本日のメモ――。
〈石原都知事の三選は……〉
ハムニダ薫さんが「東京都民の皆さま、三選だけは阻止してください」という記事を書いておられる。むろん我らが石原都知事の三選……のことである。「こんな男が三度も選ばれたら、世界中から都民の品位が疑われる」と言われると、小心者の私なんぞ、つい「すんまへん」と謝ってしまう。
むろん私は都知事の支持者ではない。それどころか「石原都知事は天敵」みたいな感覚があり、何度か批判(というほどリッパなものじゃない。都民の素朴な声、ですな)を殴り書きしたことがある。三選に意欲を示しているという情報を得たときは、「都知事殿、三選に意欲など出さないでくだされ」と悲鳴も上げた。
……と書きつつ、「言い訳してるなア」といささか後ろめたい。「私は石原嫌いである。彼に票など入れたことはない」といくらそっくり返っても、そんなものは屁の突っ張りのにもならない。単なる自己満足である。戦争が終わってから、「実は私もあの戦争には反対だったんだよ~」と言うのと、五十歩百歩である。彼を都知事の椅子に座らせ続け、三選に意欲を出させているのは我々都民の責任であり、私もまたその一人なのだ。やはり「すんません」と詫びて、体張って阻止すべき時……が来ている。
(ブログなんか書いてる場合じゃないな。ブログは所詮ブログ。特に私程度のその他大勢ブログは金魚の寝言みたいなもので、いわばアイバイ、マスターベーション。世の中をたとえ1ミリでも動かす力はなく、それならばスパっと止めてしまって現実行動に力注ぐほうが潔いかも知れない。書を捨てよ、街に出よう――じゃなかった。ブログを捨てよ、街に出よう――と思うことしきり)
〈文章ということ――都知事の文章を巡って〉
前出のハムニダさんのエントリのコメント欄に、「文章が下手」「とても作家とは思えない」といったコメントが幾つも寄せられていた。……というわけで、都知事殿の文章について。
まず言っておくと、私は「文章が下手」ということ自体は、それほど大きな問題ではないと思う。このことはちょっとハムニダさんの所にもコメントしたのだが、文章でも絵でも「下手ウマ」というのがあるのだ。絵でいえば、たとえばシャガール。彼はデッサンが不得手で、絵の先生に匙を投げられたという話もある。真偽は知らない。一種の伝説かも知れないが、彼の絵は下手ウマのひとつの典型であろう。
小説で言えばたとえば小栗虫太郎。非常に癖のある読みにくい文章で、日本語としてはかなり下手な部類だという評論家もいる。だがその一種の「下手さ」が、奇妙な魅力になってもいるのだ。同じ推理小説分野で言えば、横溝正史なども文章は巧くない。読んでこそばゆいような大仰な表現が多様されているし、ときどきテニヲハもずれているが、それがまた変に雰囲気を醸し出している。
だから私は、文章に関しては「巧拙」そのものはあまり気にしない。単に巧いだけの文章の書き手なら、古手の新聞記者の中に「ひと山いくら」というほどいる。
そんなわけで……石原慎太郎の文章に対して、「下手だ」というだけの批判はあまり力を持たないと私は思う。 いや、下手だと批判してもむろんかまわないのだけれども、それなら「下手」とはどういうことか、を明確にしておく必要があると思う。
私も彼の文章は下手だと思う。たとえば彼の最近の文章で言えば、産経新聞に連載しているエッセイ『日本よ』の最新記事(8月7日付け)。
【そうなった時、北京政府が国民の目をそらせ経済破綻を糊塗(こと)し、内部の分裂を食い止めるために軍事的な冒険主義に走る可能性は十分にありえる。それに間に合わせての準備の時間はあまりないということを我々は知るべきに違いない】
全く同じ内容・意味の文章を、私なら次のように書く(おそらく一般的なジャーナリストは同じだろう)。
「そうなった時、北京政府は経済破綻に対する国民の目をそらせて国内の分裂を食い止めるため、軍事的な冒険に踏み切る可能性は充分にあると言える。その脅威に対する準備期間はさほど用意されていないのだということを、我々は心底、知るべきではなかろうか」
(ぎへぇ~何でこんな文を書かねばならないのか、という感じであるが……わかりやすい日本語とはどういうものかを考えてみるために、ちょっと書いてみた)
それでもなお、石原慎太郎の「文章」自体は別に大した問題ではない。
問題にすべきは「日本語としての巧拙や整合性」ではなく、叫んでいる中身である。「文章」はむろん巧いに越したことはない(私も、巧い文章書きたいとは思っているのだ……。もっと巧ければ、原稿の注文がたくさん来るかも知れないし←嘘)。文法的な誤りや誤字脱字は、ない方がいいに決まっている。だがどれほど流麗な文章でも、うつくしいだけの薄っぺらな文章を私は認めない。
文章の巧拙に真っ先に着目してしまうと、肝心のところが抜ける。キレイキレイな言葉に騙される。都知事の書いているものは、日本語として下手だからダメ、なのではない。噴飯ものの愛国心を振り回し、「国家の敵」を作ろうとしているがゆえに退けるべき――なのである。
私の感覚は間違っているだろうか?