華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

どれほど低レベルでも、私は自分の頭で考え、自分の言葉で語りたい

2006-08-22 01:55:32 | 雑感(貧しけれども思索の道程)


 私は自分のブログで、なるべく学者や評論家の言葉(文章)を引用しないようにしている。誰それはこのように論じている、とは言わないようにしている。専門用語的なものも使わないようにしてきた。いや、むろんよくよく考えれば結構引用し、使ってもいるのだけれども、「なるべく少なく」というのが基本的なスタンスである。(この文章や言葉に惹かれたといって紹介したり、こういう問題が提起されています、などといって紹介するのは話が別)

 実のところ、一番大きな理由は「さぼっている」ということだ。私は何を隠そう(笑)大して頭のよくない人間で、本を読んでもきちっと記憶にとどめることができない。何せ猛スピードで忘却していくので、それに何とか追いつくだけでも大変(このあたりは知力の優れた人には理解できないかも知れないが……)。正確に引用しようと思えばいちいちその箇所を開いて確認せねばならず、それが面倒臭いのである。

 もうひとつは、本当に理解できているのかどうか、自分でも自信がないからであろう。私は活字中毒なので本の冊数だけはこなしてきたけれども、それを何処まで理解できたか。そして、それがどれだけ自分の血肉になったかどうかはわからない。そんな曖昧さのままで気軽に引用するのは、知識や情報への冒涜であると私は思う。

 いや、こんなことを言うのは、私自身の中に、学者や評論家や……何でもいいが、ともかく自分よりエライ人の思想や言葉を「箔付けに使いたい」ふうな意識がシッカリとあるせいだ。無名ジャーナリストの華氏が言った、その他大勢の庶民ブロガーのひとりである華氏が言った――というのであれば「ばっかじゃねーの」と木で鼻をくくったような反応しか返って来ないことでも、マルクスが、レーニンが、ルソーが、サルトルが、ユングが、フーコーが、ヴィトゲンシュタインが、アウグスティヌスが、孟子が、親鸞が、三島由紀夫が、大江健三郎が、高橋哲哉が、日野原重明が(何でもいい。思いつくまま順不同にただ並べただけである。もっとずらずら並べてもいいが、自分でもアホらしいので止める)……述べているのだと言えば、「うんうん、そうだよねえ」と納得されたりする(それはそれで白けるんだよなあ……)。

 私はジャーナリズムの世界で仕事をしてきて、そういう「虎の威を駆る」行為もいやというほどやってきた。本当に恥ずかしいことであるけれども。だからこそ、「えらい人」の知識や論理によって自分の言葉を底上げするというふるまいに、今でも吐き気がするほどの嫌悪を持っているのだ。その思想や言語と真向かって自分の血肉にした末ならば、むろんいくらでも引用すればいい。己の論理を補完するために使うのも、もちろんいい。だが、ろくろくわかってもいないくせに単なる「箔付け」のためには使うようなことはしたくないと悲鳴のように思い続けてきた(と言いつつ、つい使ってしまうのが私の凡人たるゆえん。実になさけない)。

 ここを覗いて下さった方の、すべてとは言わない。だがおそらく過半数は、私とおっつかっつの人々ではあるまいか。え? 世の中にはおまえみたいなアホは少ないって? とほほほほ……。まあいいや、覗いて下さった方の「ごく一部」でもいい。それどころか、1人でもいい。自分が「箔付けのために」エライ人の文章を引用したことがあるな、と忸怩たる思いを持つ人がおられたら、この問題に関してあなたは私の同志である。同志よ、あなたならおわかりのはずだ。

 過去の膨大な思想書を紐解けば、「私」がいま抱えている問題は綺麗に解決されるような気がする。政治学や歴史学や社会学や心理学や……何でもいいけれども、ともかく学問的な専門用語で説明されたり定義付けられれば、「ひぇぇぇ~かいつまんで言えばそういうことなんすか。知らなかったよ~」と、目からウロコが落ちたような気がする。え? しないって? だからさぁ、そういう人には話をしていないんよ。今夜は自分と同じレベルの人(って、いるのかね)だけに発信してるんだってばさ。

(酔っているので失礼)――いかん、話を戻す。


 たとえば、誰か権威のある人に説明されて、全部わかったと思うこと。専門用語(学術用語、と言ってもいい。この2つは別のものであるが、私にとっての距離は等しい)に無条件でひれ伏すこと。……それらを私は拒否してきた。「誰それが言っているから正しい」のではなく、「権威のある人ないしは組織の言葉だから正しい」のではなく、「学術用語によって解説できるから正しい」のでもなく、あくまでも自分がどう思うか。大切なのは、ただそれだけである。

「下手な考え、休むに似たり」という諺もあるように、どうやら昔から「アホは考えても無駄」と思われているらしい。しかし利巧といいアホといい、その基準はどこにあるのか。モノゴトを3分で理解して得な方に荷担できるお利口さんと、正義とは何かと死ぬまで考え続けて結論に達することのできなかったバカと、どちらが生き物として賢いのか。

 何か、話が逸れっぱなしだな……(私は寝る前に時間があればブログを更新するという習慣なので、ブログ書いてる時はたいてい酔っているのだ。要するに気楽にクダ巻いてるだけですので、お気になさらずに)。

 要するにですなあ、私が言いたいのは……「誰それがこう言っている」「何々にこう書いてある」「社会学(心理学、政治家、その他何でもいい)でいうところの○○現象である」等々、「知識」だけを金科玉条のように振りかざしてくる言説は何の魅力もない、ということである。知は力なり、という。知識はないよりあった方がいい(私自身、自分の知識不足に愕然とすることは多いのだ)。だが、携帯電話のストラップみたいな知識なら、あっても仕方ないのである。


 繰り返して言うが(というより、恥を晒すみたいなものだが)私はさほどの知識は持っていない。職業に絡んで多少の知識はあるが、これは社会人として長い年月を過ごしてきた人なら誰でも同様であろう。また本だけはやたらに読んでいるが、前述のようにきちっと自分の中に知として取り入れているわけではないし、はっきり言って頭もよくない(泣)。自分で言うのも何だが、絵に描いたような「その他大勢」の「凡人」である。

 だが……というべきか。だからこそと言うべきか。私は「自分の頭で考えること」と「自分の言葉で語ること」を大切にしたいと思う。先人の、あるいは同時代の人々のでもいいけれども、知識からは謙虚に学びたいと思うが、それを「自分の言葉の後見人」のようには使いたくない。どれほど稚拙でも、自分の頭で考えたことを、自分の言葉で語ること。そのあたりのことについては実は何度もブログで書いてきたような気がするのだけれども――それだけが、人間の最低の証であるように私は思ったりもするのだ。

(第一、自分の言葉を探さずにエライ人の論説を引用するだけですませるなら、ブログなど書く意味はない。ついでに言うとコメント欄も同様。削除はしませんが、誰がこう言った、どこそこにこう書いてある、というだけのコメントは読んでいて共鳴するところ皆無。人間を動かすのは、同じ人間の肉声だけである)
コメント (9)
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