ビター☆チョコ

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オール・ザ・キングスメン

2007-04-11 | 洋画【あ】行

1949年 ルイジアナ州。
市の不正を弾効する出納官ウイリー・スターク(ショーン・ペン)は州知事選に立候補するチャンスを得る。
そのチャンスは対立候補の当て馬として謀られたものだったのだが、
貧民層の圧倒的な支持を得て、ウイリーは見事に当選する。
そんなウイリーの記事を書き続けてきたジャック(ジュード・ロウ)は新聞社を追われ、
ウイリーの参謀としてウイリーと行動を共にすることになる。
かつて市の不正を強く弾効したウイリーだったが、
いざ知事になってみると、かつて自分が嫌ったはずの不正に手を染めてしまうのだった。

重厚な映像の中、ウィリーの演説が一際光を放つ。
貧しいものに希望を与える演説は富裕層にとっては鋭い刃になる。
その刃が鋭くなればなるほど、
貧民層はウィリーに熱狂し、富裕層はウィリーを嫌悪する。

両者の深まる溝の中でウィリーが具体的に何をしたのかは詳しく描かれていない。
ウィリーの言葉や行動から察して
ぼんやりと想像するだけだ。

いつだってそうなのだ。
政治の世界のことは、庶民にはいつも上っ面しかわからない。

この映画を観ながら
私たちの国の某県の知事選を思い出してしまった。
確か、前知事さんが汚職で逮捕されたのだったと思う。
ラジオで聴いた話なので
もし違ってたら申し訳ないのだが
その逮捕された前知事さんは元は県の職員で
県政を変えたいと思って、周囲の反対を押し切って知事に立候補したのだそうだ。
地盤も後ろ盾もない中、やっと当選を果たして知事になってみると
今度は無名だった自分を支えてくれた地元の企業に対して「借り」を作ってしまったような感じで
気がついてみると
自分があれほど変えたいと思っていた悪循環にすっぽりはまっていたのだそうだ。

その後を引き継いだ元タレント知事さんは柵(しがらみ)もなく、
悪循環にはまる要素はなさそうなのだが、そこは政治の恐いところ。
善から悪が生まれることがあるかもしれない。

時代や国が違っても
権力をもった人間の変化は、哀しいことに避けては通ることが難しいことなのかもしれない。

注意深く追ってないと
物語の流れを見失ってしまいそうになるのだが、
ショーン・ペンの演説には惹きこまれてしまった。
ちょっと引いて見ると、あの迫力に胡散臭さも感じてしまうのだが
明日に希望が持てない貧しい人たちには、あの強いカリスマ性が希望の光に見えたのだろう。
ショーン・ペンの演説の間は
私も明らかにあの演説を聴いている貧しい人たちの一員だった。
そして絶対1票入れたと思う(笑)

ショーン・ペンを堪能した映画だった。






あなたになら言える秘密のこと

2007-02-17 | 洋画【あ】行

ハンナ(サラ・ポーリー)は淡々と暮らしている。
無遅刻無欠席で4年も働いてる工場でも、人とのかかわりを避けているようだ。
そんなある日、ハンナは働きすぎを理由に、無理に1ヶ月の休暇をとらされることになった。
なんの当てもなく出かけた街で、ハンナは看護師の募集を知る。
ハンナの仕事は、海に浮かぶ海底油田掘削所で、事故のため怪我をしたジョゼフ(ティム・ロビンス)の看護をすることだった。

騒音のひどい工場で働く人々は、ヘッドフォンをつけて働いている。
ハンナだけはつけていない。
どうやら耳が不自由らしい。
補聴器をつけてはいるが、スイッチを切ってしまえば世間とのかかわりも切れてしまう。
ハンナは意図的にスイッチを切って、自分の存在すらも消してしまいたい様子だ。
ひとりで食べるお弁当は、来る日も来る日も米とチキンとりんご半分。
食べる楽しみすら、自分に許していないような寒々とした日常だ。
何もないがらんとした部屋に、それだけは豊富に積み重ねてあるアーモンドの香りのする石鹸。
その石鹸が、どうやらハンナの安らぎであるらしい。

休暇先で、ハンナの過去が少しずつ分かってくる。
火傷の患者を何人も世話をした経験がある看護師だったらしい。
油田の事故で一時的に視力を失ってるジョゼフは、
鋭い洞察力で
ハンナが何かを隠していることに気がつく。

海にポツンと浮かぶ油田の掘削所に暮らす人々は、
皆、どこかに傷を持っているようだ。
その気配や、ジョゼフとの何気ない会話がハンナの心をゆっくりとほぐしていく。
そしてジョゼフが、自分の秘密をハンナに打ち明けたとき
ハンナが長い間、鍵をかけていた自分をそっと開くのだ。

秘密。
その言葉には、どこか甘やかな響きがあるような気がしていた。
心の奥に密かに秘めてはいるけれど、
時々そっと取り出して確かめてみるもの。
でも、それは私が平坦な人生をあるいてきたからそんなイメージを持ってしまうのだろう。

ハンナの・・・・秘密というにはあまりにも重い過去。
心に鍵をかけただけではまだ不安で、自分ごと何重にも重い鎖で巻きつけて厳重に蓋をした過去。
かけた鍵の重さと共に自分自身も深い海の底に沈んでしまったような味気ない生活。
すべては、戦争がハンナを海の底に沈めてしまったのだ。

ここでも私は刃を突きつけられる。
1990年代はじめ、そういえばボスニアで内戦があった。
民族浄化という言葉がかすかに記憶に残っている。
ほんの少し前のことでも、もう私たちには遠い遠い過去のことなのだ。
でも、その内戦に巻き込まれて生き残った人々は、心と体に深い傷を持っているのだ。
傷だけではなく、生き残った自分を恥じてもいるのだということを知らされる。
その傷みは想像すら出来ないものだけど
悲惨な過去を語り継いでいこうにも、語ることすら出来ずにいる人々がいることを忘れてはいけないのだ。

戦争という名の下で
同じ人間に痛めつけられたのに、結局、その傷を癒してくれるのもまた同じ人間だ。

ジョゼフが大きな男の人でよかった。
ジョゼフにすっぽりと包み込まれたハンナに、もう鎖は巻きついていないように見えた。







インファナル・アフェア

2007-01-28 | 洋画【あ】行

華流、韓流は今まで縁がなかったんですが(はっきり言うと避けてました
『ディパーテッド』を観たら、そのオリジナルだという『インファナル・アフェア』も気になりだして
観てみました。

物語の流れとしてはほぼ同じなのですが、まずは空気感が違いました。
『ディパーテッド』がアクション重視なのに対して
『インファナル・アフェア』はもっと情緒的な感じがしました。

インファナル・アフェア。。。原題は「無間道」、仏教用語の無間地獄からきているらしいです。
絶え間なく苦しみが続く、という意味だそうです。
それをキリスト教のアメリカでリメイクするとディパーテッド(死者)になるわけですね。
アジア人である私が観ると、映画の根底に流れているものは「インファナル・アフェア」のほうがしっくり来ます。

物語は二人の経緯を詳しく説明したりはしないのですが
行動やちょっとしたセリフからちゃんとつかめます。
派手なアクションも撃ち合いも少ないのですが
静かな緊迫感に包まれています。

ジャック・ニコルソンが前に出すぎて(爆)
主演の二人が霞んじゃったような気配のあった(爆)『ディパーテッド』よりも
ラウ(アンディ・ラウ)とヤン(トニー・レオン)にしっかり焦点が当たってるので
主演の二人がとても生きています。

マフィアでありながら警察に潜入したラウ。
悪の道を歩きながらも善人になりたい、というラウが「無間地獄」に嵌っていくのですが、
その苦悩する様がとても胸に迫りました。
いかにもエリートというスーツ姿のラウ(実はマフィア)と
いかにもマフィア(実は警官)というスタイルのヤン。
そのきっちりした外見の違いがとても悲しかったです。

うららかな日曜の午後にみちゃ駄目でした。
とても重いせつないものが胸に残りました。
そして、『ディパーテッド』と比べてみよう、と思ってみちゃいけない映画でした。
全く別の映画です。

別の映画だと言いながらも、どうしても比べてしまいます
どうせ比べるなら「インファナル・アフェア」を先に観るべきでした。
そうしたらもっと純粋な気持で、この世界に入り込めたと思うんですよね。
それがすごく残念でした。












硫黄島からの手紙

2006-12-11 | 洋画【あ】行

1944年6月。本土防衛の最後の砦となる硫黄島に、栗林中将(渡辺謙)が着任した。
頼みの連合艦隊も壊滅的な打撃を受け、孤立無援の中、日本軍は戦いに挑む。

第2次世界大戦でもっとも悲惨な戦いと伝えられた「硫黄島」での戦いを、
アメリカと日本。それぞれの視点から捉えたクリント・イーストウッド監督の2部作。
アメリカ側から描いた「父親たちの星条旗」は、おもに戦争と政治のゆがんだ関係に焦点を当てているが、
日本側から描いた「硫黄島からの手紙」は、極限状態の中で戦った日本人の姿を描いている。

ほとんど明度も色彩も感じられない、グレーがかった映像が続く。
草も木もなく荒涼とした風景を、雨のように容赦なく降り注ぐ弾丸の恐ろしさを、
兵士達の目を借りてみているような錯覚を起してしまう。

アメリカへの留学経験があり、アメリカの軍事力を充分に知っている栗林中将は、
ほとんど精神論ばかりで、なんの効果も挙げられない作戦を合理的なものに変えていく。
当然反発もあるのだが、彼はひるむことなく作戦を変えていく。
死を覚悟して。
本土に残してきた自分たちの子供が家族が1日でも長く安泰に暮らせるために。

そして、現代に生きている私たちは今、映画で当時の戦争を知る。
昨日の夜、家族4人で観にいったのだが、
娘と息子が号泣する隣で、私は涙も流せずに固まってしまった。
生きる時代が少し違えば、あの地獄のような戦場を這いずり回ってるのは息子だったかもしれない。
勝つ見込みのない決戦に備えて穴を掘ってるのは、夫だったかもしれない。
戦争について思うとき、いつもそこに思いは行き着いてしまう。

普段、戦争を描いた映画を、特に邦画を観ることはない。
なぜなら、感動を強要されてるような気がするから。
戦争を少し美化してるような気もするから。
今回はまるでドキュメンタリーのように、日米どちらにも傾くことなく戦争そのものが描かれていたと思う。
極限の中の人間の卑しさや、哀しさ。
そして極限の中にあっても失うことのない品性が。

本土に残してきた兵士の家族の姿は、ほとんど画面には出ないけれども
兵士達一人ひとりの後ろに息子の無事を祈る家族の姿が良く見えた。
その気持ちには国境はなく、兵士達一人ひとりは、みんな誰かの大切な子供なのだ。


9月以降、なぜか戦争やテロを題材にした映画が多く公開された。
それとは少しスタンスが違うかもしれないけれども「太陽」という映画で
昭和天皇の苦悩も垣間見ることが出来た。
そのたびに思うのは、「知ること」の大切さだ。
何も出来ないかもしれないけど、過去に何が起きたのかちゃんと知って、
もう2度と同じ方向に進まないように、ちゃんと見張ってなくちゃいけない。と思う。

もし少しでも興味があったら、ぜひ観てもらいたい映画だと思う。
特に若い人に。







いまを生きる

2006-10-13 | 洋画【あ】行

1959年。バーモントの全寮制男子校にこの学校のOBで英語教師のキーティング(ロビン・ウイリアムズ)が赴任してきた。
ノーラン校長(ノーマン・ロイド)の厳格な指導と親の過剰な期待に縛られてる生徒達は、学校生活を単なる人生の通過点と考えていた。
しかし型破りなキーティングの授業は、詩の美しさを通して自分の人生を自分で考えるきっかけを生徒達に与える。

人の借りてきたDVDはちょっと気になる。
昨日息子が学校の帰りに借りてきた。と居間に置いていったので、どれどれ何を借りてきたのかな?と袋の中を覗いてみた。
「リーサルウェポン」と、もう1枚が「いまを生きる」だった。

娘が高校3年生だった頃に、授業中に担任の英語の先生に観せてもらって、クラス中で大感動したという映画だ。
ちょうどこの映画の生徒達と同じ年で受験生で、いろいろなことを考えながらも自分をうまく表現できないで悩んでいた時期だったのだろう。

映画の中でキーティング先生が高校生だった頃に作っていた詩読サークル「死せる詩人の会」を真似て生徒達が会合を開くシーンがあるのだが、娘のクラスでもちょっと流行ったそうだ。
誰のどんな詩を読んだのかは聞かなかったけど、自作の詩を読むことが結構多かったらしい。
女の子よりも男の子達が大ノリで詩を作っていたらしい。
なかなか自分からは話せないことでも「詩」という形を借りると表現できたことがあったのかもしれない。
つらいモヤモヤした時期の楽しい思い出のひとつとして、クラスの文集に「死せる詩人の会」のことを書いてる子がかなりいた。
ほのぼのした気持ちになった話だ。

息子もその時の娘と同じような年になり、何を求めてこの古い映画を観る気になったのだろう。
彼がどんな感想を持つのか、聞いても答えてくれないかもしれないけど気になる。

映画は必ずしもハッピーエンドではないけれど、試練を乗り越えて自分の足で歩こうとする若者の姿がある。
何度観てもじんわりとする。





ウォーク・ザ・ライン 君につづく道

2006-02-28 | 洋画【あ】行
                

ジョニー・キャッシュ(ホアキン・フェニックス)は幼い頃、最愛の兄を事故で失った。
その事故がジョニーと父の間に深い溝を生み、ジョニーは心にわだかまりを持ったまま成長する。
除隊後、シンガーとしての道を歩き始めたジョニーは、幼い頃兄とラジオで歌声を聴いていたジューン・カーター(リース・ウィザースプーン)と出会う。
ジューンとツアーを組みスターの座に登りつめたジョニーだったが栄光の道はジョニーにとって過酷なものだった。
ジョニーはいつしかドラッグに染まっていく。
妻子はジョニーの元を去り、すべてを失ったジョニーに救いの手を差し伸べたのはジューンだった


ゴールデングローブ賞にノミネートされて、はじめてこの映画を知ったとき、主演のホアキン・フェニックスとホアキンの兄のリバー・フェニックスのことが頭に浮かんだ。
そんな人は多かったかもしれない。
それほどリバーのことは衝撃的だったから。
あれから10年あまりが過ぎて、ジョニー・デップやキアヌ・リーブスを観てリバー・フェニックスを思い出すことはないのだが、ホアキンにはどうしても兄の影がちらつく。
しかもドラッグに溺れるスターの役!

なんだかいろんな思いを持って観にいった私でしたが、そこにリバーの影は見えませんでした。
そこにいたのは伝説のシンガー、ジョニー・キャッシュでした。
と言っても、ジョニー・キャッシュを知らなかったんだけど。。。それほどホアキンの声が歌が素晴らしかった。
そしてリース・ウィザースプーン。
実は彼女の映画は、はじめてみたんだけど、自分の食わず嫌いを反省しました。
「キューティ・ブロンド」も興味なかったんだけど、観てみようかなって気になりました。
それほど、可愛くて芯の強い、それでいてちょっと哀しい女の役を見事に演じてました。
そしてまたこれも歌が素晴らしい!
たった半年ほどのレッスンでこれほど歌えるのは、やっぱり才能なんでしょうね。
エンドロールで流れたのはたぶん本物のジョニーとジューンの歌だと思うけど、私はホアキン&リースのほうが好きかも。

ストーリーは実話だから、スターの人生にありがちな転落と再生の物語なんだけど、人がどん底に落ちた時、それを救い上げるのはやっぱり「人」と「愛」以外にないんだな、と改めて気づかせてくれます。
人がまっすぐに歩き続けていけるのも「愛」があるからなんですね。

映画とは直接関係ないんだけど、この作品のどこがPG12だったんだろう?
ドラッグを扱ってるから?歌詞が問題?ってほどでもないだろうし
自分には影響のないことながら気になってしまいました。

アカデミー賞、もうすぐですね。
アカデミー賞に絡んでる作品は発表前になるべく観たかったのに、まだ公開してない作品が多いんですね。残念でした。
またいろんな思いがこもっちゃうけど「ホアキンがんばれ!」の思いを強くしてる私です。









オリバー・ツイスト

2006-02-02 | 洋画【あ】行
                 

19世紀イギリス。孤児で救貧院で暮らすオリバー(バーニー・クラーク)はお粥のおかわりを求めたために救貧院を追放される。
奉公に出された葬儀屋でも冷たい扱いを受け、オリバーは7日間歩き続けてロンドンに逃げる。
しかしたどり着いたロンドンでも頼る人もなく途方に暮れているオリバーに救いの手を差し伸べたのはフェイギン(ベン・キングスレー)という老人だった。
フェイギンは身寄りのない子供たちにスリをさせているらしい。
それでも疲れ果てたオリバーにとっては心休まる日々だった。
ところがある日オリバーが警察に捕まってしまい、そこからまたオリバーに苦難の日々が始まるのだった。



正直に言って、昨日は泣く気満々で出かけた。
子供と動物には弱いのだ。
リトル・ダンサーのジェイミー・ベルにもネバーランドのフレディ・ハイモアにもきっちり泣かされた。
皇帝ペンギンの名もないペンギン君にも泣かされた。
救貧院、孤児。。。それだけでもう涙は約束されたも同然なのに泣けなかった。
ロンドンについてからがあまりにも淡々と流れたため、ヤマがわからなかったのだ。

オリバーがロンドンに向かって歩く田園風景。
ロンドンの裏通りのぬかるんだ道。
薄暗い室内。
オリバーの白い美しい顔。
映像としてはこの時代の雰囲気がとてもうまく出ていたと思うのだが~
(この時代のロンドンを見たわけじゃないけど)
フェイギンやナタリー(フェイギンにスリとして育てられて、オリバーを救おうとする)の姿が曖昧な感じなのだ。

フェイギンはいい人なのか。悪人なのか。
「スリは悪いことだけど、孤児が生き抜くためには仕方がないんだ」という悪い考えなりに、しっかりオリバーを育てようとしたのか。
オリバーとの間に深い信頼があったのか。
もしそうであったなら、最後にオリバーと面会するシーンがもっと盛り上がったものになって、観てる私もつい涙。。。になったと思う。
でもそうでもないらしい。
自分の都合でオリバーを殺そうとしている。
ナタリーにしてもオリバーをさらう立場から、いつの間にか救おうとする立場に変わってる。
どんな心境の変化があって命を懸けてオリバーを救おうとしたのか。
自分のようなスリにはしたくないと強く思うほど、ナタリーの生活が悲惨なものには感じられなかった。
もっときっちり善悪の区別が明確だと、こっちも感情移入がしやすかったのになぁと思う。

泣くために映画を観るわけじゃないけど、この映画ならこのシーン!とガツンと胸に残るものがひとつほしい。
精巧な挿絵がとても素晴らしい美しい物語だが、朗読してくれる人が一本調子で残念!というような感じがした。

フェイギン配下のスリの子供たち。早業トビーなんかとても生き生きしていたなぁ。
過酷な状況を生き抜こうとする強さやしたたかさが出てた。
オリバーも目がいい。悲しそうで。
思わず駆け寄って助けたくなる。
わんこのブルー・アイズも悪役だけど、最後、いい仕事したよね。
賢い子だ。

子供と動物にはやっぱり弱いのだ。










インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア

2006-01-03 | 洋画【あ】行
               
サンフランシスコのビルの一室。ジャーナリストのマロイ(クリスチャン・スレーター)に語るルイ(ブラッド・ピット)の半生は驚くべきものだった。
18世紀末,ニューオリンズの裕福な農場主だったルイは妻子を失い生きる希望を失っていた。
自暴自棄の生活を送るルイにヴァンパイアのレスタト(トム・クルーズ)が魅せられ,永遠の時を生きる相手としてルイをヴァンパイアに変えてしまう。
しかし,人間の心を捨てきれずに思い悩むルイ。
ルイの慰めにと今度は幼いクローディア(キルスティン・ダンスト)をヴァンパイアに変えて迎えるレスタト。

クローディアを溺愛することで,3人のヴァンパイアの家族としての平和が保たれてきたが,何十年経っても成長しないことに疑問と苛立ちを抱くようになったクローディアが,この家族の幸せを壊してしまう。

去年ネッ友さんのところで,中学生の頃熱中して読んだ萩尾望都の「ポーの一族」の話題になって,その時この「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」の話が出た。
人物の設定が似てるよね・・・ということで。
私もかなり前にこの映画を見たときそう思った。

最近娘が「ポーの一族」を全巻買って来て読み返したら,今度はこの映画がまた観たくなった。
年末新しいパソコンを買うために電気屋に何度か通ううち,このDVDが980円で売っているのを発見!即,買ってきた。
お正月もひと段落してやっと今日ひとりで観たわけだが・・・
「ポーの一族」のメリーベルがクローディアにあたるわけだけど,メリーベルはあんなに強くない。か弱くて可憐なの!
・・と強く否定したくなるほどクローディア役のキルスティン・ダンストの迫力がすごい。トム・クルーズも頬がこけるほどやせて,凄みのある美しさなんだけど,キルスティンには負けてるんじゃないの~~と思ってしまう。

ブラピ,アントニオ・バンディラス,クリスチャン・スレーター,出演者もすごく豪華だが,
もともとはデップにオファーがいったのにデップが蹴ったとか,クリスチャン・スレーターの役はあのリバー・フェニックスが演るはずだったとか,興味深い裏話も以前なにかで読んだ。
もしデップが演じてたらどんな美しくて恐ろしいヴァンパイアになっていただろう。。。そんなことを考えながら観てしまった。

夫も今日,赴任先に戻って,久しぶりにひとりの時間を楽しんだ。
ひとりの時間というのはとても大事なもの。
でもそれは「自分は一人じゃない」という裏打ちがあってのものだ。
私の好きな「ひとり」はつかの間のもの。
時間が来れば家族のいるあわただしくて少しうっとおしい生活に戻る。

中学生の頃,「ポーの一族」のヴァンパイアの美しさに魅了させられたけど,
主人公のエドガーの抱く哀しさのようなものには思い至らなかった。
永遠の命を持つということは,計り知れない孤独なものなんだと今やっと思う。


アモーレス・ぺロス

2005-12-04 | 洋画【あ】行
       
オクタビオ(ガエル・ガルシア・ベルナル)は兄嫁のスサナ(バネッサ・バウチェ)を愛している。スサナに暴力をふるい,幼い息子にも冷たい兄ラミロ(マルコ・べレス)から,二人を奪って逃げるために,闘犬で賞金稼ぎをしている。

トップモデルのバレリア(ゴヤ・トレド)は不倫相手のダニエル(アルバロ・ゲレロ)を妻から奪い,新居でダニエルと愛犬のリッチーと暮らし始める。
そんな幸せの真っ只中,バレリアは交通事故に遭い,ダニエルとの関係も急激に冷めていく。

エル・チーボ(エミリオ・エチュバリア)は世捨て人のようにごみを拾い,たくさんの犬と暮らしている。しかし,現実には殺し屋をしている。
もともとは大学教授で家族を持った平凡な市民だったのだが,反政府組織に入り,
服役した過去を持っている。
自分が捨ててきた娘への愛情が捨てきれず苦悩している。

映画は激しいカーアクションから始まる。
追われる若者の車の後部座席には,瀕死の黒い犬。
いったい何があって,追われているのか。
この犬はいったいどうしたのか。
冒頭から心拍数があがる!
そして車は交差点で激しい事故を起こす。
この事故で,全くシチュエーションの違う3つの物語が交差する。
事故の原因となったオクタビオ,事故に巻き込まれて足を失うバレリア,
事故現場に居合わせ,瀕死の黒い犬を助けるエル・チーボ。
3人に共通してるのは「犬」とエゴイスティックに思えるほどの激しい愛に苦しんでいることと,「父親」だ。

オクタビオは兄嫁を奪い,父親になろうとしている。
バレリアは不倫相手の家庭から父を奪った。
エル・チーボは自分が捨てた娘の父に戻りたいと思っている。
それぞれの愛情があまりにも重く激しいので観てて苦しくなってくるのだが,最後まで観てしまった。
闘犬のシーンや暴力のシーンでは思わず目をそむけてしまうのだが,そんな激しい場面の下にある「なにか」になぜか引きつけられる,そんな映画だった。

アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督の作品は,いつも観た後に「哀しさ」が残る。



イン・ハー・シューズ

2005-11-17 | 洋画【あ】行
ローズ(トニ・コレット)はバリバリの弁護士。仕事は順調でも,自分の容姿にコンプレックスをもっていて恋愛に積極的になれない。
マギー(キャメロン・ディアス)は無職で学歴も友達もないが,自分のゴージャスな容姿には自信を持っている。
そんな正反対の二人は姉妹。
二人に共通しているのは,子供の頃に亡くした母の思い出と,靴のサイズだけ。
妹の引き起こす騒動をいつも引き受けてきたローズだが,交際を始めたばかりの恋人をマギーに取られ,大爆発。
職なし,家なし,お金なしのマギーを追い出してしまう。
行き場を失ったマギーは,母が死んで以来交流のなかった祖母のエラ(シャーリー・マクレーン)の元に身を寄せる。
思いがけない孫娘の訪問に喜ぶエラだったが,ぶらぶら遊び暮らすマギーに,
エラの住む老人ホームで働くことを提案する。
一方,厄介な妹が消えてしまったローズはなぜか気が晴れない。
迷惑な存在だと思ってたマギーがいなくなって,初めてかけがえのない存在だったと気づくのだ。
今までの生活をリセットした二人は
遠く離れた場所で,それぞれの新しい道を摸索しはじめる。

祖母の住むフロリダに旅立つ前のマギーが,華奢なジミー・チューのハイヒールだとすれば,フロリダで生き生きと働くマギーはスニーカーだ。
どんな道でもすたすた歩ける,気取らないスニーカー。
いつも誰かに甘えたい。難読症という大きなコンプレックスから目をそらし,不安定な様子だったマギーが,自分の居場所を見つけて自信に溢れていく様子は,観ていて嬉しくなってしまう。
成功者に見えたローズも,実はコンプレックスとストレスの塊。
妹の保護者としての重荷をおろし,誰かに愛される喜びを知って輝いていく。
自分にぴったりの靴(人生)を探し出すために
人は泣いたり笑ったり傷つけあったり許したりを繰り返すのだろう。

この正反対の姉妹を暖かく見守るエラと,エラの友達(老人ホームの住人たち)がとっても素敵だった。
最近,映画を観るとなぜか主役よりも脇役の,ちょっと年配の女性に心惹かれる。
ヘレン・ハントとかスーザン・サランドンとか・・・
この映画でも,主役の二人には心から拍手を送りたいが,一番輝いてたのがおばあちゃん達。
人生80年くらい?だとすれば,もう折り返してしまった私。
10年前だったら自分探しをする姉妹に共感したのだろうが,今の私は自分探しはもうしない。
私の視線はこれからどんな自分になりたいのかに向いてしまう。
願わくば,自分の負った傷も全部受け止めて,しっかりと明るく立っている
かっこいいばあちゃんになりたいものだ。
結局,私の靴探しもまだまだ続く。