教団「二次元愛」

リアルワールドに見切りをつけ、二次元に生きる男の生き様 (ニコニコでは「てとろでP」)

独りは寂しいよ・・・って、それは違う

2011-08-21 00:08:11 | オタネタ全般
最近ふと思ったことがある。

よく恋愛モノのドラマやマンガで
「独りは寂しいよ・・・」
なんてセリフを見るわけなんだが、その意味が理解できなくなってきた。

かつては理解できた気がする。
というか、そこまで思わないにしろ、そう思うのも妥当であろうとまでは理解できた気がする。

しかし現状では意味すら理解できない。

なぜか?

独りでいる状況を回避することは目的ではない。
何らかの根本的問題を解決するための手段の1つであるからだ。

加えていうと、わたしはそれを別の方法で解決してしまったからこそ、その手段だけに固執する人たちのことを理解できなくなっているのだ。



「独りは寂しいよ・・・」
というセリフ。

これはいったい何を解決したいのか?

もちろん、独りでいる現状を解決したいのではない。
精神の安寧を得たいのである。

人間の精神には欠陥がある。
その欠陥をどう表現したらいいのかわからないが、
スタンドアローンでは安定稼動できないとか、
他人に何かを求めてしまう間違った衝動だとか、
そういうものである。

その欠陥が発現した代表例が恋である。
そして上記セリフにいたる。

その欠陥を埋めてさえすれば、べつに独りでいる現状を解決する必要などない。



その欠陥を埋める方法は何か?

まず第一に、恋をする。
第二に、その恋を成就させる。

それだけだ。

しかし、
「言うはたやすいが行なうは難し」
と言うかもしれない。

そうではない。
恋をして成就させるのが目的であるならば、必ずしもナマモノの人体である必要などない。
たとえばゲームやアニメのヒロインでも可能である。

いや、でも可能である、という表現はあまり正しくない。
その表現では、ナマモノの人体の代替品かのように見えてしまう。
世の中には、生まれてこのかた恋に落ちた相手のことごとくが1人の例外もなくゲームやアニメのヒロインだという人間も存在する。

そういう人間にとってはナマモノの人体は代替品ではない。
ある男が女に振られたからといってホモに走っても代替行為にはならないのと同じ意味において、ナマモノの人体との恋愛がナンセンスと感じる人間もいる。

たとえば我輩。

そういう人間にとっての心の安寧とは、ギャルゲーをプレイしたり萌えアニメを観賞したりして、そのヒロインに想いをはせることである。

ゲームやアニメのヒロインの実体は自分の心の内にある。
だからといってそれは大した障害ではない。
それを大きな障害と感じる者は、ゲームやアニメのヒロインを好きになったことのない、ナマモノの人体との恋愛に固執する旧態依然とした人類でしかない。

自分がそのゲームやアニメのヒロインを本気で好きならば、自分の心の内にある欠陥はその娘がいつの間にやら勝手に埋めてくれる。
そして人の心は満たされる。

ただし、本気で好きでなければ満たされない。
ゲームの最中にその娘を傷つけたことに対して自らも痛みを感じ、
その娘の願いがかなって喜ぶ笑顔を返してくれたことに対して自らも心がいっぱいになる、
それくらい本気でなければ満たされない。

それは、ナマモノの人体に恋をしてそれを成就させるという手段に固執しなければ達成できない内容では決してない。
いや、こちら側の人間としては、ナマモノの人体に固執するほうがどうかしていると思うくらいである。