華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

対話というもの――『思索の淵にて』に絡めて

2006-09-05 01:34:06 | 本の話/言葉の問題


 疲れているようで(多分、今頃になってのっそりと夏バテが出て来たのだろう)、このところ本の話を書いてしまうことが多い。今日もまた、本の話を。……といっても「紹介」や「お勧め」というほどではないのだが。

 少し前に『思索の淵にて――詩と哲学のデュオ』(近代出版)を読んだ。詩人・茨木のり子とヘーゲル研究者・長谷川宏の共著ということになっているが、普通の意味の共著ではない。茨木のり子の詩を30編ほど選び、「その1編1編に触発される思い」(長谷川)を短い散文で表現したものだ。長谷川は以前、谷川俊太郎の詩でも同様の試みをしている。

 選択された詩は私の好みから言うと「ベスト30に入るかなあ?」というものもあるが、「散文とのセット」はどれもおもしろい。ここでは、そのひとつを紹介する。

茨木のり子の詩は『四海波静』。

◇◇◇
戦争責任を問われて
その人は言った
 そういう言葉のアヤについて
 文学方面はあまり研究していないので
 お答えできかねます
思わず笑いが込み上げて
どす黒い笑い吐血のように
噴きあげては 止り また噴きあげる
(中略)
四海波静かにて
黙々の薄気味わるい群衆と
後白河以来の帝王学
無音のままに貼りついて
ことしも耳すます除夜の鐘
◇◇◇

 長谷川宏が書いた散文のタイトルは『公式発言』。中で彼も簡単に触れているが、「そういう言葉のアヤについて……」うんぬんの部分は1975年、昭和天皇が訪米時の記者会見で戦争責任について問われたときの回答である。

 長谷川はこの発言で虚を突かれ、「どこをどう叩けばそんな返答が出てくるのか、見当がつかなかった」という。敗戦の時に5歳だった自分でさえ、戦争の責任とは何かに無関心ではいられなかったのに、開戦と終戦の詔勅を発した人が本当に「言葉のアヤ」と思っているのだろうか、と。その疑問を自分の中で転がしているうちに、彼は「解答などあたえられようのないことがわかった」。

 以下、途中から原文を引用する。
◇◇◇
そもそも「言葉のアヤ」や「文学方面」が当人の本意かどうかすらはっきりしない。対話の進むなかで互いの真意があきらかになっていくためには、対話者それぞれが生身の一個人として立っていなければならないが、天皇という存在は生身の一個人からは限りなく遠いところにあるのだ。(中略)「言葉のアヤ」という応答も、話題を封じるためにまわりのだれかれがひねりだしたことばかもしれない。
そんな考えをめぐらしつつ、天皇という存在は制度に鎧われたなんと悲しい存在だろうと思った。公的存在でしかなく、公式発言をもってしか人と対峙しえないとは、一個の人格としてあまりに貧しく、あまりに硬い。万世一系や国の象徴といった意味づけがそのような貧しさを強いているとすれば、やはり天皇制は解体されねばならないだろう。(以下略)
◇◇◇

 私はあまりこういう見方で天皇制を見たことがなかったので、この文章は非常に新鮮だった。天皇が持たないのは、苗字だけではなかったのだ。

 感想をもうひとつ述べると、「対話者がそれぞれ生身の一個人として立っていなければ、対話の進む中で真意が明らかになって行くことはない」という考え方に私は強い共感を持った。私はほそぼそとブログなど書き始めてからネット上で大勢の知人を持つことが出来たが、「意見の相違があっても、対話を重ねることによって相手が何を言いたいか理解でき、容認し合える」人と、そうでない人がいる。おそらく生身の一個人として対話する気のある人が、前者になるのだろう。

 むろんネット上では多くが匿名で発言する。それで何が生身の個人か、と言われそうだが、名前というのはある意味、どうでもいい面もある。仮名だろうとペンネームだろうと、生身の一個人としての発言を妨げるわけではない。

 これからも、そういう人達と知り合いたい。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする