華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

加賀乙彦『悪魔のささやき』

2006-08-16 10:56:09 | 本の話/言葉の問題


夏期休暇中である。と言っても何処かに行くあてもなくゴロゴロし、誰かから電話が入って誘われれば尻尾振って出て行く、という程度。……などという身辺報告?していても仕方ない。昨日読んだ、加賀乙彦『悪魔のささやき』(集英社文庫)を紹介しよう。比較的軽く読める新書なので、書店に行かれたらちょっと覗いてみられることを勧める。むろん買われてもいいし。
(すみません、後で気がつきました。集英社文庫でなく集英社新書です)

〈文章には加賀乙彦の特色は薄いが〉

 著者は多忙で書き下ろしが出来ず、この本は「口述筆記」にしたと書いてある。ちなみに口述筆記というと一般には語り手が語るそっくりそのままの順番、そのままの言葉で活字になると思われているようだが、そういうケースはほぼゼロ。それで本が出来るなら、テープレコーダーに吹き込んでもらえばいいわけである。専門の編集者なりが筆記者として付くのは、話し言葉を書き言葉に改める作業を含め、語り手が思いつくままに喋ったことを整理する(場合によっては質問を挟んで語り手から言葉を引き出したり、資料的なことを補ったりする)必要があるからだ。加賀乙彦は小説家だし講演などもしているので、まとまりのつかない喋り方はしないはずだが、それでも彼が一人で書き下ろしたものとは少し違ってくる。実際、彼の小説などと比べて文章はかなり平明で軽快。文章自体をうんぬんされると、著者も眼をパチクリさせるだろう。だが、内容は彼が考えていることを正確に表現しているはずで、私もそのつもりで読んだ。

〈悪魔のささやき〉

 彼は精神科医であり、東京拘置所の医務部技官として務めた経験もある。その経験から、「人間には誰にでも、悪魔にささやかれたとしか言いようのない現象が起こりうる」「日本人は特にその傾向が強く、近年ますます強まっている」という。そして悪魔のささやの恐ろしさは影響が持続することで、1人でなく大勢の人間に働きかけて、場合によっては10年以上もとんでもない方向に走らせるエネルギーを持っているともいう。人間はどういう時に、どういう形で悪魔のささやきを聞くか、つけ込まれないためにどうすればよいか、というのが同書のテーマである。

〈社会の刑務所化〉

 加賀は日本の社会が「刑務所化している」という。刑務所の囚人と比べればはるかに多くの自由を与えられているが、かといって、のびのび生活を楽しんでいるとはとても言えない。決められたスケジュールに合わせて仕事や勉強をし、夜は決まり切ったテレビ番組を見、休日には大企業が準備した娯楽の場を決まり切ったやり方で利用する……。
 刑務所化した社会では、刑務所で起こるのと同様の問題が発生する。たとえば
「爆発反応」(些細な刺激で、突然キレる)。また、「関心の狭隘(きょうあい)化」も長期囚によく見られるという。日々の単調な生活に自己の精神を合わせるかのように、興味を持つ対象が極端に狭くなり、話すことも昼飯のおかずや囚人仲間の悪口などに限定される。自分達がまさしくそうなりつつあるような気がする、と加賀は語る。国内外のニュースに接しても、一過性の興味しか抱かない。

〈他人指向型の心が悪魔の餌食になる〉

「他人指向型」の生活をして、暮らしからも人生からも「自分」が失われていく。そういう状態の心こそ「悪魔の餌食」であると述べ、何を隠そう、自分もひどいものだったと加賀は振り返る。
 加賀は1929年生まれ。戦争中は国家のマインド・コントロールに踊らされ、みごとな軍国少年だったそうである。「護国の鬼」になるのが国民の務めと思って1943年には陸軍幼年学校に入学した。そして、戦後は「あっという間に民主主義少年になり」、「大学時代はマルクス・レーニン主義のシンパになり」……と回想する。

〈原点は1945年8月15日〉

 それでも彼の中には、「どんな思想・学説・主義・組織にも、自分を預けてしまうことはすまい」という思いがあったという。それは1945年8月15日を境にした180度の転換を、自分の目でまざまざと見たからである。
【あのとき感じた、人間の思想や国家のイデオロギーというのはなんて脆いものなのかという驚きは、今もずっと続いています】(65ページ)
 1947年に新憲法が施行され、都民大会が開催されてお祭り騒ぎになった。それを見て18歳だった加賀は、「本質は何も変わっていない」と感じた。
【いつの日かまた民主主義にかわる何かが入り込み、日本人をとんでもない方向に突き動かしてしまうのかも知れない。そのとき私が感じた不安は、残念ながら杞憂ではありませんでした】(同ページ)

〈悪魔につけ込まれないために〉

 戦争中の被コントロール体験、医学生時代に広島・長崎で被爆した人達の脳組織を見た時のショックや、アメリカで子供達に「原爆は科学と民主主義の勝利」と教える小学校教師に出会った時のショック、オウム真理教・麻原彰晃と会って思ったこと(精神鑑定結果の検証のため接見)……その他多くの自分の体験を背景に、加賀は「悪魔のささやきに身を委ねてはならない」と呼びかける。

 逃れるために、彼は幾つかの方法を挙げている。たとえば、視界を360度広げ、ものごとを正しく知ること。自分がアメリカで出会った教師も、もし原爆の悲惨さと今も続く被爆者の苦しみを知っていたら、子供達にキノコ雲のビデオを見せながら拍手したりはしなかっただろう、という。

 ただし、人間は無意識のうちに好ましい情報だけをピックアップする(個人内情報操作)。今はインターネット上でたくさんの情報が飛び交っているが、多くの人は自分にとって好ましい情報だけをピックアップしている。選り分けられた情報はその人の一面的なものの見方を補強する材料に使われ、より悪魔につけいられやすい状況を生み出すので注意しなければいけない。また、政府やメディアがおこなう情報操作もあるし、意図的でなくても間違った情報が流れることもあるので、できるだけ客観的に弁別・考察していく必要があるとも、加賀は念を押す。

〈考える主体は私〉

 加賀は自分の友人でもある哲学者・鶴見俊輔の、次のような言葉を紹介している。
【状況にのまれず、自分を引き離して自覚的に自分の生き方を選択する。大切なのはイデオロギーではなく、人生への『態度』なんだ】
 確固とした人生への態度を持つこと。個人主義を貫くこと。それも悪魔を避ける有効な方法であると加賀は断言するのである。夏目漱石、会津八一、永井荷風などの文を引用しながら、加賀は次のようにいう。
【雑誌やテレビやインターネット】から得た情報も、誰かのアドバイスや識者とやらの意見も、流行も、昔からの習慣や伝統も、宗教も、占いも、お隣さんがどうしたこうしたも、そのまま鵜呑みにしない。(中略)「みんなはどうなんだろう」ではなく、「私」から出発していく。私自身は常々、そうありたいと願っています】(198ページ)

◇◇◇

ダラダラと長い紹介になってしまった。最後まで読んでくださった方がおられましたら――どうもすみません。私は「個人が一番大事」、国家や公共などというものは二の次だと思っている(だからこそ1人1人の個人の尊厳を何よりも重いと思う)人間であり、同時に「人間は結構弱くてだらしないものだ」とも思っているので、この本は興味深く読んだ。

10代半ばの加賀乙彦は国家によって完璧にコントロールされ、鬼畜米英と思っていたわけだが、今の若い層にもそういうコントールの手(悪魔のささやき)がひそかに伸びていないか。


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17 コメント

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抵抗の日 (morichan)
2006-08-16 19:02:07
 8月15日の夜になって、小泉の靖国参拝は、いよいよ新たな時代の始まりと自覚しました。それも真っ暗な時代。

 平和憲法を変え、天皇の靖国への公式参拝を定式化するための新たな法律を作り、結局、太平洋戦争は侵略戦争ではないことを国家を挙げて主張しようとするものです。それ故、日の丸・君が代そして教育勅語を子供たちに教えることにより、庶民を国民にし、愛国心を持たせ、お上に楯突く庶民を排除することに成功する。

 この第一歩が小泉靖国参拝です。

 これに向けて、何があっても抵抗し続ける私の覚悟を決めた日でした。何があっても私のブログで言葉でも抵抗し続ける覚悟を込めた日でした。

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そうありたいと願う (ひげたま)
2006-08-16 23:13:23
はじめまして。

> 大切なのはイデオロギーではなく、人生への『態度』なんだ

これ、しびれました。

自分の人生への態度、か。



個人的にはイデオロギーから脱却するのは、本当に難しいと感じています。

まさに今の日本はイデオロギーの暴風圏内って感じですし。立っているのがやっとです。

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ネオナチモドキとBC級戦犯 (布引洋)
2006-08-17 10:54:11
ドイツでは統一後の経済的困難から多くの失業した若者達がネオナチ運動の中核を担っています。

日本でも小泉純一郎の新自由化路線の為に同一の現象が起こり格差社会の中で落ちこぼれたニートやフリーターから日本版ネオナチ(ネオナチもどき)が大量発生してしまいました。



欧州では公の場所でのネオナチのイデオロギーの賛美(公表)は法律で禁止され、日本のように靖国神社がA級戦犯否定、戦後秩序の破壊を公言するような事態にはなりません、



ネオナチモドキに対して私達が甘すぎるのでは有りませんか。?

すき放題に発言させて何も批判しないでは、すまないのではないですか。?

中国はA級戦犯合祀を問題にしていますが、私達日本人は明かな犯罪行為の実行者BC級戦犯に対して何も言わないのは問題では有りませんか。?

日本人自身が戦争犯罪を真摯に考えないと、諸外国の理解と尊敬は得られない。

最初から議論を拒否する態度のコメントは削除すべきでしょう。

自分の部屋の掃除は住人の責任です。
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Unknown (華氏451度)
2006-08-17 13:02:53
布引洋さん;

言われていることはわかります。確かに自分のブログのコメント欄は、きっちり掃除をするべきかも知れません。



ただ、私は当面、「議論を拒否する態度のコメント」もそのまま置いておこうかと思います。最も大きな理由は、「そういうコメントがあった」ことを目に見える形で残しておくため、です。今後、たとえば「こういうコメントがあり……」と例を挙げる時、私が意図的にでっち上げたのではないという証拠になります。



むろん、私がそんな甘いことを言っているのは、コメントの平均数が少なく、議論を拒否する形のコメント等もごく限られているからです。その手のコメントの割合が多くなってくれば(何%になれば、かは自分でもわかりません。目に余るほど……という感じでしょうか)、掃除をすると思います。
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>布引様 (sidewinder)
2006-08-18 13:36:46
はじめまして。

華氏さまへ。布引さまへ横レスさせていただきたいのですが、ご容赦願います。

布引さまの「日本版ネオナチ」観は、現在リベラルな方たちが共有しているイメージかと思いますが、私はこれにずっと違和感を覚えてきました。その違和感に対する答えの一つが、いかに引用するブログ(URL等失念)にあります。私は事態をより深刻なものと捉えております。



以下引用↓



私自身が(歴史ではなく中国文学・中国語教師ではありますが。また、決して偏差値的には高いとはいえない地方国立ではありますが)大学で教えている印象、また、同僚の歴史教師の話を聞くに、「問題意識を持っている学生ほど、つまり、新聞や本をよく読んでいる学生ほど、「つくる会史観」の率が高い」、というのはいえると思います。



講義で「日中問題」についてアンケートを採ると、何も考えていないパープリンな学生(全学生の7、8割ほど)はたいてい「ケンカしないで、仲良くやればいいのにネー」という(良くも悪くも)無邪気なコメントを書いてきます。一方、講義をかぶりつきで聴いているようなマジメ~な学生のほうが、「南京大虐殺は中共のプロパガンダで云々」みたいな意見を書いてくる。



ここで結構迷うわけです。「下手な知識よりは無邪気な“友好”の方が、無害」なのか、「つくる会史観とはいえせっかく意欲を持っているんだから、何とか方向性を変えてやる」方に力を注ぐべきか、と。



なお、「社会問題について考え、なおかつ「つくる会史観」ではない学生」は、さらに少ないですね。そういう学生は、やはり何らかの組織・団体に参加している場合が多いです。
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Unknown (sidewinder)
2006-08-18 13:53:06
まず峻別しなければならないのは、「日本版ネオナチ」を構成する層についてで、これを格差社会の敗者であるニート、フリーターであると見なすことには慎重にならねばならないと考えます。



フリーターの大半は、恐らく前述のコメントに引用したブログのテキストに見られる大学生同様、大半が政治にも国際情勢にも、戦争観にも全く関心がないと思われます。日本版ネオナチは、ネット等での発言を見るに親米(針共和党)路線・小泉支持が主流のようですが、つまり彼等は新自由主義の信奉者であり、新自由主義が敷衍した社会においてはフリーターがワーキングプアから脱することが極端に難しいと知っています。2chなどでは、親米・小泉支持者による低所得者・フリーターに対する激しい蔑視や冷酷な罵倒が頻繁に見られます。私は本家ネオナチと異なり、日本版ネオナチはむしろ若年層の中の比較的高所得な者達が、自分達の

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途中送信してしまいました。 (sidewinder)
2006-08-18 14:08:37
…自分達の立場をより強固に安定させる為に、国家の称揚を意識していると感じます。



個人的な体験に照らし合わせると、若く(22くらいの)大変に頭の良い女性編集者が私に対して、「日本も徴兵制を導入すべきです!」と断言したケースや、友人の医師が「同僚達が米のイラク戦争に対し日本がもっと積極的に荷担すべきだ、と唱える人ばかりで参る」とこぼしていたケースなど、やはり上記の推論を裏付けるようなものが多いように感じます。



ニートと日本版ネオナチがどう重なるかは、私には良くつかめていません。

高卒ニートと大卒ニートでは同じニートでも極端に立場が異なるでしょうし。



長くなってすみませんでした。

最後に私の疑問なのですが、ニート・フリーターが右傾化しているという推論が仮に正しいとしたら、ではなぜ彼等は「左傾化」しなかったのか?という問いが生まれますよね。

なぜなんでしょうね。
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格差社と右傾化の同時進行 (布引洋)
2006-08-18 17:26:15
>ではなぜ彼等は「左傾化」しなかったのか?



世界史的に貧困化と左傾化は同時進行しないようです。

歴史的に、没落する中産階級は大概は右傾化します。

現在、大学生の右傾化は顕著ですが自分達がニート、フリーター予備軍である事を何となく感じているのではないでしょうか。? 大学に入ったぐらいでは勝ち組になれない事実に薄々気が付いているのでしょう。



普通の常識的判断では負け組みのニートやフリーターは劣等感に苦しめられると私達大人は考えがちですが事実は逆で、彼等は他者に対してとんでもない優越感を感じているのです。

自分に能力が無いからまともな仕事に就けないと考えず、自己能力を過大評価して周りの全てを馬鹿にしているのです。



優越感は努力して自己を高めて苦労して手に入れる物ですが、彼等は手っ取り早く他者を貶めて優越感(擬似優越感)を感じます。

愛国心も、努力して世界に誇れる日本を作るのでは無く、手っ取り早く近隣諸国を貶めて愛国心(擬似愛国心)を感じます。

しかし悲しいことに擬似的に感じる偽者の優越感は簡単に傷つきます。

優越感が傷つく時に人は悲しさを感じますが、擬似優越感が傷つく時に若者は怒りしか感じません。彼らが何時も怒っているのは其の為です。



『左』には弱者に対する優しさが必要ですが、彼らには強者に対する憧れしか有りません。

右傾化は可能でも左傾化は不可能でしょう。
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Unknown (sidewinder)
2006-08-19 10:00:57
日本版ネオナチの構成層については、どうも水掛け論になりそうな気配が濃いのでこれ以上引っぱるのは止めますが、仮に問題意識を持つ大学生が手っ取り早い優越感を確保する為に右傾化するという布引さまの仮定を受け入れるなら、他の大半を占める負け組み無関心層と併せて、日本社会の右傾化は確定的かつ不可逆的という話になりますね。左傾化(リベラル化)へ向かうモチベーションが若年層にほとんど存在しないということになりますから。



所謂勝ち組みは現行の格差社会の中で既に

苛烈な競走を勝ち抜いてきているわけですから、勝ち組みを優遇する現政権・社会機構に批判的な姿勢を取る人は負け組み以上に少ないでしょう。

でもって負け組みも勝ち組みと同じ価値観を共有して格差社会を支持し弱者差別に走るのであれば、一体誰が共生や格差是正に希望を抱くのでしょうね。
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訂正 (sidewinder)
2006-08-19 10:06:16
前のコメントを一部訂正。

競走ではなく競争が正しいですね。



その前の私のコメントにも誤字があります。

ちゃんと推敲も校正もせず書き込んでしまい、もうしわけないです。
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