華氏451度

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辺見庸講演メモ(3)――作業仮説を立てる

2006-12-09 23:12:48 | お知らせ・報告など

 ひとさまの講演要旨メモを書き続けて3晩目。私は何してるんだろという気分もないではないが――まあいいや。今夜は「私たちはどうすればよいのか」という、辺見氏の提言を簡単に紹介する。なお初めてこのメモを覗いてくださった方は、できればメモ(1)およびメモ(2) にさっと目を通してから読んでいただけると、わかりやすいかと思う。

〈体内化した監視装置〉

 辺見氏は「不名誉が我々の日常に埋まり込み、どれがSchande(注1)かわからなくなっている」と語った。

注1/Schande=今夏、ギュンター・グラスが自分が少年時代にナチ党の武装親衛隊に所属していたことを告白したときに使った言葉。「メモ2」参照。

 恥を感じることがなくなり、「監視装置が既に体内化している」とも語る。たとえば、天皇制に関して何らかの疑問を持つなどの「不敬者」(注2)を公権力に代わって痛めつける。「そのありかをどこまでも辿ると、我々の神経細胞まで行く」と、辺見氏の知り合いの編集者が言ったそうだ。

「何処にも目に見える暴力はないが、みんなで監視している。むろん右翼とかはいますけれど、『不可視の監視装置』がその共犯になっているのです」

注2/不敬者=辺見氏は具体的には語らなかったが、たとえば「下賜される勲章」を拒否(辞退)する人などもそれに含まれるのだろう。

 時間の限られた講演なので、多少、話が飛んだりはしょられたりするのはやむを得ない。この「監視装置」についても辺見氏は具体例を挙げるなどして詳しく説明することはなかったが――要するに「上から言われたことにみんなが従うようさりげなく監視し合い、異分子を巧みに排除していくという動き方」を意味するのだろうと思う。自分ではあまり意識しない、しかし骨がらみになった日常のあり方・動き方。彼は以前、その著書の中で「草の根ファシズム」という言葉を使ったが、それとほぼ同じ意味を持っているだろう。

〈単独者であること〉

 辺見氏は、「自分で認められないことを、静かに、どこまでも拒み」「うたいたい歌をうたい、おどりたい踊りをおどりたい」という。こういうごく当たり前のことを、普通にやっている人はたくさんいるのだが、この国は次第次第にそれを許さなくなりつつある。

 それに抵抗するためにどうすればよいのか。「勇気を持てということではありません」。それより、「単独者であること」が重要だと辺見氏は言う。むろん、組織に属するなとか、集団行動をするなということではない。「組織の成員であっても、自分の言説に個人として責任を持つ。意志的な個人へと自己を止揚していく。これが本当の革命なのです」「その『単独者』を妨害する者が、敵なのです。敵は仲間の中にも、そして自分の中にもいるかも知れません」

 ひとりひとりが単独者であることをかなぐり捨てたゆえに、日本は「言ってることと、やってることが違うじゃん」「昨日と今日と、言ってることが違うじゃん」的な人間が輩出し、それに対して本人も周囲も平気という国になったのであるという。

〈RPGによってものを考える〉

 単独者になるために、辺見氏は「こういう場合どうするか、常に自分にあてはめて考える」という。いわばロール・プレーイング・ゲーム(RPG)をするのである。氏が自分のRPGの風景のひとつに織り込んでいるものとして、「1943年に中国でおこなわれた生体実験」がある。氏はそれについて著書の中で詳しく触れているので、読まれた方も多いと思うが――インテリジェンスもありユーモア感覚もある医師達が手術台を囲んでなごやかに談笑し、その台の上に健康な中国人の青年が乗せられようとしている風景だ。青年は当然、怯えて逃げようとする。証言記録によれば、その時に周囲を囲んだ20人の医師全員が青年を押し戻したという。

 辺見氏は「自分がその20人の医師の1人だったら」と考える。「私も青年を押し戻していたに違いない。誰でもそうしたと思います。その怖さです」「戦後60年で、そのSchandeや罪を忘れてしまった社会。本当に怖い社会です」

 RPGは非常に大切です、と辺見氏は強調した。たとえば教育現場。教師達があちこちで叩かれているが、「自分ならどうするか」と懸命に考えてみる必要がある、と。「作業仮説を立てて繰り返し考えていけば、変なことを承認したり、集団の波に巻き込まれたりはしなくなります」

〈単独者の表現とは〉

「単独者の表現は、立て板に水ではありません」と辺見氏は言う。そして挙げたのが、ひとから聞いたという1教師の話。彼は上から命じられたことをどうしても承認できず(それが何であったのかは氏の話には出てこなかった。君が代問題かも知れないし、何か校則に関することかも知れない。わからない)、ひとりで校長室に行った。組合として談判するのでなく、ガタガタ震えながらひとりで校長室に行ったのだ。泣くだけで何も言えなかったかも知れないが、「崇高なことだと思います」と辺見氏はポツリ、という感じで言った。

「単独者は目立ちません。ただ、自分の言葉で語り、微光を放っている。そういう人を、私も何人か知っています。この時代に単独者であることは簡単ではありませんが、贋金に対抗するホンモノの言葉を持てるのは単独者だけです。皆さんもそれぞれ単独者として、これからもやっていって欲しい」という意味の言葉で、辺見氏の講演は結ばれた。

◇◇◇◇◇

「単独者」と聞くとスゴイ感じがするが、私は自分なりに、「周囲の顔色をキョトキョトうかがうのをやめ、自分自身の頭で(ボチボチとではあっても一生懸命に)ものを考え、(リッパでなくても借り物ではない自分の言葉で)語ろうとし、自分がどうしても嫌だと思うことは(怖くても)静かに首を横に振るという生き方」だろうと解釈している(ムム……私がまとめると、どうも表現が平俗になっていかん)。

 私もいつの日にか、単独者であると胸を張れる人間になりたいと思う。

◇◇◇◇◇

 これで一応、メモは終了。ほかにも強く記憶に残る話は2つ3つあったが、背景その他かなり説明しないとわかりにくいなどの理由で、辺見氏の話以外にかなりの字数を要する気がする。全体の流れをまとめる上では割愛しても支障がないと(私が勝手に)思ったため、この記録には残さなかった。また機会があれば改めて紹介し、考えてみたい。

最後の注――地の文でところどころ野卑&粗雑な表現が見られるのは、辺見氏の「言葉」とは関係ありません。あくまでも、氏の言葉を受け止めて咀嚼しようとした私のアタマが悪いのです。何せ個人のメモなので、御容赦。

 

コメント (9)
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