを話した。
「そうなの。卑美子先生がご懐妊ですか。おめでとうございます。これで、トヨさんとさくらの責任重大ですね。頑張ってくださいね」
葵は卑美子の懐妊を喜び、トヨとさくらを激励した。
秀樹が会社から帰ってから、一緒に近くの中国料理店に行った。庶民的な店だが、葵が推薦するだけあって、味はおいしかった。
その夜は葵のマンションに泊まり、翌朝、再会を約束して葵の家を辞した。帰りはさくらが運転をしたがったので、浜名湖サービスエリアまで、さくらに運転を替わってもらった。
「この車、運転してて、なんか落ち着くわ」 とさくらは感想を述べた。さくらはふだんならもっとスピードを出すのだが、今回はほとんど時速一〇〇キロ以上は出さなかった。
「私、今までちょっと運転、乱暴だったかもしれない。これからはもっと安全運転することにする」
さくらは安全運転宣言をした。これがきっかけでさくらが安全運転をしてくれるようになれば、事故の危険も減る。ひょっとしたら、それは車の守護霊である多恵子の影響なのだろうかと美奈は考えた。多恵子は親友まで守ってくれるのだと思うと、美奈はとてもありがたかった。
美奈はトヨとさくらを卑美子ボディアートスタジオの前で降ろし、それから恵のマンションに行った。しばらく恵の部屋で休憩してから、一緒にオアシスに向かった。
その日の午後、葵から 「昨日はみんなの前だったから、つい空(から)元気を出していたけど、今日は足が痛くて、パートしているスーパーまで歩くのが辛い(ToT)。レジでずっと立ってるのも大変よ。今まで山に行ったとき、リーダーとして私たちを引率してくれた、美奈の苦労がよくわかったわ」 とみんなにメールが入った。