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売れない作家 高村裕樹の部屋

まだ駆け出しの作家ですが、作品の情報や、内容に関連する写真(作品の舞台)など、掲載していきたいと思います

『幻影2 荒原の墓標』第17回

2014-05-09 10:19:37 | 小説
 大型連休も終わりました。新作を執筆しなければ、と思いながらも、やや停滞気味です。頑張らねばと思います。
 今回は『幻影2 荒原の墓標』第17回です。



           

 午前一一時前に葵の家を出発した。賤機山に登るので、みんなは軽いハイキングができるだけの装備をしていた。葵のマンションから西を眺めると、低いながらも賤機山の山並みが、静岡市の街を前景に、堂々と鎮座している。美奈たちは登山口である浅間神社まで歩いた。途中のスーパーマーケットで、ペットボトル飲料やおやつなどを買った。葵がパートで勤めているスーパーだ。
「中村さん、今日はお休みですね。お友達とハイキングですか?」
 ラフな格好でデイパックを背負っている葵たちの一行を見て、同僚のレジのおばさんが、葵に尋ねた。
「はい。名古屋にいたころの親友がはるばる訪ねてきてくれたので、今日は賤機山に登ってきます」
「まあ、それは遠いところから。頑張ってきてください。賤機山はいい山ですよ」
 レジのおばさんは美奈たちに郷里の里山を自慢した。
 葵のマンションから浅間神社までは、約二キロの道のりだった。神社の一〇〇段以上ある石段を登るのはきついので、大鳥居の左側の、交番の脇道からハイキングコースに入った。少し行くと、賤機山古墳がある。中に入ることはできないが、覗くことはできる。中を覗くと照明がついており、石棺のようなものが見えた。古墳の脇には模型があり、写真や図を添えて、わかりやすく説明してあった。
 道はしばらく階段になっていた。キノコのような形をした休憩所があったので、そこで一休みした。
「葵さん、強くなったね。ここまで全然息が上がってない」
 ハアハアあえぎながら恵が感心した。葵と美奈は汗をかいていても、全く息を切らしていない。登山口に入る前に、暑い市街地を三〇分以上歩いてきたので、みんなバテ気味だった。汗かきの葵は、盛んに顔や首筋の汗をぬぐった。

   賤機古墳の模型

「私、最近タトゥーにかかりっきりで、運動してなくて身体なまってるから、けっこうきつい。おなかも空いて、シャリバテだよ」
 シャリバテとは、登山などで長時間運動をして、血糖値が著しく低くなり、動けなくなってしまうことだ。
「さくら、あんたまだ若いでしょう。三〇近いおばさんが頑張っているんだから、しっかりしなさいよ」
 二八歳の葵が自らをおばさんと言って、さくらを叱咤した。さくらは二三歳だ。さくらはトヨと共に、卑美子や隆一の手ほどきにより、ときどき空手の稽古をしている。心身の鍛練を重視する、卑美子の方針だ。それでも運動不足は否めない。
「葵さんがおばさんなんて言わないでくださいよ。私だって一一月で二八になるんですよ。葵さんはまだまだ若いです」
トヨが長袖をまくりながら、口を挟んだ。トヨが長袖の腕を肘までまくると、鮮やかなタトゥーが露わになる。
「暑いから袖まくりたいけど、やっぱり目立つんでまずいかしら?」
「それぐらい、いいんじゃないですか? きれいだし。でも、日焼けしたり、木の枝で肌を引っかけたりしないように気をつけてくださいね」
 葵が笑いながら応えた。トヨの左腕には自分で練習として彫った、花や蝶、スカルなどのタトゥーが入っている。右の前腕部は卑美子の作品である、美しい古代の王妃の絵が彫ってある。トヨというアーティスト名の元となった、邪馬台国(やまたいこく)の女王、台与(トヨ)をイメージした図柄だ。
「それじゃあ私もまくっちゃお」 とさくらも両方の袖をまくった。さくらの左右の腕には、肩から手首まで、最近トヨに彫ってもらった龍が入っている。右腕には肩に頭がある青い昇り龍、左は手首を頭にした、緑の下り龍だ。余白の部分には桜の花が散らしてある。
「あら、さくらも腕までやっちゃったの?」 と葵が驚いた。
「うん、やっぱりタトゥーアーティストになると、どんどん増えてっちゃう。最近、みんなタトゥーが増えたよ。メグさんも背中に龍を彫っちゃったし。私が彫ったんだけど」
「友達にタトゥーアーティストがいると、ついやりたくなっちゃうんだから。私も悪の誘惑に負けちゃったわ」
「え、すごい。マンションに帰ったら見せてね」
「まだ彫り始めたばかりで、やっと色が少し入ったところだけど」
 恵はマンションに戻って、シャワーを浴びたら、葵に見せると約束した。


 しばらく歩くと、ベンチがいくつかある広場に出た。そこはかつて、リフトの山頂駅だったという。一九七四年七月七日の七夕豪雨で、山崩れが起き、リフトは廃止になった。この広場はその山頂駅の跡だそうだ。
 東西の見晴らしがいい。美奈が持ってきた小型の双眼鏡で、みんなは景色を楽しんだ。しかし、大気中の水蒸気が多いせいか、どんより靄がかかっていて、期待していた富士山は見えなかった。左側は安倍川(あべかわ)が流れており、そのすぐ向こうに山並みがあった。遠くの南アルプスの山並みは霞んでいた。よく晴れてはいるものの、遠方の山までは見渡せず、残念だった。大気が澄んでいる冬なら、真っ白に雪化粧をした富士山や南アルプスがきれいだろうな、と美奈は想像した。

  

「うちのマンションはあのあたりよ」 と、葵が指さしてみんなに教えた。さくらがその方向に、双眼鏡を向けた。
「ここでお弁当にしましょうか? みんな朝早かったから、おなか空いてるでしょう?」
 もう一二時近いので、葵が提案した。
「賛成。私、もうおなかぺこぺこ。朝食べたの、七時前だもんね。おなかの虫が、腹減った、めし食わせろって鳴いてる」
 さくらが一番に賛成した。ほかにも何人もの人たちが休憩しているので、葵は広場の隅の、他人の邪魔にならない、日陰になる場所を探して、シートを敷いた。静岡の街並みが眼下に見下ろせる。みんなはシートの上で弁当を広げた。日差しが強いので、トヨとさくらは、腕まくりした前腕部にも、日焼け止めを塗った。
 葵が作ってくれた握り飯を、みんなで分け合った。
「さくらは大食らいだから、一個余分に、おにぎり四個ね」
「乙女に向かって大食らいはひどいですぅぅ、葵さん。乙女心が傷ついちゃいました。せめて食いしん坊ぐらいにしといてください」
 さくらが口をとがらせて、葵に抗議した。そう言いながらも、さくらはちゃっかり四個を自分の分として確保した。その様子を見て、みんなが笑った。
 野菜の煮物やサラダ、ウインナーソーセージなどをつまみながら、楽しく食事をした。美奈がガスストーブで湯を沸かし、コーヒーを淹れた。美奈は自分の飲み水以外に、みんなの分として、一・五リットルのペットボトルいっぱい水を持ってきていた。
「熱いコーヒーでは余計に汗が出てしまうかもしれませんが」
 美奈は紙コップにコーヒーを注(つ)ぎながら、みんなに勧めた。
「いいえ、インスタントじゃない、本格的なコーヒーを山でいただけるなんて、最高ですよ」
 コーヒー好きのトヨが喜んだ。さくらは六グラム入りのスティックシュガーを二袋入れたので、みんながあっけにとられた。
「そんなに入れて、甘すぎるんじゃない? 太るわよ」 と葵が注意した。
「大丈夫。今日はたくさん歩くから、これぐらいの糖分なら、すぐ消費しちゃうから。私、甘いコーヒーが好き。いつもはお砂糖少なめで我慢してるんだから」
 食後、しばらく休んでいたら、五〇年配の女性がトヨとさくらの腕のタトゥーを見て、 「それ、描いているんですか?」 と興味深げに声をかけた。
「あ、これ、タトゥー、いれずみなんです」 とトヨが応えた。
「いれずみなんですか? もう一生消えないの?」
 その女性は二人の鮮やかなタトゥーに驚いた。
「はい。皮膚の表皮の下まで、針でインクを刺して入れるので、もう一生消えないんです」 とトヨが説明をした。
「そんなことして、痛いでしょう。でも、いれずみというと、怖いイメージがありましたが、きれいなものですね。龍だって、こうして見るととてもきれい。桜の花もたくさんあるし。こんなの、初めて見ました」
「今は女性でも、けっこうファッション感覚で入れてるんですよ。私たち、名古屋でタトゥーのスタジオをやってるんです」
 両腕に龍を入れているさくらが言った。
「え、あなたがいれずみを彫る人なんですか? 今はあなたたちみたいな若い娘さんが、そんなことやってるんですね。いれずみを彫る人といったら、怖そうなおじさんをイメージしちゃいますが。今日は珍しいものを見せてもらいました」
 その女性は一言お礼を言って、先へ進んでいった。
「やっぱり、袖は下ろしておいたほうがよさそうですね。目立ちますから」
 そう言ってトヨとさくらは袖を下ろした。
 それから五分ほど歩いて、観音像がある広場に着いた。その観音像には“静岡市戦禍犠牲者慰霊塔”とある。案内板によると、そこが浅間山山頂一四〇メートルとなっている。賤機山はさらに先の、賤機城跡があるあたりだという。

  観音像

 観音広場を過ぎると、それまでの整備されたハイキングコースとは一転、いかにも山道という感じの道になった。葵が先頭を歩き、 「これからはちょっと厳しい道になりますよ」 と警告した。
 しばらく下りが続いたが、今度は急な登りとなった。ロープや鎖を張った険しいところもある。たかだか一七一メートルの山だと思っていたら、意外と登り甲斐がある。最近よく山を歩いていて、けっこう歩き慣れた葵も、息を弾ませた。ときどき山頂の方から下ってくるハイカーとすれ違い、挨拶を交わした。
 深い樹林の中を歩き、ようやく賤機城跡に着いた。城跡といっても、今はうっそうとした樹林の中だ。セミの鳴き声がやかましい。ふだんあまり聞くことがない、ヒグラシの鳴き声も混ざっており、珍しかった。美奈は猿投山の登山口である雲興寺(うんこうじ)の近くで、ヒグラシの声を聞いたことがある。本丸跡にはそれを示す石碑と、城の説明を記した案内板が立っていた。
 先を行くと、左右が開けているところがあり、景色を眺めることができた。稜線上に野菜畑や茶畑があった。畑の世話をしている人にも出会った。そんな光景を見ていると、賤機山の山並みは、いかにも市街地に近い里山なのだと実感できた。

  山上の茶畑

 ところどころで舗装された農道に出る。そしてまたすぐに樹林の中に入る。
 農道に出てから、ずっと舗装された道を歩き続けた。もう一〇分近く歩いている。左側は稜線に続く斜面、右手は下り斜面に茶畑やみかん畑が広がっている。
「おかしいわね。この前下見に来たときはこんなに舗装された道を歩かなかったのに。でも、左側に、稜線に入る道標ってなかったよね」
「はい。私も注意して見ていましたが、ありませんでした」
 一番後ろを歩いていた美奈が応えた。
「でも、絶対おかしい。稜線はあんなに高いところにあるのだし。途中で道を見落としたとしか、考えられないわ」
 葵は左手の稜線を指した。稜線はずっと上の方にある。
「わかるところまで引き返したほうがよさそうですね」
美奈が決断した。
「ええー、引き返すの? そのへんから上に上がれる道ないんですか?」
さくらは不満そうに言った。
「みかん畑や茶畑を突っ切って稜線に出るなんて、ちょっと無謀よ。美奈の言うとおり、引き返すほうがいいわ」
 葵が美奈に賛成した。
 今来た道をしばらく戻ると、二台の車が駐車してあった。その車の向こうを見てみると、そこにルートを示す道標があった。
「この車が道を隠していたのね。道理で見落としたはずだわ。こんなところに駐めるだなんて、迷惑よ」
 ふだんはおおらかな葵も、憤懣やるかたないといったふうだった。
 正規のルートに入ると、すぐにみかん畑が広がった。静岡県は日本一のお茶の産地であるとともに、みかんの栽培も盛んだ。和歌山県、愛媛県に続いて、日本第三の生産量を誇る。みかんの実はまだ青く、小さかった。もう歩き始めてから、三時間になる。食事の時間を差し引いても、二時間以上歩いている。
 やがて、茶畑の中に、円柱状のタンクのようなものがあるところに出た。それは貯水槽だ。
「このあたりがこの山域で一番高いところで、二三〇メートルぐらいだそうよ。ゴールまであと一時間半ぐらいよ」
 葵は事前に調べた知識を紹介した。
「えー? まだ一時間半もあるの?」 とさくらが驚いた。
 さくらばかりではなく、トヨも恵も疲れていた。美奈はまだ大丈夫だが、二〇〇メートル程度の山並みとはいえ、けっこうきついコースだなと思った。山中を歩く距離が長いので、四〇〇メートル級の稜線が続く春日井市、多治見市の境界上にある道樹山、大谷山、弥勒山の縦走路より、ずっと厳しい。ところどころ狭くて歩きにくい道もある。以前は最初にバテていた葵だが、最近はよく賤機山を歩いているだけあって、多少は山慣れしたようだ。日陰を見つけて、少し休憩した。暑いので、熱中症防止のためにも、水分はこまめに取らなければならない。休んでいると、ときどき蚊に襲われた。
 左側は安倍川をまたいで、建設中の新東名高速道路が見える。視力が弱い美奈は、メガネをかけていてもよくわからないが、双眼鏡で見ると、安倍川は水が少ないようだ。水量が豊富な木曽川や長良川、揖斐川と比べ、静岡県を流れる川は、南アルプスなどの豊富な水を集めているはずなのに、天竜川も大井川も、富士川も河口付近の水量が少ない。特に天竜川は木曽川に匹敵する長さと流域面積がある。大井川もかつては豊富な水量を誇り、 「越すに越されぬ大井川」 とうたわれたほどだ。富士川は日本三大急流の一つだ。途中でダムなどから取水して、下流では水が減ってしまうのだろうか。

 

 ひと頑張りして、福成(ふくなり)神社に着いた。そのあたりは標高二二七メートルだ。神社の社(やしろ)のところで道が二つに分かれている。どちらに行ってもかまわないので、左の道を行った。ゴールの鯨ヶ池までは、あと少しだ。
 その後はあまり大きな登りはなかった。徐々に標高を下げていった。ただ、左側が切り立っているところがあり、足を踏み外さないように注意が必要だ。みんな疲れてきているので、慎重に歩いた。
 ようやく眼下に、ゴールの鯨ヶ池が見えてきた。少しずつ高度を落としていく。前方にある高い山は文殊岳(もんじゅだけ)、薬師岳(やくしだけ)の二つのピークを有する竜爪山だろうか。美奈にとって、竜爪山も一度登ってみたい山だった。また葵さんのところに来るときに、みんなを誘ってみようと思った。
 道を右に折れるとすぐ大きなトイレがあった。順番でトイレに入った。池の畔に出て、山旅もフィナーレを迎えた。池にはシラサギが一羽、水に浮かんだ木ぎれに留まっていた。魚を狙っているのだろうか。

  魚を狙うシラサギ

「ああ、やっと着いたわ」
 恵が疲れ果てたという感じで呟いた。
「葵さん、強くなったわね」
「そんなことないよ。私だって、本当はフラフラ。でも、案内役だから、弱音を吐けないなと思って、頑張った」
「でも、そこがすごいところよ。山女の美奈は特別だけど、私もさくらもけっこうグロッキーなのに、葵さん、最後まで頑張ったんだから」
「そうですね。低い山だからと甘く見てたけど、私もバテバテです。やっぱり私も最近タトゥーにかかりきりで、運動しないから」
トヨも葵のことを感心した。トヨは高校生のころ、鳳来寺山(ほうらいじさん)や明神山(みようじんやま)など、故郷の三河の山に、ときどき登っていた。
「まあ、私は専業主婦になっちゃって、けっこう時間もあるんで、ダイエットのためにときどき賤機山に登っているから、少しは鍛えられたかもしれないけど。それに一度歩いているから、あとどれぐらいとわかっている安心感みたいなのもあるかしら」
 みんなは池の畔で休憩した。残ったおやつを分け合って食べた。
「バス停まであと少しだから、最後まで頑張ろう」
 しばらく休んでから、葵が発破をかけた。葵は事前にバスの時刻表を調べていた。バスの本数が多く、特に時間を気にする必要はなかった。県道を右に行き、新桜峠トンネルをくぐった。トンネルには歩道がつけてあったが、排気ガスの臭いがこもっていた。二〇分ほど歩いて、麻機(あさばた)というバス停に着いた。静岡市もこのへんは非常に緑が豊富で、とても政令指定都市とは思えない、のどかな田園風景が続いている。しかしバス停がある辺りまで歩くと、住宅や団地が多くなってきた。ほどなく、しずてつジャストラインのバスがやってきた。時刻表を見て、郊外のバス停なのに、名古屋の市バスより本数が多いことにみんなが驚いた。名古屋市内は地下鉄が便利なため、競合する路線の市バスが減らされているのだ。
 葵のマンションの近くのバス停で下車し、山旅は終了した。午前一一時前に葵宅を出発し、帰宅したのは夕方五時近くだった。みんなはバスルームを使わせてもらった。シャワーで汗を流し、着替えをしてさっぱりした。
 恵は約束通り、背中の龍を葵に見せた。右肩のあたりに頭があり、胴を背中いっぱいにうねらせている。尻尾がお尻の左側に来ており、何輪かの牡丹の花を添えてある。左の腰にある、桜の花弁の中に、“さくら”とアーティストの銘が刻まれている。左肩には卑美子が彫った青っぽいアゲハチョウが入っており、蝶とのバランスも絶妙だ。さくらは、転写ではなく、手描きで直接肌に下絵を描いた。卑美子もトヨも、大きな龍の胴を描く場合は直接手描きをする。龍の複雑なうねりは、立体である人間の身体には、転写より直接手描きするほうがよい。彫り始めてまだ間がないので、色は龍の頭にしか入っていなかった。龍は青色だった。龍を飾る牡丹は赤や黄、紫など、鮮やかに彩色する予定だ。
「わぁ、すごい。メグ、大きなものは入れないと言っていたのに、結局やっちゃったのね。昔オアシスにいたアカネの龍は、伝統的な和彫りで迫力があったけど、メグのはすごくきれい。完成が楽しみね」
 葵はかつての同僚だったアカネの背中の龍と比較した。アカネは背中から臀部にかけて、額彫りといって、周りを黒く染めた、本格的な龍の彫り物を入れていた。龍の顔が背中の中央で、正面を向いており、非常に威圧感があった。さくらがオアシスに入店してしばらくしてから、連絡もなく店に来なくなってしまったので、美奈はアカネとは面識がなかった。
 恵の龍は、迫力があるアカネの龍に比べれば、優しく美しい。
 葵はあと一つだけ、プロになったさくらにタトゥーを入れてもらうつもりだ。恵も美奈もトヨも、さくらがプロとなった一号、二号、三号の作品として、牡丹の花を彫ってもらったので、葵も牡丹の花を腰に入れることにした。秀樹の図柄も牡丹だ。名古屋に行く機会を作り、そのとき入れてもらう予定でいる。
「葵さん、子作り、励んでます?」 とさくらが質問した。
「そんな野暮なこと、訊かないでよ。新婚だから、わかりきってるでしょう」
 葵が顔を赤く染めた。
「ただ、きちんと避妊はしてるわ。私もまえがまえだから、いらぬ疑惑を招かないよう、半年は子供を作らないようにしてるの。もっともプロの私が、失敗なんかするはずないけどね。本格的な子作りは、一〇月からよ」
 オアシスを三月末に辞めてから半年ということだ。葵は二人ぐらい子供を欲しいと思っている。トヨは卑美子が懐胎し、年内で仕事を休止することを話した。
「そうなの。卑美子先生がご懐妊ですか。おめでとうございます。これで、トヨさんとさくらの責任重大ですね。頑張ってくださいね」
 葵は卑美子の懐妊を喜び、トヨとさくらを激励した。
 秀樹が会社から帰ってから、一緒に近くの中国料理店に行った。庶民的な店だが、葵が推薦するだけあって、味はおいしかった。
 その夜は葵のマンションに泊まり、翌朝、再会を約束して葵の家を辞した。帰りはさくらが運転をしたがったので、浜名湖サービスエリアまで、さくらに運転を替わってもらった。
「この車、運転してて、なんか落ち着くわ」 とさくらは感想を述べた。さくらはふだんならもっとスピードを出すのだが、今回はほとんど時速一〇〇キロ以上は出さなかった。
「私、今までちょっと運転、乱暴だったかもしれない。これからはもっと安全運転することにする」
 さくらは安全運転宣言をした。これがきっかけでさくらが安全運転をしてくれるようになれば、事故の危険も減る。ひょっとしたら、それは車の守護霊である多恵子の影響なのだろうかと美奈は考えた。多恵子は親友まで守ってくれるのだと思うと、美奈はとてもありがたかった。
美奈はトヨとさくらを卑美子ボディアートスタジオの前で降ろし、それから恵のマンションに行った。しばらく恵の部屋で休憩してから、一緒にオアシスに向かった。
 その日の午後、葵から 「昨日はみんなの前だったから、つい空(から)元気を出していたけど、今日は足が痛くて、パートしているスーパーまで歩くのが辛い(ToT)。レジでずっと立ってるのも大変よ。今まで山に行ったとき、リーダーとして私たちを引率してくれた、美奈の苦労がよくわかったわ」 とみんなにメールが入った。


『幻影2 荒原の墓標』第16回

2014-05-03 08:49:54 | 小説
 連休ももう後半に入りました。天気は明日までは晴天ですが、明後日以降は崩れるようです。
 母が明日から3日間、長崎への旅行に行きますが、何とか天気が持ってくれれば、と思います。
 私は昨日の愛岐三山縦走がゴールデンウィーク中の唯一のレジャーです。
 今回は『幻影2 荒原の墓標』第16回です。美奈たちは静岡市の賤機山に登ります。この章を書くために、私は十数年ぶりに賤機山に取材に行きました。標高200m程度の低い山並みですが、意外と登り甲斐があり、縦走を楽しんできました



            

 七月下旬の水曜日、恵、さくら、トヨ、美奈の四人は、美奈が運転するパッソで、葵のマンションに行った。梅雨が明け、朝から暑い一日だった。
 水曜日は卑美子ボディアートスタジオは休業日だ。恵、美奈も今日は公休日にしてある。昨夜はいつものファミレスには行かず、卑美子のスタジオにトヨとさくらを迎えに行き、みんな美奈の高蔵寺の家に泊まった。美貴、裕子に 「明日葵さんのところに行く」 と告げると、 「葵さんって、ミドリさんのことね。ミドリさんによろしく」 と、二人とも葵をかつての源氏名で呼んだ。
 四人は慣れない早起きをして、早朝七時に美奈の家を出た。美奈は新しい車で遠乗りするのは、初めてだった。パッソに乗るときには、美奈はいつも心の中で、 「私の交通安全の守護霊であられる多恵子さん、どうか、事故がなく無事に行けますよう、ご守護ください」 と祈っている。以前、多恵子から 「車の陰から子供が飛び出してくるから気をつけて」 というメッセージを受けた。それでスピードを落としていたので、間一髪のところで事故を避けられたというご守護をいただいたことがあった。
 美奈の団地から東名高速道路の春日井インターチェンジまでは、車で一五分ぐらいだ。美奈は一気にパッソを静岡まで走らせた。渋滞もなかった。春日井から静岡まで、高速道路で約二時間だ。
「私、パッソには初めて乗ったけど、中は意外と広いんだね。後ろの席もゆったりしてるよ」
 トヨと後席に乗ったさくらが、美奈の新しい車を褒めた。
「でも、やっぱり一リットルのエンジンだと、四人乗ると、高速でときどきパワー不足を感じます。クーラーを強くしているせいもありますが。長い上り坂で、いったんスピードが落ちると、元に戻すまで、ぐっとアクセル踏み続けなきゃあなりませんから。加速がちょっと弱いですね。街で走るには十分ですけど」
 東名高速道路はトラックの走行が多く、速度が遅いトラックの後ろについて、スピードが大きく落ちると、時速八〇キロ以上に戻すためには、ぐっとアクセルを踏む必要があった。そのときはエンジンが大きなうなりをあげる。追い越しのときの加速にも、パワー不足を感じる。だから美奈は、遅いトラックがいると、安全を十分確認した上で、追い越し車線に出て、追い越していた。判断力、反射神経が優れた美奈の運転は、乗っている恵たちに不安を抱かせることはなかった。
 新城(しんしろ)パーキングエリアの近くに来ると、トヨが 「私の生まれ故郷は、この近くなの」 と自分の子供時代を振り返った。
「田舎、というより、山といったほうがいいぐらいのところで生まれ育ったから、短大に入って名古屋で生活し始めたとき、あまりに大きな都会で、びっくりしちゃった。豊橋や浜松だって、大都会と思っていたんだから。田舎者だったんですね、私って。実家は茶畑などやってる農家なの。短大出て、最初は真面目に銀行員をしていたけど、男の人以上に仕事をしたつもりでも、あまりにも給料の差が大きいので、バカバカしくなって。それでサンライズに入店したんですけど、きれいなタトゥーをしたお客さんを見て感動しちゃって、自分も身体を美しく飾ってみたいと思うようになったの。それが契機となって、この世界に入ったんです。もともと絵は好きだったし」
 トヨは自分の故郷と、タトゥーに興味を持ったきっかけをみんなに語った。サンライズというのは、オアシスの近くにある、同業の店だ。
「トヨさん、新城の出身なの。初めて聞いたわ」
「今は合併して新城市だけども、去年まで鳳来町(ほうらいちょう)だったところなの」
 恵の発言に、トヨは付け足した。
 車は県境の宇利(うり)トンネルを抜けて、静岡県内に入った。春日井インターに入ってから、初めてのトンネルだ。しばらく行くと、浜名湖に出た。
「浜名湖サービスエリアで休憩しませんか? お手洗い、大丈夫ですか?」 と美奈が提案すると、他の三人は 「まだ大丈夫だから、美奈さえよければ、葵さんの家に早く行こうよ」 と美奈を促した。葵の結婚式に行ったときは、浜名湖サービスエリアで少し休憩をした。さくらはそのとき食べたうなぎドッグに、少し未練があるようだった。
 この日もあまり大気が澄んでいなかったので、途中で富士山を見つけることができなかった。美奈は富士を探して、脇見運転をするわけにはいかなかった。
 春日井インターチェンジから東名高速道路に入って、予定通り二時間ほどで静岡市に着いた。高速道路を降りてから、美奈はカーナビゲーションを頼りに、葵が住むマンションへと向かった。
 葵は駿府公園から少し北に行った、閑静な住宅街に住んでいた。マンションの近くから恵が電話すると、葵がマンションの下まで出てきてくれた。葵はマンションの敷地内の駐車場に誘導した。
「ここの持ち主、明日まで出張で、駐車場空いてるから、ここに入れて。ちゃんと了承を得ているから大丈夫」
 美奈が駐車場に車を駐めてから、葵は美奈たちに、 「遠いところからお疲れ様」 と挨拶した。
「美奈、先日は餅文さんのういろ送ってくれて、ありがとう。旦那も喜んでたわ」
「葵さんこそ、北海道のお土産、ありがとうございました」
 美奈も新婚旅行の土産のお礼を言った。
「葵さんのクラウンもこの駐車場にあるの?」 と恵が訊いた。ちょっと見渡したところ、葵が乗っていた白いクラウンはなかった。
「いえ、私たち夫婦にはクラウンは贅沢なので、実家の父に譲っちゃったわ。贈与税のこともあるから、正確には譲ったというより、貸してあるんだけど。親父(おやじ)もいつかはクラウンに、なんて言ってたから、とても喜んでいたわ。いい親孝行ができた。今は秀樹のヴィッツに乗ってるの。秀樹は通勤は自転車だから、普段は私が使わせてもらっているけど。雨の日だけ私が運転して、会社まで送っていくの」
 葵は隣に駐車してある、シルバーのヴィッツを指し示した。秀樹が勤務する会社は市役所の近くなので、自転車で通勤できる。
「それはそれは仲がよろしいことで。そう、あのクラウン、お父さんに譲っちゃったのね。まだ三年ぐらいしか乗ってなくて新しいから、お父さんも喜んでるでしょう」
 美奈たちは葵の結婚式のとき、葵の両親と兄夫婦に挨拶をしている。
「親父には名古屋でOLやってる、って言ってあったから、よくこんな高い車が買えたな、と驚いていたわ。車が好きだから、一点豪華主義で、ほかは倹約して、車にお金をかけたの、とごまかしておいたけど。いくら節約だといっても、食うものはちゃんと食っていたのか? 無理しちゃあいかんぞ、と気遣ってくれたわ。やっぱり親ね。秀樹にはソープで働いている、と正直に打ち明けたけど、親にはとても話せなかった。タトゥーを入れたことも、内緒よ。そういえば美奈、三浦さんといよいよなんだってね。おめでとう」
「いえ、まだ詳しいことはあまり話し合っていませんが。ただ、オアシスは年内で辞める、ということは話しました」
「まあ、こんな暑い駐車場で話してても何だから、まず部屋に行こう。二時間以上も車に乗ってて、みんな、疲れたでしょう。今日は旦那は会社で、夜まで帰らないから、のんびりしてね」
 葵は美奈たちを冷房が効いた部屋に案内した。葵の部屋は六階建てのマンションの三階三〇一号室だった。間取りは2LDKで、夫婦で住むには十分だ。子供が生まれても、小さいうちなら、それほど手狭には感じないだろう。残念ながら、南向きのバルコニーからは、富士山が見えない。
 葵はリビングルームで、美奈たちに冷たい飲み物と切ったスイカやお菓子を出してくれた。葵は三浦の話の続きを聞きたがった。
「半月ほど前、事件の捜査で疲れて、夜遅くにうちに来たとき、三浦さんから、仕事とはいえ、君がほかの男性と寝ていると思うと、やはり心穏やかではいられない、もう今の仕事は辞めて、これからの人生を、共にしませんか、とプロポーズされたんです」
「その翌日(正確にはその当日)に私にメールくれたんだよね。それで私も休み時間に電話して、根掘り葉掘り訊いちゃったけど」
「葵さんから、メグ、知ってる? なんて電話があって、私、びっくりしちゃった。葵さんやトヨさん、さくらにはメールしてたのに、私だけ知らなかったんだから。でも、その日、美奈も私も出勤だったから、直接話してくれるんだろうな、と思って」
「ごめんなさい。メグさんだけ報告が遅くなってしまって。仕事の後、いつものファミレスで二人でじっくり話そうと思ってたんです」
「いいのよ。そのときも言ったけど、やはりこういうことはメールや電話でやりとりするより、直接会って話すほうがいいもんね。で、そのとき、美奈がオアシス辞めても、美貴や裕子たちも誘って、オアシスの同期会を作ろう、という話をしたの」
「美貴、裕子といったら、アイリとリサのことね」
 もうオアシスを辞めて四ヶ月近くになる葵が確認した。
「そう。二人ともさくらの練習台になってタトゥーを入れてから、ぐっと親しくなったの。今ではいつものファミレス、四人で集まってるのよ」
「最初はおとなしい裕子に、目立つところにタトゥー彫っちゃっていいかな、と心配してたんだけど、リスカのいやな思い出が吹っ切れたと聞いて、私もよかったと思っているのよ。裕子、最近すごく明るくなったみたいで。指名も増えたそうだし」
 裕子は今さくらに、右の腰から太股にかけて、鯉と牡丹の花を彫ってもらっている。大きな黒い鯉の周りに、色とりどりの牡丹をあしらった図柄だ。
「そういう美奈も、昔のこと思うと、すごく積極的になったね。かといって純真な面は損なわれていないし。泣き虫なところは相変わらずだけど」
 恵に褒められて美奈ははにかんだ。
 しばらく歓談してから、賤機山(しずはたやま)にハイキングに行くことになった。賤機山は標高一七一メートル、老若男女を問わず手軽に登れる山で、静岡市民の憩いの場でもある。静岡市街から間近に望むことができる山並みだ。稜線を竜爪山(りゅうそうざん)を越えて、ずっと北にたどれば、南アルプス前衛の身延山系に続いている。今回は賤機山を越え、さらに北に歩き、鯨ヶ池(くじらがいけ)まで行くことにした。
 葵は今のマンションに移ってから、パートが休みの日は、ときどき賤機山に登っている。運動しないと太ってしまう、と自分に言い聞かせ、無理やりモチベーションを高めていた。食べてもあまり太らないさくらとは違い、葵は太りやすい体質だ。しかし、ウォーキングを続けるうちに、歩くのが楽しくなってきた。その日のコンディションや都合に合わせ、観音像がある広場で切り上げたり、賤機山城跡まで歩いたりする。
 今回のハイキングの下見として、先週の土曜日、葵は夫の秀樹と一緒に、初めて浅間(せんげん)神社から鯨ヶ池までの全コースを四時間かけて歩いた。約七キロメートルのコースで、標高は二〇〇メートル程度と低いとはいえ、アップダウンも多く、けっこうきつかった。ときどきハイキングコースを歩いている葵は多少山歩きに慣れていたが、たまにしか歩かない秀樹には、少し辛かったようだ。足の指にいくつかの肉刺(まめ)を作っていた。
   浅間神社
 葵は早朝から、今日のハイキングのために、みんなの分の弁当を作っておいた。握り飯主体の弁当だ。暑い季節で、腐敗が心配なので、肉類はウインナーソーセージなど最小限にしておいたが、野菜や果物を多めにパックした。

『幻影2 荒原の墓標』第15回

2014-04-25 11:08:47 | 小説
 今朝、うちから最も近いガソリンスタンドの前を通ったら、レギュラーガソリン166円になっていました。消費税アップ、環境税導入で、ますます値上がりしています。
 もう徹底したエコ運転をするしかない、と思いましたが、他の車に迷惑をかけてまでのエコ運転は、エゴ運転になりそうです。
 今朝も、制限時速50km、片道1車線、追い越し禁止の道で、前のトラックが時速30kmでのんびり走っていたので、さすがにいらつきました。渋滞で前が詰まっているのなら仕方ないですが、そうでもありませんでした。

 今回は『幻影2 荒原の墓標』第15回目です。今回から第3章に入りました。今回は餅分総本店さんのことが書いてありますが、文中で名前を出すことは事前に了承をいただいています。餅分さんのういろは、私の彼女も大好物です


       第三章 兄の失踪


            1

 矢田川での事件が起こり、しばらくしてから、北村がオアシスにやってきた。
「いや、ひどい目に遭いましたよ。アリバイがあっても、何となく話しづらかったので、じきに真犯人が見つかり、無罪放免になるだろうと思っていましたが、まだ真犯人は捕まらないようですね。まあ、貴重な留置場体験ができたから、ぜひとも作品に活かしたいですよ」
「あのときは私も余計なことをして、すみませんでした。高村さんのプライバシーを暴いたみたいで。でも、新聞に、高村さんが重要参考人と出ていたので、びっくりして警察に電話したのです。新聞では匿名になっていましたが、高村さんだということがすぐわかりましたので」
「でも、結果的にミクさんが証言してくれて、助かりましたよ。約束通り、警察もプライバシーは守ってくれたようで、あれからマスコミの取材はあっても、変な噂は立ちませんでした」
「私は二月にあることないこと、派手に書き立てられてますし、そんな私が高村さんと一緒にいたことを嗅ぎつけられると、また何を書かれるかわかったもんじゃないですから。私は気にしませんが、高村さんには迷惑がかかります。だから、刑事さんには、秘密にしてくれるよう、よくお願いしておきました」
「ミクさんのその配慮、非常に嬉しかったですよ。しかし、こうまで僕の小説通りに殺人が起きるだなんて、どういうことでしょうね。書いた僕自身が気持ち悪いですよ。まさか、また事件が起こるんじゃないでしょうかね? あの作品にはあと二つ殺人がありますから」
「まさか、いくら何でも、そんなことは」
 美奈はそう言いながらも、しきりといやな予感がした。作品通りの殺人事件が起こりそうな予感だ。
『荒原の墓標』は、東京と奈良県橿原(かしはら)市、明日香村などの史跡を舞台とした、古代伝説にまつわる猟奇的な連続殺人事件を、北村が創作した名探偵榛名敏彦(はるなとしひこ)が鮮やかに解決する物語だ。恋人と古都の旅行を楽しんでいた榛名が、連続殺人事件に巻き込まれる、という設定である。
「以前、南木曽岳で守護霊の声を聞いたという話をしましたが、ひょっとしたら、それが関係しているのじゃないでしょうか? あれは守護霊ではなく、とんでもない悪霊の声だったんじゃないかという……」
 北村は恐ろしくて、最後まで言えなかった。そして美奈もそれに同感だった。美奈は心の中で、 「千尋さん、どうなんでしょうか? やはりあれは悪霊による事件なんでしょうか?」 と尋ねてみた。しかし、千尋からの反応はなかった。

 仕事を終えてから、美奈は恵、美貴、裕子のいつものメンバーで、なじみのファミレスで歓談の時間を持った。
 恵はさくらが描いた龍と牡丹の絵がとても気に入ったので、さっそく来週から背中に彫ってもらうことにした、と報告した。
「右肩のあたりに龍の頭を入れて、背中を龍の胴体がくねり、お尻の左側に尻尾が来るの。龍にはいくつも牡丹の花を重ねるわ。左肩の卑美子先生の蝶とも、ばっちりバランスを取ってもらうよ」
 恵はおおよその構図を説明した。
「わぁ、かっこいいですね。あたしはあと一つだけ、さくらに入れてもらって、それで終わりにするつもり。でも、今度は蓮より少し大きめの、きれいな絵を入れたいな」
「私はどうしようかな。最初に目立つ手首にやっちゃったんだから、もっと入れたってかまわないかな、なんて思ってますけど。どうせ手首は長袖着ても見えちゃって、私がタトゥーしたこと、友達にばれちゃったんだから。今度入れるとしたら、太股に少し大きめのにしようと思っています。またさくらさんと相談してみます。この前見せてもらった、鯉に牡丹を散らした絵、とてもきれいでした」
 美貴と裕子も自分たちの思いを口にした。無口でおとなしい裕子が手首まで入れることはどうかな、と美奈は最初心配していた。しかし、リストカットの忌まわしい呪縛から解放されたためか、タトゥーを入れてから明るく積極的になった裕子を見て、美奈はよかったと安心した。性格が積極的になったためか、それまで成績下位に甘んじていた裕子の指名客が、だんだん増えてきた。
 そのことを最も喜んだのは、彫った本人であるさくらだった。さくらも相談を受けたとき、美奈と同じ心配を抱いたが、 「リスカのいやな思い出を吹っ切って、自分自身を変えていきたい」 という裕子の強い決意を受け入れて、施術したのだった。
 裕子が明るくなったのは、もちろん本人の努力によるものであり、単にタトゥーを入れたおかげではない。ただ、大きな苦痛に耐えてタトゥーを入れたことが、裕子に自分の引っ込み思案の性格を変えるのだ、という強い決意をさせたことはいえるかもしれない。
 美奈は新しい友との歓談を楽しんだ。この時間も、あと半年と続かない。でも、たとえ私がオアシスを辞めても、この交友はずっと続けたいと思った。
 美奈が辞めるという決心は、恵のほか、アドバイザーの玲奈には伝えてあった。店のナンバーワンコンパニオンであるミクが辞めることは大きな痛手だが、玲奈は三浦との結婚を決意した美奈を祝福してくれた。たとえそれが内縁関係であって、正式な婚姻ではないとしても。玲奈は繁藤の事件を通じて、三浦のことを知っている。その上で、年内はよろしくお願いします、と玲奈は改めて美奈に依頼した。店長の田川には、玲奈を通して、美奈の意向は伝わっている。

 三人と別れ、美奈は自宅でベッドに入った。眠りに入る前、うとうとしていると、千尋が現れた。
「美奈さん、さっきは北村先生本人がみえたので、返事をしなくてごめんなさい。最近北村先生は、霊的な感覚が鋭敏になっているので、私の声が聞こえてしまう恐れがあったのです。
 事件については、美奈さんが考えている通りです。北村先生には、よくない霊が憑いています。ただ、いつも憑いているわけではなく、ときどき作品を書いているときに、北村先生に影響を与え、登場人物の名前を使わせているようなんです」
「すると、まだこの先も物語の通りの殺人事件が起こるのですね?」
「はい、必ず起こります。しかし、強力な悪想念を持った霊が介在しているので、それを防ぐのは不可能です。たとえ私の力をもってしても。その霊は巧妙に自分の力をコントロールしているので、私にもいつ、どこで何をするのか、予想もつきません。今はこうして警告するのが精一杯です」
 美奈はこのことを三浦に報告しようと思ったが、やめておいた。今後、どういう展開になるか、守護霊の千尋にさえ、予想ができないのだ。
 作品にある佐藤義男、大岩康之が危ないので、今のうちから保護するように、といっても、警察は取り合ってくれないだろう。三浦は捜査本部でそのことに危惧を抱いている、と発言しているが、そんな雲をつかむような話で警察が動くわけにはいかないと、一蹴されたそうだ。その佐藤義男、大岩康之がどこの誰なのか、それを調べるのも大変だ。いらぬことを言って、捜査を混乱させることはできない。だが、予告通りの殺人が起こることだけは確かなのだ。わかっていて、それを防ぐ手立てがないことが、美奈は歯がゆかった。

 美奈は久しぶりに名古屋市天白区(てんぱくく)に住む姉を訪ねた。真美は天白区役所の近くの、同じ宗派の寺に嫁いでいる。美奈は姉の寺に行く前に、餅文(もちぶん)総本店という和菓子屋の元八事(もとやごと)店に寄った。美奈はここのういろが大好きで、姉のところに行くときは必ず立ち寄っていく。一六五九年創業という老舗だ。名古屋名物の外郎(ういろう)といえば、大手の青柳総本家、大須ういろなどがすぐに思い出されるが、美奈は餅文のういろが好きだった。姪の愛もういろには目がない。まだ幼く、喉に詰まらせるといけないので、真美は小さく切って与えているが、もっと大きいものを食べたがる。葵も餅文のういろが好きなので、静岡に発送を依頼した。ちょうどお中元のセール中で、送料を無料にしてくれた。
 美奈は以前、殺人事件に巻き込まれたため、実家の寺の住職をしている兄に、タトゥーをしていることや、ソープランドで働いていることを知られてしまった。烈火のごとく怒った兄の勝政は、 「おまえの汚らわしい顔など見たくはない。もう二度と帰ってくるな!!」 と美奈を罵倒し、勘当した。
 それでも真美は美奈のことをかばってくれた。真美は何か困ったことがあれば、いつでも連絡してほしい、と美奈に言ってくれた。
 先月下旬に、真美が二番目の子供を懐妊したという連絡を受け、美奈は真美に会いに行くことにした。電話ではよく話をするものの、兄に勘当されてから、真美に会うのは初めてだった。今妊娠一一週めだ。
「お姉ちゃん、こんにちは」
 美奈は姉の嫁ぎ先の清蓮寺(せいれんじ)の庭先にいた姉に声をかけた。二歳の愛も一緒だ。この前会ったときより、少し大きくなっている。
「あら、美奈、いらっしゃい。あんなことがあって心配してたけど、元気そうでよかった。髪、少し伸ばしたの。メガネも変えたのね。どちらも似合ってるよ」
 これまで美奈はシルバーのメタルフレームだったが、最近細身の、ピンクがかったパープルのセルフレームのメガネに変えた。服とのコーディネートにより、メガネも使い分けている。ショートカットだった髪も、肩の近くまで伸ばしている。髪は染めていない。
「愛ちゃん、これ、お土産よ。餅文さんのういろ」
「まあ、いつもわるいわね。あとで切ってあげるから、ちょっと待ってなさい」
 真美はういろを見つけて食べたがる愛に言い聞かせた。
 真美と美奈は寺の居住区のキッチンに入った。広い本堂では落ち着かない。愛は最近よくしゃべるようになり、新しく買ってもらった絵本を見ては、盛んに 「これ、なにい?」 と美奈に尋ねた。知識欲が旺盛のようだ。美奈は 「これはおうち、これは自動車、ブーブよ。これは犬、わんわんだよ。愛ちゃんのとこにも、わんわんいるでしょう」 などと愛に答えてやった。清蓮寺では茶色の雑種を飼っている。寺に迷い込んだ野良の子犬が居着いて、家族になついてしまったので、追い出すのも忍びないと、飼うことにしたのだった。ゴロという名前だ。ごろごろ寝てばかりいるからゴロなのだそうだ。
 愛の相手をしている間に、真美が冷たいお茶と一緒に、美奈の土産のういろを切って持ってきてくれた。愛には小さく切ってある。愛が手づかみで食べようとしたので、真美が 「そんな、手で。フォークで食べなさい」 と制した。ういろには黒文字や爪楊枝のほうが合っているが、愛には幼児用の安全なフォークを手渡し、真美が手を添えて食べさせた。
「お姉ちゃん、また赤ちゃんできたんだって」
「うん。今度は男の子がいいな」
「まだ性別はわからないんだね?」
「はっきり確定できるのはもう少し先になるそうだけど。旦那は次は男の子を欲しがっているけど、私はどっちでもいい。でも、どっちかといわれると、今度は男の子かな。生まれるのは、来年の二月ごろの予定よ」
 真美の夫は住職であると同時に、宗派が運営している私立高校の教師でもあった。教壇に立つので、真美の夫は蓄髪をしている。教師の仕事が多忙なため、寺の行事は近くに住んでいる弟に任せることが多い。
 しばらく姉の懐妊のことや体調の話をしていたが、切りがいいところで、美奈は話題を変えた。
「お姉ちゃん、実は私、今結婚を考えているの」
「え、美奈、そうなの? 全身にいれずみしててもいいと言ってくれる男(ひと)がいるの? 前みたいに、だまされたりしない?」
 真美は気のいい美奈が、またおかしな男にだまされるんじゃないかと心配だった。
「大丈夫よ。今度の人は、絶対間違いないから。だって、この前の事件のとき、お世話になった刑事さんなんだから。お姉ちゃんも会ったことあるでしょう、三浦さん」
 相手が刑事と聞いて、真美はまた別の面で心配になった。警察官は、結婚相手にも非常にやかましいということを、真美も知っていた。今では合法であり、何の問題もない政党である共産党関係者が相手である、というだけでも、なかなか認められない。本人が共産党員ではなく、家族に党員がいても難しいという。ましてや親族に過激な左翼や暴力団関係者がいれば、絶対無理である。真美はそう聞いていた。
 もちろん美奈は左翼でも暴力団関係者でもない、真面目な女性だ。しかし、全身にタトゥーを入れてしまい、今はソープランドで働いている。
 真美は、タトゥーはもう消せないとしても、風俗の店で働くことだけはやめてほしいと思っている。しかし、これだけ大きくタトゥーをしてしまったので、なかなか他の仕事に就けないと美奈が言うので、やむを得ないかと諦めていた。美奈はハローワークや就職情報誌などで職探しをしたことを話していた。
「三浦さんはタトゥーをしていても、一緒になってくれると言っているわ。もちろん私、結婚する前に、風俗の仕事は辞めます」
「でも、いくら本人がいいと言っても、周りが許さないでしょう? 警察の上司とか、家族の人が」
「三浦さんには反対する家族はいないし、たとえそのために昇進の望みが絶たれても、一生ヒラの刑事として、地道に犯罪を追いかけていくと言っているわ」
 美奈も家族が反対しないかを三浦に問い質していた。
 そのとき三浦が話したことは、三浦には今家族といえる人はいないとのことだった。
 父親は交番勤務の巡査だったが、三浦が中学生のころ、大勢のチンピラに絡まれていた人を助けようとして、殉職した。相手は殺意まではなかったとはいえ、殴られて転倒したとき、後頭部を地面に強打した。それが死につながった。父親のそんな生き様を見て、三浦は自分も父に負けない、立派な警察官になろうと決意したという。
 母親は三浦が高校卒業後、他の男と再婚して東京に行き、あまり会うことはない。父親が悲惨な最期を迎えたため、母親は一人息子が警察官になることには、猛反対だった。弁護士が巧妙で、あれは不幸な事故だったという主張が通ってしまった。そのとき襲われた被害者や目撃者が怖くなって逃げてしまい、加害者が暴力を揮っていたという証人がいなくなってしまったのだ。相手には殺人罪ではなく、過失致死罪が適用され、執行猶予までついた。相手が軽い処分ですんだため、母親の無念が大きく、なおさら反対が強かった。三浦はそれを無理やり押し切って、警察官となったので、母子の仲はこじれてしまった。だから今は三浦が誰と結婚しようが、母親が文句を言うこともない。
「そうなの? 三浦さんは本当に美奈でいいと言ってくれるの?」
「はい。タトゥーをしていても、全然卑下することはない、と言ってくれます。三浦さんは籍を入れようと言うけど、私はしばらくは籍を入れないで、内縁関係でいようと思うの。やっぱり、正式な結婚だと、三浦さん、警察で肩身が狭い思いをするといけないから」
「そう。三浦さんがそこまで言ってくれるのなら、私も嬉しいわ。美奈、世間様がどう言おうと、絶対負けないでがんばってね。私との約束だからね」
 真美はそう言って、涙を流した。美奈も目頭を熱くした。それを見ていた愛が、 「お母たん、泣かないで」 とべそをかいた。

『幻影2 荒原の墓標』第14回

2014-04-18 13:33:19 | 小説
 先日、読者の方と話す機会がありました。その方は私の作品を、『宇宙旅行』『幻影』『幻影2 荒原の墓標』の3冊を読んでくださいました。
 なかなかよく書けていると褒めていただきましたが、官能的な描写が少ないので、もう少しそんな場面を書くほうがいいのではないか、とアドバイスをいただきました。私が苦手にしていることなのですが……

 『幻影2 荒原の墓標』の第14回を掲載します。


            

 その日の夜遅く、というより、翌日の未明に、美奈は三浦の訪問を受けた。美奈は仕事が終わってから、恵、アイリ、リサとなじみのファミレスに寄り、自宅に帰ったのが午前三時近くだった。三浦も被害者の人間関係の聞き込みで、今回の相棒、小幡署の柳刑事と歩き回り、小幡署に戻ったのは、夜遅くなっていた。関係者の聞き込み等の捜査では、これといった進展はなかった。捜査はまだ始まったばかりなのだし、これからだと三浦は自分を鼓舞した。
 事件当時は、長雨が続き、川が増水していたから、遺体は上流から流れてきた可能性もある。殺人現場、もしくは遺体を遺棄した現場はもっと上流かもしれない。上流での目撃者捜査、痕跡捜査で、何か手がかりが見つかるかもしれない。幸い事件の翌日から、梅雨の中休みで、晴天が続いている。
 小幡署に戻り、捜査本部でその日の捜査の報告や打ち合わせなどが終わったら、もう日付が変わっていた。三浦は捜査で疲れていたので、捜査本部となっている部屋で少し仮眠を取った。目が覚めると、美奈から携帯電話にメールが届いていた。
「昨日は申し訳ありませんでしたm(_ _)m。北村先生が重要参考人、ということを新聞で知ったので、私としても、知らぬ顔はできませんでした。先生、大丈夫だったでしょうか? 今仕事を切り上げ、これから友達としばらくファミレスで歓談します」
「返信遅れました。捜査本部でしばらく仮眠を取り、今目を覚ましました。北村先生は無事に釈放しました」
 美奈からのメールを受信してから、一時間半ほど経ってから、三浦は返事を送った。美奈は自宅への帰路の途中だった。美奈は信号待ちの間に、「今、帰る途中です。あと一五分ほどで自宅に着きます」とメールを打った。三浦は 「もしご迷惑でなければ、これからお伺いしていいですか? 今守山区の小幡署なので、三〇分以上はかかりますが」 と返信した。美奈には何ら異存はなかった。すぐに返信したいが、こういうときに限って、なかなか信号が赤にならなかった。
 真夜中の三時ごろ、三浦が美奈の家を訪れた。
「すみません。こんな遅い時間だというのに。刑事が一般人を訪問する時間じゃないですね」
「いいえ、私だってさっき戻ったところなんです。一般人だなんて、そんな他人行儀なこと言わないで。ここは三浦さんの自宅だと思ってもらってかまいませんから。でも、やっぱり全身いれずみのソープレディーでは、三浦さんも迷惑かしら。近所の人は、みんな私の仕事やタトゥーのこと、知ってますから」
「世間の噂など、気にすることはありませんよ。全身にいれずみがあろうが、ソープレディーをやっていようが、美奈さんは美奈さんです。僕は美奈さんが、本当は優しい心を持った、すばらしい女性であることを知っていますから」
 三浦は美奈から出されたコーヒーをすすった。美奈も一緒にコーヒーカップを手にしていたが、三浦の言葉に、つい目頭が熱くなってしまった。
「美奈さんが淹れてくれたコーヒーは、うまいですね。署で飲むインスタントとは大違いです」 と三浦はまず美奈のコーヒーを褒めた。
「ただ、タトゥーはもう消せないので、僕も美奈さんの全身のタトゥーを受け入れますが、できれば、ソープの仕事だけは辞めてほしいなと考えています。以前、『鳳凰殺人事件』で、北村先生の作品と徳山久美の事件のことを聞いたとき、何となく北村先生は美奈さんのお客さんなのだな、と感じましたが、昨日、はっきりそう聞いたとき、僕もやはり穏やかではいられませんでしたから」
 三浦にそう言われると、美奈としても返す言葉がなかった。
 オアシスでは、貴重な戦力であったミドリとルミが退職し、残ったケイとミクにかかる期待は大きかった。最近オアシスに若い娘(こ)たちが入店し、新陳代謝が活発になっている。入れ替わりが激しい業界では、二年以上勤務しているミクは、もう古株ともいえる。新しい人材が次々と入り、ミクもいつまでもナンバーワンという名にあぐらをかいていられなかった。もちろんミクはあぐらなどかいているのではなく、客の接待には真心を尽くし、仕事に努力を惜しまないでいる。
「ごめんなさい。私もそう思って、最近、いろいろ会社の面接を受けたのですが、やっぱりタトゥーのことを言うと、すべて断られてしまいまして。よほどばれるまでは隠していようと思ったのですが、これだけ大きく彫っていると、黙って入社するのは気が引けますし。健康診断なんかで、すぐばれますからね。何とかタトゥーを受け入れてくれる勤め先を見つけられないかな、と思っているのですが、今のところ、全くだめです。いくら覚悟の上で入れたとはいえ、やっぱり厳しいです」
美奈は少し前まで、公休日にはハローワークなどに行って、仕事を探していたことを三浦に打ち明けた。
仕事を探しているのは、姉の真美が、美奈がソープランドに勤めていることにあまりいい感情を抱いていないので、姉への手前を繕うためもあった。それが仕事を探しているうちに、タトゥーを容認してくれる、いい仕事が見つかれば、実際に勤めてもいいと思うようになった。もし美奈を採用してくれる会社があれば、オアシスを辞めるのではなく、土日祝日や平日の夜七時以降はオアシスに勤めるという、両刀遣いでいくつもりだ。少し身体はきついが、以前マルニシ商会というOA機器や文具の販売会社に勤めていたときは、そうしていた。美奈としては、タトゥーがあっても、一般の会社で雇ってもらえるかを知りたいという気持ちもあった。
 ただ、今はコンパニオンとして高収入があるので、是が非でも職を得なければというような、切羽詰まったものではなかった。
ハローワークの受付の女性に、あとで会って話をしませんかと誘われ、喫茶店で待ち合わせたことがあった。就職に関して何かいい情報を持ってきてくれるのかなと期待していたら、妙法心霊会という宗教団体への入信の誘いだった。その教団の春日井道場は、ハローワークの近くにある。その人には、タトゥーがあることを受付のときに打ち明けていた。最初は世間話や、 「タトゥーがあると、やはり就職は難しいようですね。でも大丈夫。きっといい仕事が見つかりますよ」 などと、ハローワークの業務に関係しそうなことを話した。しかしそのあと、 「私はぜひとも木原さんに幸せになってもらいたいから、思い切ってお話しすることにしました」 と本来の目的を切り出した。そして教団の素晴らしさを長々と聞かされた。
「あなたもぜひとも絶大な力を持つ御守護霊をいただき、幸せをつかんでください。必ずいい仕事が見つかります」
 彼女は熱心に美奈を勧誘した。
「私、もう素晴らしい守護霊がいるので、その件でしたら、大丈夫です」
 美奈はやんわりと断った。
「もう心霊会に入信しているのですか? それならそうと、早く言ってくださいよ。どこの支部、法座会に所属しているのですか?」
 その女性は、こんなに延々と説明させておいて、と恨めしげに言った。そうはいっても、ほとんど美奈が口を挟む間がないほどに、彼女一人で教団、守護霊のことをしゃべりまくっていたのだが。
「いいえ、そうじゃないですが、私には千尋さん、多恵子さんという素晴らしい守護霊様が二人もいらっしゃるのです。だから、もう守護霊をいただく必要はないのです」
 美奈が重ねて断ると、その女性は 「そんないい加減な守護霊ではだめです。おかしな憑依霊を信じると、罰(ばち)が当たって、大変なことになりますよ」 と語気鋭く迫ってきた。美奈としてはあまりことを荒立てるつもりはなかったので、下手(したて)に対応したが、千尋や多恵子のことを 「おかしな憑依霊」 と言われ、内心おもしろくなかった。
「罰が当たってどうなっても知りませんからね。いれずみのように、自分の意志で身体を傷つけることは、魂を傷つけることと同じで、仏罰(ぶつばち)によって、死んでから無間(むげん)地獄に堕ちますよ」
結局相手は憤慨し、自分の分のコーヒー代をテーブルの上に置いて、その場から立ち去った。入信を拒まれて、手のひらを返すように態度を変化させたその女性に、美奈はあきれてしまった。その後、美奈はもうハローワークには行かなかった。
千尋は 「心霊会の守護霊は、まだ十分浄化されていない低級霊が多いようです。さっきの女性の守護霊というのは、彼女の先祖霊ですが、まだ彼女を守護できるだけの力を持っていませんでした。それを知らずに、教団に一生懸命奉仕や金銭の供養をしている彼女も、導かれて入信する人も気の毒です。タトゥーをすると魂を傷つけるというのも、間違いです。肉体はあくまで魂の入れ物でしかありません。それより、魂に悪想念をこびりつかせることのほうが、はるかに大きな罪悪です。美奈さんは将来、ぜひとも作品の中で、霊界の真実などを紹介してください。私も正しい霊界の真相を美奈さんに教えますから」 と美奈に語りかけた。
 美奈はそんなハローワークでの出来事も三浦に話した。
「そうですか。やはり大きなタトゥーがあると、就職も厳しいのですね」
 最近、タトゥーを入れているタレント等も増えてきたとはいえ、一般にはまだタトゥーが受け入れられていないことを、いやが上にも感じずにはいられなかった。憧れのスターが入れているからといって、同じように軽い気持ちでタトゥーを入れてしまった女の子が、後々彫ったことを後悔する、ということも多い。
 かくいう三浦自身も、大きなタトゥーを入れた女性と結婚を前提として付き合っていることが上層部に知られれば、刑事としての将来に大きな支障が出るだろう。けれども、三浦はそれでもよいと思っている。
「たとえなかなか就職先が見つからなくても、僕が美奈さんの生活を支えてあげますよ。これからの人生、共にしませんか? 美奈さんさえいやでなければの話ですが。もちろん刑事の安月給では、今の美奈さんの収入の半分にもなりませんけど」
 三浦は照れながら思い切ったことを言った。美奈はプロポーズともとれるこの三浦の言葉が、最初は信じられなかった。それが空耳でも聞き違いでもなく、現実に三浦の口から発せられた言葉なのだと理解できると、美奈は天にも昇るように嬉しかった。
「いやだなんて……。嬉しい。でも、本当に私なんかでいいんですか?」
「もちろんです。その場の雰囲気で口から出た言葉なんかじゃ、決してありません。昨日、美奈さんから電話があってから、ずっと考えていたことなんです。いくら仕事とはいえ、美奈さんをいつまでも今の状態にしておいてはいけないと。もちろん美奈さんの都合もあるでしょうから、今すぐ仕事を辞めるというわけにはいかないでしょうが。でも、ある程度の区切りがついたら、今の仕事を辞めてもらいたい。そして、一緒になってほしいんです」
「私みたいな女と一緒になると、警察でまずいんじゃないですか?」
「僕は警察幹部になるより、鳥居さんのように、一生ヒラの刑事で、事件を追い回すほうが性に合っていますから、上の忠告など、聞くつもりはありません。事件で疲れ、傷ついたときには、いつも美奈さんにそばにいてほしい。最悪の場合は、仕事を変わってもいいと考えています」
 ヒラの刑事といっても、鳥居は正確にいえば階級は巡査部長で、刑事としては部長刑事である。だから若い刑事たちから、 「デカ長さん」 と呼ばれることもある。鳥居は現場畑で徹底的に鍛え上げられており、今さら昇進試験を受けて、警部補、警部に昇進しようという気持ちはなかった。三浦は巡査長だ。
「嬉しい。私、俊文さんのこと、心から愛してます」
 美奈は三浦さんではなく、俊文さんと呼んで、三浦の胸の中に飛び込んだ。三浦は美奈の身体と心をしっかり受け止めた。美奈は三浦の胸の中で、しばらく泣いていた。そして、幸福感に酔いしれていた。
「ただ、お店を辞めるのは、もう少し待ってください。葵さんとさくらさんが辞めてまだ三ヶ月なので、あとしばらく続けていたいんです。店長さんから期待されていますから。別にそんな義務はないんですが、もう少し店長さんの気持ちに報いたいんです」
「美奈さんは義理堅いんですね。そこがいいところでもあるんですが。ところで美奈さん、作家目指して作品書いているのですね。あれから進みましたか?」
三浦は話題を美奈が書いているミステリーのことに移した。
「はい、あと少しで完成です。事件の謎に迫るクライマックスで、四〇〇字詰め原稿用紙に換算して、五〇〇枚を超えました。北村先生が完成したら見せてくれ、と言われるんですが、やっぱり私の拙(つたな)い作品をプロの先生に見せるのはちょっと気後れします」
「五〇〇枚か。すごい大作ですね。でも、北村先生の推薦を得られれば、デビューできるかもしれませんよ。僕が読ませてもらった分は、なかなかよくできてると思います」
「だけど、万一何かの拍子に、先生が私のお客さんだったなんて知られたら、またゴシップ週刊誌に何を書き立てられるかわかりませんし。先生には迷惑かけられません」
 二人はしばらく美奈の作品の話などをしていた。警察でのやりとりの描写などは、三浦のアドバイスを受けている。そうこうしているうちに夜明けが早い七月上旬の空は、東の方がわずかに青みがかってきた。三浦はざっとシャワーで汗を流して、少し眠ることにした。

美奈は葵とさくら、トヨに、近いうちにオアシスを辞めると三浦と約束したことをメールした。恵にはオアシスで会えるので、直接話すつもりだった。
 葵もさくらも美奈の知らせに驚いた。以前、美奈は繁藤に結婚をエサに一〇〇〇万円をだまし取られそうになったことがある。しかし今度はまじめな刑事である三浦が相手なので、繁藤のときのような、金目当ての詐欺である心配はなかった。ただ、刑事と全身いれずみのソープレディーで、うまくいくかどうかを心配した。
 日本国憲法第二十四条では、 「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」 とある。しかし警察官の場合は、結婚相手に対しての身元調査などがある。そしてふさわしくない相手ならば、上司などから忠告を受ける。これは実質的な制約ともいえる。もっとも国の最高法規である憲法の規定があるので、結婚自体を阻止されることはない。それでも警察という組織にそぐわない結婚を強行した場合は、以後の昇進などは絶望的となるかもしれない。
 それでもかまわないと三浦が断言してくれたと伝えると、葵もさくらも美奈のことを祝福してくれた。

オアシスでの仕事が終わり、美奈は 「今日は二人だけで話がしたいから」 と恵をなじみのファミレスに誘った。今日はアイリは公休日だった。
「三浦さんのことね」
 ファミレスに着いたら、恵が口火を切った。
「もう知ってるんですね」
「うん。葵さんからもさくらからも、電話をもらったから。あの二人に話せば、何でも筒抜けよ。私には会って直接話すつもりで、メールをくれなかったんだと思ってた」
「ごめんなさい。メグさんだけ報告遅くなっちゃって。今日会えるから、会って直接話すほうがいいと思って」
「気にすることないよ。やっぱりこういうことは、直接会って話したほうがいいもんね。でも、おめでとう。とうとう美奈の念願かなったのね」
「ただ、今の仕事、続けることができなくなって」
「そりゃあ当然でしょう。結婚してもこの仕事を続けることを許すような旦那なら、私がぶん殴ってやるわ。で、いつごろの予定?」
「まだ時期なんかは話し合っていないんです。私もあと少しだけこの仕事続けたいと思うから。せめて年内はやろうと思います。葵さんやさくらさんが辞めて、すぐに私まで辞めては、お店にも申し訳ないし。それにせっかく美貴(みき)(アイリ)さんや裕子(ゆうこ)(リサ)さんとも親しくなれたんだし」
「私たちのことより、彼氏のほうが大事だよ。私はもちろん、美貴や裕子だって、仕事辞めても、これからもずっと友達として付き合っていけるんだし。お店に対しても、美奈は十分尽くしているんで、そんな義理立てすることない。でも、三浦さんと結婚するのなら、絶対この仕事続けることは無理なんだから」
「それから、私、ずっと考えていたんだけど、三浦さんとはしばらく籍は入れないでおこうと思ってるんです」
「何で?」
「だって、私と正式な夫婦になれば、三浦さん、警察ではもう昇進の望みがなくなっちゃうんだし。私は内縁でもかまわない。彼の愛情さえしっかりつかんでいれば」
「その古風なところ、何となく美奈らしいわね。でも、そんな悠長なこと言ってたら、三浦さん、逃がしちゃうかもしれないよ」
「大丈夫です。私、彼のこと、信じてますから」
 以前、美奈は守護霊となった千尋から、将来必ず三浦とは幸せな家庭を築くことができるという予言をもらっている。ただ、紆余曲折も多々あるので、どんなことがあっても三浦を信じなさいとのことだった。やはり警察官である三浦と幸せな家庭を築くためには、いろいろな障害が待っているのだろう。しかしハッピーエンドが約束されているので、美奈はどんなことがあっても負けないぞ、と決意している。
「ああ、いいなあ。私も早くいい男(ひと)探さなくっちゃあ。この仕事、もう五年もやってるし。オアシスでは最古参の部類だもんね。やっぱり仕事と恋愛は別だから」
 恵はそう言いながらも、仕事も楽しんでいた。もちろん客の接待には、真剣に取り組んでいる。
 美奈は昨日の出来事を、北村弘樹のプライバシーに関わることを除いて、恵に話した。三浦も仕事とはいえ、美奈が他の男とベッドに入っていることに、穏やかならぬ気持ちを抱いていることを言うと、 「そりゃあ当然よ。そうじゃなかったらおかしいわ。三浦さんもそこまで言ってくれるなら、私のことなんか気にしないで、この仕事、辞めるべきよ。私は寂しいけど、やっぱり美奈のためだもん」と、恵は珍しく涙を流した。そんな親友の涙を見て、美奈は我慢できなくなり、泣き出した。
「ごめんなさい、メグさん。葵さん、さくらさんに続いて、私まで辞めちゃったら、メグさんひとりになっちゃう。だから私……」
「相変わらず優しいのね、美奈は。でも、私は大丈夫。今は美貴や裕子とも親しくなれたし。それ以外にも、たくさん友達がいるから。それより、美奈は三浦さんを大切にしなくちゃあ。美奈が辞めても、私たちはずっと親友よ。一生ね。葵さんも、さくらも。それに美貴も裕子も」
「メグさん、ありがとうございます。私、本当にすばらしい親友と出会えました。でも、私、もうしばらく、今年いっぱいぐらいはオアシスで働きます。三浦さんも待ってくれると言ってましたから。このこと、まだ美貴さんや裕子さんには内緒にしておいてください。美貴さんや裕子さんとも、私がオアシスにいるうちに、もっと友情を深めたいです」
「そうね。私だっていつまでもこの仕事、続けられないから。私もせいぜいあと二年、ってとこね。それまでに次の就職先を見つけなきゃ。永久就職ができれば、一番いいんだけど。将来オアシスの同期会作ろうよ。葵さん、さくら、美貴、裕子はもちろん、ほかにも誘って、賑やかにやろうよ。玲奈さんにも声をかけて。美奈と私が発起人ね」
「同期会、いいですね。ぜひ作りましょう」
二人は同期会のことで盛り上がった。そして、美奈の小説が今クライマックスで、間もなく完成する、ということを話した。
「オアシス辞めたら、今度は作家としてがんばってね。本が出たら、私もオアシスの従業員みんなに紹介するから。店長にオアシスの人数分買ってもらって、全員に配ってもらおうかな」
 恵はそう言って美奈を激励した。

           7

「おい、久美に続いて、山下まで殺されてしまったぞ」
「いったいこれはどういうことだ」
「ひょっとしたら、俺たちのことをかぎつけ、復讐しようとしているやつがいるんじゃないのか?」
「でも、久美を殺(や)ったやつは、もう捕まったんじゃなかったのか? 確か山岡とかいうやつだった。行きずりの殺しだったそうだが」
「もし警察が山下と俺たちの関係に気づくと、やばいことになるかもしれないぞ。今回の事件には俺たちは無関係でも、以前のことがある。久美の件は解決したようだが、もし久美とのことも気づかれると、さらにやばい」
「俺たちとの関係は知られないように隠してきたつもりだが、万一気づかれたらまずいな」
「まあ、そんなに簡単に山下との関係がわかることはないと思うが。しかし、こうして俺たちが集まっていることがわかるだけでもやばい。これからはなるべく電話やメールですませ、顔を合わさんようにしたほうがいいんじゃないのか?」
「携帯電話やメールだと、通信記録が残ってしまうんじゃないか?」
「単なる偶然ならいいが、もし俺たちが知らない敵がおり、一人ひとり復讐しているのなら、危険だ」
「でも、久美の件については、もう犯人は捕まっている。やはり、偶然が重なっただけじゃないのか」
「だが、ちょっと聞いた話では、北村何とかという小説家が書いた本に、俺たちの名前が出とるということが話題になっているそうだが、どういうことなんだ? そんな作家は全然知らんがや。だが、殺された山下は、そのことを気にして怯えとったぞ。あいつはけっこう本読むの好きだったからな。俺もあんまり山下が言うんで、ちょっと読んでみたが、そんなもん偶然だで、気にするなとは言っておいたんだけどな。しかしやっぱり俺たち四人のうち、三人の名前が出とるんで、ちょっと気持ち悪いがや」
「俺も小説なんか趣味じゃないから、あんまり読む気にはならんかったけどな。久美は推理物とか好きで、よく読んどったみたいだな。今朝聞いたニュースでは、その作家は事件には全く関係がなく、偶然の一致だということだ」
「その作家がどうのこうの、そんなもん、関係ない。もし犯人が俺を襲ったら、誰であろうと、逆に返り討ちにしたるぜ。この無敵の拳でよ」
「そうはやるな。相手の正体がわからんうちは、うかつに動かんほうがいい。とにかく、当分の間は十分注意しないとな。夜の一人歩きなどは、極力避けるようにしよう。もし何か情報がわかったら、また集まろう」


『幻影2 荒原の墓標』第13回

2014-04-11 12:49:01 | 小説
 今日は風もなく、穏やかな晴天です。最近は風が強い日が多く、部屋の前にある大きな桜の木は、あらかた花が落ちてしまいました
 今回は『幻影2 荒原の墓標』13回目を掲載します。新たな事件が起こり、物語はいよいよ連続殺人への謎を深めていきます。


            

 小笠原安治(おがさわらやすじ)は早朝、名古屋市守山区、千種区、東区の境界に当たる矢田川の河川敷をジョギングしている。会社を定年退職したが、老後の蓄えも十分あり、生活のために働く必要はない。家にいれば、女房に粗大ゴミ扱いされるので、毎日近所の同年配の人たちとゲートボールに興じたり、囲碁の対局を楽しんだりして余暇を過ごしている。しかし、最近体調が悪くなり、近くの病院で診てもらうと、糖尿病と宣告された。医師から適度な運動を勧められ、毎朝のジョギングを始めた。
 早起きは何でもないのだが、最初は少し走り始めると、すぐに息が上がってしまい、目標の距離を走ることができず、諦めてしまった。家を出てすぐに帰ると、女房に 「せっかく高いお金を出してジョギングシューズやウェアを買ったのに、だめな人ね」 と馬鹿にされた。
 いつも粗大ゴミ扱いされる女房にそう言われると、何となく悔しさが込み上げ、よし、やってやろうじゃないか、と決心に火が点くのだが、また長続きしない。
 近所の友人たちに、早朝のジョギングのことを話すと、 「やっさんもジョギング始めなさったんか。わしも健康のために何とか続けようと思っても、結局三日坊主で、なかなか続かなくてな」 というような話になった。それで、ゲートボール仲間の男女四人で、一緒に励まし合って走ろう、ということになった。
 やはり一人だけで走るより、仲間がいるほうが張り合いが出る。毎朝六時に矢田川河川敷の千代田橋緑地に集合して、走り始める。みんな六〇歳以上なので、無理はせず、ゆっくりしたペースで走る。
 安治は今まで自宅近くの街中を走っていたが、河川敷の緑の中を走るほうが気持ちがいい。四人は最初のうちはすぐにばててしまい、ペースもばらばらになってしまった。それでも慣れるに従い、四人の息が合うようになってきた。
 このところ、雨が続いていた。梅雨も末期に入ったのか、降れば大雨になることが多い。昨夜はかなり降っていたようだ。今日は久しぶりに朝から晴天なので、早朝、四人が千代田橋緑地に集まった。矢田川の水量がいつもより多かった。流れは土色に濁っていた。集まった四人は、 「久しぶりの晴天だね」などと話し合った。
「では、朝の気持ちがいい空気の中で走るとしますかな。最初は早足ぐらいのゆっくりした速さで行こう」 と安治が切り出した。雨でぬかるんだところは避けて、舗装してある道を走る。
 走り出そうとしたとき、唯一の女性メンバーである芦田喜久枝(あしだきくえ)が、 「あれ? あそこにあるのは何だろうかね?」 と、川の畔(ほとり)の草むらを指さした。
「何だね、喜久さん」 と安治が尋ねた。
「ほら、あれよ。人形みたいなのが草むらに流れ着いているけど。私、なんだか怖いわ。ちょっと見てきてよ」
 喜久枝は不安そうにその草むらを指し示した。単なる人形ではなく、ひょっとしたら、という思いが頭をよぎった。自分ではとても確認に行く勇気がなかった。
「やっさん、あれは」
 もう一人のメンバーが恐る恐る言った。三人がためらっている中、安治は気を奮い立たせて、その“物体”の方に進んでいった。そして、それを確認して大声をあげた。

 七月七日早朝、名古屋市守山区と東区の境界をなす矢田川の河川敷で、男性が死んでいるとの通報を受け、小幡署の署員が駆けつけた。現場近くの守山自衛隊前交番から、外勤巡査が先に来ていて、現場を保存していた。発見者は小笠原安治始め、四人のジョギング仲間だ。
 被害者は三〇代の男性。死因は後頭部を鈍器のようなもので殴打され、それが致命傷となっていた。遺体に抵抗の跡がないので、いきなり背後から襲われたのかもしれない。死亡推定時刻は前夜一〇時から一二時ごろと思われる。
 その場で殺されたのか、上流から流れてきたのか、それとも他の場所で殺され、ここに運ばれてきたのかは、現時点ではわからない。何時間か水に浸かっていたようだ。昨夜はかなり雨が降り、矢田川は増水していた。
 男性は持っていた運転免許証から、山下和男、三五歳と判明した。住所は名古屋市中川区春田××。遺体は司法解剖に付されることとなった。
 この事件には、県警捜査一課の石崎警部の班が投入された。石崎警部の指揮の下、三浦も現場に急行した。

 翌朝、美奈は新聞を読んで驚いた。社会面に昨日の矢田川での事件が報道されていた。美奈が取っているY新聞は、中部地区では夕刊を発行していない。昨夜は仕事から帰ると、インターネットでニュースを見る余裕すらなく、ベッドに入ってしまった。だから、朝刊で初めて事件を知った。
 殺された男性の名前が山下和男、遺体が見つかったのが川の畔の草むらというのは、北村弘樹の『荒原の墓標』の設定そのままなのだ。新聞の記事には、名前は匿名にされていたとはいえ、某作家の作品の登場人物と同姓同名の被害者が、よく似た状況で殺害されていたため、その作家を重要参考人として事情を聴取している、と報道されていた。美奈はすぐ三浦に電話した。
「ええ、そうなんですよ。たまたま小幡署にミステリーファンの刑事がいて、そのことに気づきました。それで、昨日の捜査会議で、大騒ぎになっています。僕も今回の事件の担当になり、昨夜、北村先生に重要参考人として小幡署に来てもらいました。先生は続いてこんなことが起き、自分自身が最も驚いている、と言っています。もちろん事件への関与は否定していますが、アリバイについては口をつぐんでいるんです」
「先生は犯人じゃありません。先生には、アリバイがありますから」
「え? 美奈さん、どうしてそんなことがわかるのですか?」
 美奈に北村弘樹にはアリバイがあるといわれ、三浦は不審に思った。そして、やっぱりそうだったのかと思い当たった。
「先生は、そのとき、私と一緒でした。一昨夜一〇時から、一一時半までの一時間半、オアシスに見えました。私が接待したのは、一〇時半ごろからですが、その三〇分近く前には店にお見えでした。店を出たのは、一一時半を過ぎていたので、三〇分で現場に向かい、人を殺すのは不可能だと思います。私が証人です。たぶん、先生は風俗店にいたことが言いづらいので、黙秘しているのだと思います。一時は疑われても、自分は犯人じゃないから、きっとまた前回のように真犯人が見つかり、無罪放免されると思っているんじゃないでしょうか」
 美奈はそのとき北村と、以前の作品のことや、南木曽岳登山のことなど、話した内容を簡略に述べた。
「わかりました。美奈さんが証人なら、間違いないと思います。確認した上で、北村先生は釈放します」
 三浦は『鳳凰殺人事件』のことを聞いたときから、北村がミクの常連客であることをうすうす感づいていた。とはいえ、美奈からはっきり言われ、複雑な気持ちだった。美奈も非常に言いづらいことではあったが、北村は事件に無関係であることがわかっていながら、放置しておくわけにはいかなかった。
「すみません。それから、言いにくいことなんですが、先生も社会的な身分がありますから、できれば風俗にみえたことは内密にお願いしたいんです。特に私は繁藤の事件で、マスコミに派手に書き立てられてしまったから、多くの人に知られています。そんな私と関係していたことがわかったら、先生がどんなスキャンダルに晒されるかわかりませんし」
 美奈は気まずそうに三浦に頼んだ。
 美奈のスキャンダルに関しては、警察官の一人が雑誌記者に美奈のことをリークしてしまったことが、情報が漏れた原因の一つでもあった。三浦はそのことで、警察の一員として美奈に申し訳なく思っている。
「承知しました。無関係な先生をスキャンダルに巻き込むことは、警察としても本意ではありませんから」
 三浦は美奈の気持ちを汲んで、善処することを約束した。

 美奈からの証言を受け、三浦は小幡署の倉田警部とともに、再度北村の聴取を行った。オアシスのミクの名前を出すと、北村は渋々一昨夜のことについて、供述を始めた。北村の話は美奈の言葉と何ら矛盾はなかった。これまでの捜査で、被害者と北村には何の接点も見いだせなかった。それで、犯人としての適合性がないと判断された。
「あの、刑事さん、僕のことをしゃべったのは、ミクさんなんですか?」 と北村は尋ねた。
「ええ。新聞で事件を知って、先生には明確なアリバイがあるから、犯人ではあり得ない、と連絡がありました。しかし、ミクさんは先生がいらぬスキャンダルに巻き込まれないように、と非常に心配していましたよ。それに警察としても、無実の人をスキャンダルから守るため、余計なことは言いませんので、どうぞご安心ください」
 三浦は美奈を擁護するためにも、北村を安心させるように話した。

 北村弘樹はアリバイが成立し、事件と無関係ということがわかり、小幡署では改めて捜査方針について会議が持たれた。
 二件も続けて北村弘樹の小説に酷似した事件が起きたことに、釈然としないという意見もあった。北村のアリバイはまず疑いのないことだが、中には北村が殺人を依頼したのではないかという者もいた。だが、前回の徳山久美の事件では、北村と被害者、加害者とは何の接点も認められなかった。犯人の山岡も、北村の関与を否定した。山下和男に関しても、現時点では北村との関係は見いだせなかった。北村が依頼殺人を行ったということには、無理があった。
 これまでも事件発生当時の目撃者探しや現場の徹底捜査等をやってきたが、当時はかなり激しく雨が降っていて、目撃者はまだ見つからない。資料なども雨で洗い流されてしまったのかもしれない。
 山下和男の自宅を捜索しても、犯人に結びつくようなものは見つからなかった。近所の人たちは、山下は毎朝出勤していたので、どこかに勤めていたようだと言っていた。しかしその勤め先を具体的に知っている者がいなかった。山下は柔和で人当たりがよいという一方、何を考えているのかわからない人だという評価もあった。預金通帳にはかなり残高もあり、どういう仕事をしているのかわからないということが、不審といえば不審だった。
 まずは引き続き、現場での不審者や不審車などの目撃情報の聞き込み捜査、被害者のその日の足取り捜査、被害者の交友関係の捜査を軸とすることが確認された。遺体は解剖の結果、肺や胃からは矢田川の水がほとんど検出されなかった。つまり川に投げ込まれる前に頭部への殴打により、息が絶えていたことを物語る。