平沼オフィスよりメールがきた。
まず動画、これはyoutubeに上がったらこちらにもアップします。
「与謝野副代表について」・・・平沼さん、意を決して与謝野さんを擁護、この悲愴な平沼さんの心がわかるか?
私は騙されない、でも平沼さんは「漢」だ。
それともうひとつ、「赤穂浪士」について・・・長い文章ですが、平沼メールから転載しました。(以下参照)
◎12月14日と申しますれば・・・「忠臣蔵」ですね。
■赤穂浪士と山鹿流
12月もこの時期になると、以前は、テレビ番組などでも赤穂浪士が放映されたものです。
今年の大石内蔵助の役者は、こうだった。去年の役者の方がよかった等々、お茶の間の話題をそれなりに誘ったのが、時は元禄十四年十二月十四日の赤穂藩四十七士の討入です。
ところが、最近の若い人は、この赤穂浪士の物語を知らない人が多いのですね。
そういえば、最近はテレビでも赤穂浪士はまったくといっていいくらいやらなくなった。
テレビ局に巣食う反日の連中からしたら、日本人のDNAを目覚めさせる赤穂浪士の物語は、放映してほしくない番組なのでしょう。
ところでその赤穂浪士ですが、戦後生まれの私たちの世代は、とっても大切な、物語のいちばん大事な部分を実は知らされずにきているといわれています。
それはどういうことかというと、赤穂浪士における吉良上野介と主浅野内匠頭の確執は、巷間言われているような「厭味な爺の若者いじめ」のようなものとはまったく違う、ということです。
この二人の確執の背景には、実は、山鹿流という皇室尊崇を説いた学問を学んだ内匠頭と、幕府将軍家こそ大事とする吉良上野介との思想の対立がある。
その対立が、浅野内匠頭の殿中松の廊下の刃傷沙汰のあと、あの、何事にも意思決定に時間のかかる徳川幕府をして、その日のうちに切腹という素早い対応をさせたし、大石内蔵助が討入の際、夜中に敢えて山鹿流陣太鼓を打ち鳴らした理由でもある。
どういうことかというと、山鹿流というのは、皇室尊崇を説く学問です。
もともと学者だった山鹿素行は、四十七歳(ここでもなぜか47)のとき、「中朝事実(ちゅうちょうじじつ)」という本を書きます。
この「中朝事実」を確信したとき、山鹿素行は、「五十年の夢、いっときに覚(さ)め申し候」と述べている。
何を確信したかというと、孔子の教えはありがたいが、考えてみると、そのありがたい教えを実現しているのは、なんのことはない、日本である、ということです。
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天地の至誠、天地の天地たるゆゑにして、
生々無息、造物者の無尽蔵、
悠久にして無彊の道也。
聖人これに法りて天下万世の皇極を立て、
人民をして是れによらしむるゆゑん也
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たびたび政権が交代し、虐殺非道が行われる支那は「中華」などと、とてもじゃないが言えません。
君民一体となって理想の国家を築き上げている国こそが「中つ朝」、すなわり「中華」そのものであるとするなら、それはまさに日本である。
これこそが、「中朝事実」である。
我が国は、天皇が、皇祖、天照大神(あまてらすおおみかみ)の昔より、至誠の道を歩み、人民もまた、自らを戒め、徳に向って生きている。
これぞ、万民すべて安らかで、天下万国すべてが平穏で無事な状態である。
そしてこのことが「天壌無窮の神勅」の意味である。
山鹿素行は、自らの発見に感動し、江戸に私塾を開いて子弟教育をします。
ところがこれに「待った」がかかった。
かけたのは、幕府です。
当時、実質的に日本の統治をしていたのは幕府です。
ところが、天皇こそが日本の長であると説く山鹿流は、幕府にとって都合が悪い。
それは事実(将軍は天皇によって位階を授かる征夷代将軍)であるけれど、日本の統治に頭二つはいらない。
山鹿流は幕府の統治に混乱を招き、国内の安寧を脅かす原因となる。
こうしたことに敏感に気がついたのが新井白石です。
やはり白石はただものじゃない。
で、どうなったかというと、山鹿素行は江戸を所払いになってしまいます。
要するに江戸を追い出されたのです。
幕府に眼をつけられて追い出された男です。
普通なら士官など、まず無理です。
ところが、この山鹿素行を、高禄を持って(なんと家老待遇です)迎え入れたお殿様がいます。
それが、播州赤穂藩の浅野内匠頭の祖父で初代藩主の浅野長直です。
長直は、赤穂藩で塩田を起こして全国の塩の7%のシェアをとるまでに成長させ、また寛文元(1661)年には、京都内裏が炎上した際に、新内裏造営を命じられています。
このとき内裏を再建したのが、筆頭家老の大石良欽で、彼は大石内蔵助の祖父にあたります。
そして寛文5(1665)年に、山鹿素行が幕府に睨まれて赤穂に流罪されてきたとき、その山鹿素行をなんと1000石という家老待遇の高禄で迎え入れた。
そして子や孫、家臣達に山鹿素行の講義を受けさせ、山鹿流兵学を赤穂藩の学問の柱に据えています。
要するにこの時点で赤穂藩は、幕府から眼を付けられていた。
つまり、内匠頭や内蔵助は、子供のころから山鹿流を自らの血肉として育ったわけです。
その内匠頭が、ある日、幕府の勅使下向の接待役を命ぜられます。
相方は、幕閣の由緒ある家柄の吉良上野介です。
江戸時代というのは、いまでは考えられないほど、身分の上下がやかましかった時代です。
そうしたときに、天皇の勅使をどうみるか。。。。
勅使は天皇の名代です。
そして将軍は、天皇に任命された征夷代将軍です。
では、勅使の席次は、将軍の上か下か。
席次のうるさかった江戸時代のことです。
これはたいへんな問題です。
吉良上野介は幕閣です。当然、将軍家が上座です。
内匠頭は、山鹿流です。勅使が上座です。
こうなると勅使接待の際の、他の者の席次から料理を出す順序、お部屋の位置にいたるまで、ことごとく違ってくる。
両者は激しく対立します。
けれど、勅使接待役の総責任者は、吉良上野介です。
意見が対立したら、内匠頭の案は退けられます。
いまでもそうだけど、この手の対立というのは、抜き差しならないところまで高まりがちです。昨今の保守同士の理論の対立、たとえば、親米か反米か、女系天皇容認か非容認かなど、同じ保守同士でも、極端な対立が生まれる。
そしてこういう理論的対立は、互いに相手を「絶対に許せぬ!」なんてところまで発展させてしまう。
こらえにこらえていた内匠頭が、ついに怒りを爆発させたのが、殿中松の廊下です。
彼は吉良上野介の額に一太刀あびせてします。
そして停めにはいった梶川殿に、「御止め下さるな梶川殿。五万三千石、所領も捨て、家来も捨てての刃傷にござる。武士の情けをご存知あらば、いま一太刀、討たせて下され、梶川殿」と、まぁ、こういう名セリフが実際にあったかなかったかは別として、彼は刃傷事件を起こしてしまう。
内匠頭は、切腹となり、赤穂藩はおとりつぶし。
旧赤穂藩士たちは、浪人し、ある日、吉良上野介の家に押し入り、意趣を晴らした、というのが、赤穂浪士の物語です。
そしてこの討入の日、内蔵助は、「山鹿流陣太鼓」を叩きます。
後年、歌舞伎や文楽、講談といった江戸の町芸能で、赤穂浪士は盛んに上演されますが、吉良と内匠頭の確執(じいさんの若者イジメ)が、実は山鹿流という思想上の対立に根差したものという「説明」は、まるでされません。
そういうことは、幕府のお膝元の江戸での興行で、いちいち語ることができないからです。
だから、そのあたりの説明は、いっさいなく赤穂浪士は上演され、最後に内蔵助の討入の際に、吉良邸の隣りの上杉のお殿様に、「うぬ。山鹿流陣太鼓の音、内蔵助め、やりおったなっ!」という名セリフで、印象付ける。
このセリフが出たところで、観客は、「ああなるほど、冒頭の爺様の若者イジメは、実は山鹿流が背景にあったのか」と知るわけです。
こういうハナシは、芝居では説明されず、芝居小屋の帰り道に、お父さんが子供に言い聞かせる。
それで子供たちは、なるほどと納得する。
「江戸の芸能は、芝居の途中と帰り道に、二度楽しめる」と言われるゆえんです。
たてまえと本音が、高い次元で融合していた。
ちなみに、明治天皇が崩御された際に、当時まだ6歳だった昭和天皇のお守役だった乃木希典は、昭和天皇のもとを訪れ、涙を累々と流しながらこの山鹿流の講義をしています。
昭和天皇が、そんな乃木の姿を見て、「爺は、どこか遠くにでかけられるのか?」と可愛い声で質問なされた。
乃木は何も答えず、滂沱の涙を流し、その足で自宅に帰ると、妻とともに割腹し殉死しています。
乃木は幕末の長州藩士であり、吉田松陰の松下村熟生です。
その松下村塾は、そもそもが山鹿流兵学師範所です。
塾頭の吉田松陰は、11歳で毛利公の御前で「山鹿流」の講義をし、藩主から過分ともいえるお褒めをいただいた人でもあります。
そして幕末、山鹿流は「尊王攘夷」の言葉を生み、倒幕を実現し、明治国家を建設しています。
いいかえれば、明治という国家の中枢をなした思想が、山鹿流だった。
ですから戦前は、赤穂浪士といえば、多くの人は、吉良と内匠頭の確執は、思想上の対立であったと理解していた。
その子弟たちが起こしたのが明治維新であり、ですから明治国家における中心思想はまさに山鹿流にあったということができます。
ところでその山鹿素行の山鹿流ですが、戦前まであれほどの影響力をもった思想でありながら、戦後、山鹿素行を解説した本は、ただの一冊も出版されておらず、また、全国に数ある大学で、山鹿素行、あるいは山鹿流を研究している大学のゼミは、ただのひとつもありません。
以上、平沼オフィスメールより