華氏451度

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辺見庸講演メモ(2)――重く、深い恥辱

2006-12-08 23:20:21 | お知らせ・報告など
 昨日に続いて、辺見庸講演会で語られたことを自分なりのメモとして書き残す。イントロダクションの部分などは昨日「辺見庸講演メモ(1)」として書いているので、できればそちらもさっと覗いていただけると話が通りやすいと思う。

〈グラスのShande、日本のShande〉

 皆さんも鮮明に記憶しておられるだろう。ドイツの作家であるギュンター・グラスが今年8月、自分が17歳の時にナチ党の武装親衛隊(ヴァッフェンSS)に入隊していたことを告白した。グラスは1999年にノーベル文学賞を受賞した世界的に名高い作家で、ドイツ社会民主党を支持し、反ファシズムの立場で多くの発言をしている。それだけに彼の告白はドイツ国内はむろんのことヨーロッパ全体を震撼させ、厳しい批判も相次いだ。当時の報道によると、「ノーベル賞を返還せよ」という声もあったそうだ。
 辺見氏もこのニュースに接して、「ぶったまげた」と言う。「グラスは『ドイツの良心の番人』と言われている人です。そのグラスがSSだった!?と驚き、詳しい人に聞いて回りました」
 何を聞いて回ったのか。……グラスは新聞のインタビューに答えて、「SSの一員であったことは、自分にとって恥である」と述べた。そしてその恥を隠していることをさらに恥じ、ついに公に告白したのであるという。
 日本語に残っているけれども、実態はもうない『恥』という言葉。それをドイツ語で何というのか、どういう語感であるのかを、辺見氏はドイツ語に詳しい人に尋ねたのである。

 その結果わかったのは、グラスは「Schande(シャンデ)」という言葉を使った、ということだった。同じく「恥」と訳される言葉として「Scham(シャーム)」があるが、後者がいわゆる「羞恥」であるのに対し、前者は「恥辱」の意味合いを持つ。シャンデはシャームよりも、はるかに重く、深い言葉なのである。
「告白しないままでノーベル賞を受けたのは確かによくないことですが、その過去と、さらに過去を隠していたことをシャンデと言い、晩節を汚すのを承知の上でグラスはあえて告白したのです」
 これが日本なら――と、辺見氏は考え込んだそうだ。
「グラスの告白によってヨーロッパは蜂の巣をつついたようになりましたが、日本で似たようなことは起こり得るでしょうか。たとえば有名な老作家が、若い頃に特高警察にいたとか、戦争を美化するものをたくさん書いたと告白した時、誰が驚くか。誰も驚かないでしょう。なぜなら、みんながそうだったからです」
「日本にはシャンデはない。著名な作家が東条英機の演説の草稿を作ったりしていましたが、これもシャンデとは思われていない」

 作家も報道者も争って戦争美化の役割を担ったが、それをシャンデとは思わず、「皆さん、戦後もご活躍で」と辺見氏は吐き捨てるように言った。後ろの方にいたのでその表情までは見えなかったが、唇が歪み、頬が引き吊っていたのではないだろうか。
「この国の言説の病的なまでの主体性のなさ、無責任さの根っこは我々にあるのです」と、辺見氏はますます苛立つような口調になった。「グラスが告白した時と似たようなことは、日本では起きないでしょう。そのこと自体が、シャンデであると思います。不名誉が我々の日常に埋まり込み、何がシャンデであるのかわからなくなっているのです。『恥を感じる』深いところが、侵されたのです」

〈勲章を貰うという恥〉

 辺見氏はまた、昭和天皇の戦争責任に言及した。「あの方は、広島・長崎の原爆投下について聞かれた時、『戦争なのだから仕方なかった』とお答えになったのです。そう言われて怒りもしなかったマスコミ、そして国民の延長線上に、今の日本があると思います」
 大元帥閣下(という言葉を辺見氏は使った)の戦争責任を曖昧にすることで、日本人は自らの責任をも曖昧にしたのである、と。文化人も左翼も同罪で、その中で「主体性」は完膚無きまでに崩壊させられたのであると。

 シャンデの不在について考えているうちに、辺見氏はひとつ、「勲章」の問題に行き当たった。最近文化勲章や紫綬褒章などを叙勲した人のリストを見て、びっくりしたのだ。たとえば『人間の条件』に出演した仲代達矢、原爆詩の朗読がライフワークだと言っている吉永小百合。……護憲集会に参加する加藤剛ももらっている。おまえさんもかよ、と辺見氏は愕然としたそうだ。
「護憲と言いながら勲章をもらうなんて私はとんでもないことだと思うのですが、世間ではそんなことは関係ないらしい。それをシャンデとする基盤を、この国は作れなかったのです」
 勲章は、今でも戦前と同様に「下賜」という言葉が使われる。戦前戦中戦後を通して、実はこの国は何も変わっていないと辺見さんはつくづく思うそうだ。
 しかも勲章は、勲何等などといって人の価値に等級を付ける。そんなものを、護憲を標榜する文化人や学者達が喜んで貰い、恥だとは全く感じない。それに抗議する声も、嫌悪を表す声もない。思想には潔癖さが大切であり、潔癖さを欠くのはシャンデである――という意味のことを、辺見さんは講演の中で何度か繰り返した。
 私も、普段はそれなりのことを口にしている人々が勲章を嬉々として貰っている図は、見るに堪えないと思うほうだ。そう……あれは恥辱的な振る舞いなのだと改めて思った。そして、それをすぐ忘れてしまう自分の軽薄さも恥だったのだと。
 
 恥知らずは文化人や学者だけではない。「たとえば、何万人もの先生が生徒に『君が代』を歌うようにし向け、同じ口で『緑の山河』(注)を歌う。それをグロテスクだとは、誰も思わない。そこにシャンデを感じる力をなくしていまった。だから、言葉が贋金、偽札になるのです」

注/1951年、公募によって日教組が国民歌として提唱したもの(だったと思う)で、今も教職員の集会などでよく歌われる。最初の部分は「たたかい越えて立ち上がる/緑の山河 雲はれて」。

(ついでながら、辺見氏はこの歌に関して、自分はさほど素晴らしい歌詞だとは思わないが……とチラッと付け加えた。辺見氏の感覚なら、確かにそうだろう。辺見氏の感覚とは違うが、私もあれはちょっとあっけらかんと健康すぎて、言葉が滑っているような印象がある)

 思想における潔癖さということを辺見さんは強調したが、ここで言われた「思想」は、何も哲学者などの思想のような――狭い意味のものではないと私は思う。私たちは誰でも皆、(少し稚拙だったり知識不足だったり充分に練られていなかったりするにせよ)自分なりの思想を持っている。いや、持っているはずだ。だが、いくら口先でペラペラと綺麗に語っても、日常を生きていく中でそれを裏切るような振る舞いをするのはシャンデである、そして人間は時には恥多い振る舞いをしてしまうこともあるが、それをシャンデであると感じ、深く自覚し、記憶し続けなければいけない――と、辺見さんは訴えたかったのではあるまいか。
 
◇◇◇◇◇

 次回は辺見氏が提案する、「我々の自由を侵してくる状況に抵抗し、贋金に成り下がった言葉に対抗しするための道筋」をメモしたい。 
コメント (5)
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