日支事変のヤマ場であった南京が陥落したのは昭和12年(1937年)12月13日である。81年前のことで、すっかり忘れてしまっていたが、昨日、靖国神社の境内の参道で、中国人男女二人が「南京虐殺」に抗議して段ボールに放火した事件を知り,往時のことを想い起こした。
僕はまだ小学1年生だったが、7月7日に盧溝橋で日支両軍が衝突し、戦火が拡大してゆくのを子供ながらに覚えている。とくに12月、蒋介石の居城、南京に日本軍が迫り、空爆を伴う激しい攻略戦で、まわりの大人たちが大騒ぎしていたのが昨日のようだ。10日間の攻略戦で脇坂部隊が光華門に一番乗りして万歳している写真を見て僕も万歳を唱えた。14日には東京で、勝利を祝う祝賀旗行列と提灯行列があり、僕も日の丸の小旗をふって参加した。
あれから81年、往時の感激を実感した日本人も少なくなリ、忘れかけ始めてきた。逆に「南京虐殺」という虚妄が独り歩きし、ユネスコの記憶遺産に指定されている。中国側が主張する30万人という数字は、当時の南京の人口から見てありえない数字である。この虚妄に基づく博物館が南京にあり,今年7月、福田康夫元総理が参観した。元総理は日支事変が始まった数日後に生まれ、南京攻略戦時は乳飲み子であった。
歴史は実際に生きていた者だけで語れ、といった傲慢のことは言わない。しかし、史実は一つしかない。小学1年だった僕でも「便衣兵」という言葉を知っている。確かに場内で「便衣兵」との間に戦闘があり、死傷者が出ているのは事実である。しかし、これを「虐殺」といえるかどうかだ。