華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

奪われた言葉たち

2006-11-06 23:50:26 | 本の話/言葉の問題

〈言葉が食い荒らされている!〉

 昨日、辺見庸の『いまここに在ることの恥』(毎日新聞社刊)を読んだ。辺見庸は2004年3月に脳卒中で倒れ、その後ガンも発見されて闘病中。「気まぐれな執筆もテーマのほしいままの選択ももはや許されないという気分になり、〈いつか〉を〈今すぐ〉に前倒ししなければならない、という衝迫にかられた」と著者は言う。同じ思いで書かれたものとして『自分自身への審問』(刊行は同じ)という本もあり、どちらもこれだけは言っておかねばという激しい思いと共に吐き出された言葉・言葉・言葉が読み手に息苦しいほどに迫ってくる。まだ読まれていない方にはぜひ一読をお勧めする。

  この本の紹介をしようかと思ったのだが、軽々しく感想めいたことなど書けないという気もして、茫然と立ち尽くしてしまう。今夜はひとまず、後書きを読みつつ思い至ったことなどを書いておきたい。

『いまここの在ることの恥』の後書きに、次のような一文がある。

【能弁はこの際、はなはだ怪しいこと。訥言はいっそ安心できるけれども、訥言を装った性根の腐った能弁だって大いにありえること。とりわけ、資本がほとんどの言葉を食いあらし、言葉とは資本の領地のお飾りどころか、言葉がそのまま資本と化する、この貧しい時代にあっては】

 辺見庸が語ることとはニュアンスが違うかも知れないが、私はいつも「自分達の言葉が食い荒らされている」「言葉が奪われている」という思い(恐怖)を抱き続けている。実は昨日、人と会った時にも「私達は言葉を奪われているのだ」という話が出たような記憶もある。……

 私はさほど敏感な人間ではないけれども、「言葉」にはかなり神経が尖る。言葉に敏感でありたいと思っている、と言った方がいいかも知れない。で、表現とか言葉とかいうものについて、何度かこのブログでもウダウダと寝言を書いてきた。たとえば「平易な表現ということ」「平易な表現には品性が露出する」等々。平易な表現というものについこだわる理由はこれらの記事の中に書いたけれども、ほかにもひとつ、「観念的な言葉」「重みを持った(はずの)言葉」が、いつのまにか奪われていると感じているのも理由であるかも知れない。

〈言葉が成り下がっていくさまは、あまりに悲しい〉 

 思えば、本来は「珠玉のよう」であったはずの言葉がひとつ、またひとつ、食い荒らされ、傷つけられ、泥まみれにされて卑しげに成り下がった。手垢にまみれた――などという言い方では、まだなまぬるい。

 たとえば「志」、たとえば「愛」。たとえば「品格」、「尊厳」、「自立」、「共生」、「アイデンティティー」、「社会参加」……。昨日のエントリでちょっと触れた「選択の自由」も、しかり。(しつこいようだが……少し前に記事に書いていろいろ批判を受けた「自己実現」などもしかり、かな。笑)

 少し前に、私がその感性に瞠目するブロガーのひとりであるぷらさんが、「愛と美しいの連発にはご用心!」という記事を書いておられた。そう、多分私のように独りよがりなストレートを投げるよりも、こういう表現をした方がわかりやすいのだ(反省)。「愛」と「美しい」だけではない。すべて、かつては限りなくうつくしく、人の心を打った言葉たちが、目を覆うばかりに薄っぺらいものに成り下がった。仲間を出し抜いてちょっといい目をみるのが志であったり、弱者を石もて追う時の武器が自立という言葉であったり、幻の国家に身をくねらせてすり寄るのがアイデンティティーであったり……。

 別に一日中、テレビの前に座っていたり、週刊誌の三文情報を読みあさらなくたっていい、ちょっと街を歩けばそこかしこに食い荒らされた言葉が満ちている。駅に貼られたポスターに、駅前で配られるティッシュに、マンション分譲中の看板に。時給数百円のアルバイト募集のチラシに「自己実現」や「社会参加」などの言葉が踊るに至っては、ほとんど涙が出る。以前は、自分が妙なところで過敏なのかと思っていた。だが最近は、そうではないと確信している。私達の言葉は――強姦され、売られたのだ。たとえば選択の自由という言葉が台所の隅にまで転がり、食事の後でコーヒーにするか紅茶にするかといったどうでもいいことにまで使われるようになれば、誰が真面目に選択の自由という問題を突き詰めて考えるだろう。

〈言葉は奪い返せるか〉

 うつくしかったはずの言葉が軽く軽くなっていくことに私はほとほと嫌気がさし、随分前に「言葉を奪い返そう」という記事を書いたこともある。だがここへ来て、奪い返すなど無理ではないか、という絶望感にほとんど目眩を感じてもいるのだ。ひとは言葉を使ってものを考える。だから言葉を支配するというのは、ひとの思考を支配することでもある。ここ10年か20年か知らないが、ともあれ何年かの間に言葉は虚仮にされ続けてきた。いったん虚仮にされた言葉が、再びその命と重みを取り戻すことが出来るのだろうか。

 取り戻せるはずだという思いと、不可能に近いという思いの間で、私は揺れ続けている。むろん「不可能な場合」でも、抵抗の方法がないわけではない。奪われた言葉ではない、別の言葉を次々と創出していけばよいのだけれども。

 ただ、私達は「言葉を奪われる」ことにこれからも一層敏感でありたいと思う。言葉の怖さを軽視した者は、それによって復讐される。 

  

コメント (4)
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