華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

皆さん、吉田松陰が好きですね

2006-08-06 23:35:07 | 雑感(貧しけれども思索の道程)

暑中お見舞い申し上げます。例年、いわゆる「盆休み時期」の前は仕事が詰まった感じになって非常に忙しい思いをします。特にここ数日は、付き合いのある方のブログを読むことも自分のブログを書くこともできずにおりました。今週末までドタバタ状態が続きますが、少しずつ簡単なメモ程度のものは残しておこうかと思います。皆さんのエントリも暇を見て読ませていただきたいと思いますので、よろしければTBを入れておいてください。

 

さて、本日のメモ――

〈小泉首相は松陰がお好き!?〉

 小泉首相は4日・5日、山口県を訪れたそうだ。

【自民党総裁選で圧倒的優位が伝えられる地元の安倍晋三官房長官へのエールとの見方もあるが、小泉首相は最後まで触れずじまい。安倍氏の支持者らも「プライベートな訪問で総裁選とは関係ない」と冷静に受け止めている。】(8月5日付け毎日新聞記事より)

  安倍支援の雰囲気作り――などいろいろな狙いがあるだろうが、それはまあどうでもいい。妙に気になったのは、「幕末の志士」なる人々のゆかりの地を訪れたそうで、それが報道されているということだ。

 【山口県入りしている小泉純一郎首相は5日、萩市などを訪れ、吉田松陰ら幕末の思想家や志士ゆかりの地をめぐる旅を続けた。首相は多くの人材を育てた松陰を尊敬する人物に挙げ、たびたび歌や言葉を引用している。松陰が主宰した松下村塾などを見学した後、記者団に「時代の変革者は想像を絶するような熱い志を持ち、苦労をしてきたんだなあということがよく分かった」と感激した様子で話した。】(8月6日付け毎日新聞記事より)

  小泉首相は吉田松陰が好きなのだそうである。高杉晋作も好きだそうだ。私は吉田松陰も高杉晋作もそれほど好きではない(別に嫌いでもないけれども)。だからどうでもいいようなものだが、そう言えば安倍官房長官も吉田松陰が好きなようだ(彼の本をわざわざ買って読んでしまった。ご愁傷様と言われて、自分は何をしているのかと馬鹿馬鹿しくなったが……)。

〈英雄への憧れ〉

 みんな、どうして「英雄」が好きなのだろう。「立派な人」が好きであったり、尊敬するというのは悪いことではない。しかし「英雄好き」の心情の中には、ひそかに自分と重ね合わせて陶酔する気分が混じっているようにも思う。子供達がRPGの主人公に感情移入して、自分もヒーローになったような気分を味わうのにも似て。

 いや、ゲームをしている子供ならよいのだけれども、政治家にむやみに英雄に憧れられては困る。ある人が立派であったかどうか、おこなったことが崇高であったかどうかは他人が判断することである。英雄も偉人も、なろうとしてなるものではないのだ。(その点、政治家や思想家も本当は同じかも知れない。政治家にせよ思想家にせよ、「将来は○○になります」と決意してなるものではあるまい。政治屋や思想屋なら別だけれども)

 安倍官房長官は、孟子の「自らかえりみてなおくんば、千万人といえどもわれゆかん」という言葉も好きだそうである。私もこの言葉は結構好きなので、正直なところゲッソリした。(あなたと同じ趣味だとは思いませんでしたよ……)

 むろん孟子に罪はない。こういう短い「言葉」というのは、上下左右どのようにでも自分流に解釈し、自分の側に引きつけて味方にすることができる。その点、新興宗教の教祖の「お筆先」や、占いのご託宣とよく似ている。いや、言葉というものは気をつけなければいけません。「自らかえりみて」何を正しいと思うかは人それぞれ。それが正しいと思って戦争始める為政者もいるし、それが正しいと信じて子供にあやしげな健康法を強要する親もいるのだ。

〈ヤマトダマシイ〉  

 私が吉田松陰や高杉晋作ら、いわゆる「幕末の志士」の名前を知ったのは、多分、小学校の3~4年生の頃だ。子供向きの伝記シリーズのようなもので読んだのだと思う(その手のシリーズで、昔のいわゆる“エライ人”達の事績のあらまし程度はいろいろと読んだ。野口英世、夏目漱石、津田梅子……エトセトラ。海外ではガンジー、ニュートンその他大勢。シュリーマン、なんてのもあったかも知れない。考えてみると、よくもまあ何の基準も脈絡もなく頭に詰め込んだものだとあきれるけれども)。

 その手の本はたいていの場合ひたすら美談仕立てに、拍手喝采の形で書かれているから、単純な普通の子である私はただただ感心して読んだ。松陰に関しても「エライ人なのであるなあ」と思ったようだ。だがもう少し大きくなって普通の歴史の本(中央公論『日本の歴史』とか、その手の本)を読んだ時、ちょっと違和感を覚えた。違和感の対象は、「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちるとも 留め置かまし大和魂」という有名な辞世の歌である。

 当時、私の中には「右翼的な考え方」(右翼思想、とまではいかない。右翼思想というものはよく知らなかった)に対する反発があり、「ヤマトダマシイ」だの「アイコクシン」だのという言葉に不快感を持ったのだと思う(ちょうど戦争小説などを読んでいて、お国のためとか大和魂うんぬんなどの言葉に対する嫌悪感が育っていた時期だったかも知れない)。実際、松陰が好きだという人は右にもかなり多く(左にも結構いることはいる。ひたすらに駆け抜けた短い生涯が、思想的な問題とは別に人を魅せるのだろう)、あの歌は彼らの心情を揺さぶるらしい。むろんこれも孟子の場合と同様、松陰の責任ではないのだけれども。

付/幕末の志士、という言葉も私はあまり好きではないが、これは言葉に対する好みの問題(1オクターブ高い感じの言葉は好きじゃないのだ。だから書くときは「」でくくった)。

〈尊敬する人物・好きな本〉

  少々話が変わるが、ときどき「尊敬する人間」や「好きな作家」を聞けば相手がどういう人間かわかる、という意味のことを聞く。私はそれに関しては、全面的に正しいとは思わない。むろんある程度はわかる。たとえば「松下幸之助を尊敬する」(松下政経塾の人達は本当か嘘か、そう言いますね。……前の民主党代表とか)と言われれば、相手のある程度のところが見えるような気はする。

 だが、尊敬する「相手」によっては、よく見えないこともある。おそらく松陰もその一人だろう。他にランダムにあげてみると、たとえば――湯川秀樹、福沢諭吉、といった人々も見えにくい。「その人の何処に惹かれるのか」をよく聞かなければ、なかなか見えてこないのだ。

 作家も同じ。私は司馬遼太郎が嫌いで、以前「二人の太郎」という駄文を書いたことがある(ちなみにもうひとりの太郎は山田風太郎。私は彼のファンである)。しかし、司馬ファンだからといって、必ずしも私とは話が合わないとか、感覚が違うとは思わない(いや、感覚はある程度違っているはずだが……少なくとも完全すれ違いではない)。「何を読み」「どの部分に、どう惹かれたか」まで聞かなければわからない。初期のやや伝奇小説風の作品が好きな人と、維新のいわゆる「英傑」を描いた小説などを好む人では、やはり感覚が違うだろうし。

 三島由紀夫なども、よく聞かなければ……という作家のひとり。私は彼の『近代能楽集』など幾つかの作品が結構好きだったが、晩年の作品は好まない。特に『豊饒の海』は、政治思想(的な好み)が強く出過ぎてダメである。読むのが非常にしんどかった。活字なら何でもいいという中毒の私にとって、読むのがしんどいというのは大きなことなのである……。

 また、小林多喜二という作家。1930年代に治安維持法違反で逮捕されて虐殺された作家であるが、「小林多喜二が好き」という場合、彼という人間が好きか、小説が好きなのか。私は彼の生涯には瞠目するし、作品も一定の評価をされてしかるべきと思っているが、小説としての完成度はそれほど高いとは思わない。だから「小林多喜二は好きですが、小説は好きではありません」ということになる。

◇◇◇

尻切れトンボになったが、「メモだからいいや」と勝手に理屈を付けてこれでおしまい。関連して思いついたことがあったらまた書き留めることにしよう。 

コメント (13)
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