がいこう日ソ共同宣言のあった1956年(昭和31年)は今、振り返ってみると、世界史の一つの転換期であった。クロノジカルにみると、ソ連では、2月、当時のフルシチョフ第一書記が国内でタブー視されていたスターリンを批判し、6月には”鉄のカーテン”と言われたワルシャワ条約構成国の一つ、ポーランドのポズナニで反ソ暴動が発生、さらに10月、ハンガリーでも同じような流血の事件が起きている。
共産圏の外でも7月、エジプトのナセル大統領がスエズ運河を国有化し、これが発端となって、11月、イスラエルがエジプトに侵攻、英仏両国もこれに加担して第二次中東戦争(スエズ戦争)に発展している。第三世界、新興国の存在が台頭し始めてきたのも、この年からだ。こんな世界の動きの中で、わが国は12月18日、念願の国連に加盟できた。そして、押し迫った26日、共同宣言に基づき、シベリアに抑留されていた最後のの引揚者を乗せた興安丸が舞鶴に帰ってきた。
1956年は僕にとっても個人的に人生の大きな転換期であった。新聞社の社会部から外信部に異動となり、最初に翻訳した外電がポズナニ暴動であった。スエズ戦争が起きた日に最初の子供が誕生している。日ソ共同宣言は、僕が外信部に移って間もなくのニュースだが、あれから62年、宣言に盛られた平和条約がいまだに調印されず、領土問題が未解決とは予想もしなかった。
共同宣言から数日後にハンガリー事件が発生している。ソ連にとっては日本との問題は次の問題であったかもしれない。わが国も念願の国連加盟を前にして、ソ連との間の問題解決をとり急いでいたのかもしれない。外交文書にしては共同宣言の領土問題の項目があいまいすぎる。