華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

ねえ君、それは「個性」とは言わないと思うが――「いじめ」アンケートを巡って

2006-11-07 23:43:48 | 教育

 NPO法人「ジェントルハートプロジェクト」が小中高生約1万3000人を対象に「いじめ」に関するアンケートをおこない、その結果をまとめたというニュース(毎日新聞)があった。

 私はこのNPO法人については全く知らなかった。また、アンケート調査というのは設問によってかなり恣意的に答えを引き出せるものでもあるので、このニュースを即、100%信用する形でものを言う気はない(これはすべての情報に対する私の姿勢でもある)。ただ、大いに参考にしたいとは思う。

 報道によると、「いじめる方が悪いと思うか」という問いに対し、「はい」と答えた割合は小学校では60%を超えるが、中学高校では40%台。「いじめられても仕方ない子はいるか」に対して「いいえ」と答えた割合は小学校で辛うじて過半数、中学では40%を切ったという。また「いじめはなくせるか」という質問に対しては、学年が上がるほど「はい」と答える率が減っていたという。

 子供の頃は、誰でもまだ素朴で純粋な正義感を持っている(私はそれを貴重なものであると思ってもいる。できれば私自身、死ぬまで子供のような純粋さを保てればこれほど嬉しいことはない)。だが、年齢が高くなり、世の中の風潮や価値観と否応なく妥協せざるを得なくなるにつれ、それが失われていくということだろうか。少し前には(どのぐらい前かと聞かれると明確に答えられないのだけれども)小学生のみならず、中学高校、いや大学生になっても、子供のような正義感を持つ人が多かったような気がする。今より人間が高尚だったということではなく、「それがまだ許される」世の中だったのだろう。

 この「アンケート結果」は、世の中が確実に悪くなっている、息苦しくなっている、ということを、証明――とまではいかないが、何となく感じさせるものではあるまいか。

 アンケートに答えて、公立小学校6年生の男子生徒からこんな意見も出たという。「いじめが悪いとは思いません。人が(いじめを)やるのもその人の個性だ」。

 私はこれを読んだ時、ギョッとして、一瞬、頭の中からすべての言葉が消滅するような感覚に襲われた。こ、こせい……。私は昨日「奪われた言葉たち」という、まとまりのつかない文を書いた。うつくしかったはずの言葉が奪われ、泥まみれにされているのが辛くてつい愚痴を言ってしまったのだが……ああ、「個性」という言葉もはっきりと奪われていたのだ。

 そりゃ、個性と言えば個性かも知れない。その個体に特有の、他とは違う特徴、という意味でいえば。他者をなぶり殺しにしたいという衝動を持つのも個性だし、人を騙すことに喜びを持つのも個性であろう。だが……個性という言葉には本来、それこそ「うつくしい」意味合いがあったはずではないか。

 ひとりひとりの個性を伸ばす教育、などという空々しいお題目が蔓延して久しいが、そこで言われる個性なるものは、「国家にとって有用なもの」あるいは「華やかに注目されるもの」でしかない。頭の回転が速いという個性、記憶力が優れているという個性、理路整然とものごとを喋れるという個性、リーダーシップをとれるという個性……エトセトラ。「同級生の何倍も時間をかけてゆっくり考える個性」とか「社会の隅々に存在する差別に繊細に反応して心を痛める個性」などは、めったなことでは尊重されない。

 個性、個性とギスギス強調される中で、おそらく「個性競争」に新しい局面が生まれたのだ。普通の人間が眉をひそめるような極端なことを言い、跳ね上がるという……。もしかすると昨今増えているという右翼的な発言をする若者も、個性競争の中でもがいた揚げ句、そういう道を発見したのかも知れない。

 自己チューの私は、先のような発言に接すると、しみじみ「子供がいなくてよかった」と思ったりする。もしも自分の子供が「いじめをするのも個性」などと言ったら、私は絶句し、自分の存在を根底から否定されたように感じ、そういう子供を育ててしまった自分を許せないと思うだろう……。だが、考えてみれば私に子供がいるかどうかなど大した問題ではない。そういう子供を生み出してしまったのは、私達おとな、全員の責任なのである……。 

コメント (13)
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