むかし、ラジオだったかテレビだったか忘れてしまったが、「見たり聞いたり試したり」という放送番組があった。
情報は見てわかる、聞いてわかる、読んでわかる、そのとおりやってみてわかるものだ。
くどくど「わかる」と書いたのは、わからないのは情報ではないからである。
わかることには、もちろん理解すること以外に感じ取ることなども含まれるが、保存し貯めておくだけのものは情報ではなく、贔屓目に見てもデータと呼ぶぐらいのものである。
災害地で「いま何が欲しいですか」というやや間の抜けた定型質問がある。その返事に「情報」と聞くと、つい情報が腹の足しになるのかと思ってしまう。
答えた人は、いま何がどうなっているのかさっぱり見当がつかないから全貌を知りたいと思ってのことだとは思うのだが。さて知ってどうする、もっと欲しいものがあるだろう。マイナスの生活条件をゼロに近づけるにはいちばん何が欲しいかが被災地、避難場所からの必要な発信情報なのだ。
誰それの行方がわからないから探してほしい。ガソリンが欲しい。薬が欲しい。風呂に入りたい。言われてもその要求をすぐ満たせないことを言わせて慰めになるものでなし、平時の夫婦喧嘩の文句とは違うから、言えば気が済むというものでもない。
データだけ集めても役に立たない。聞いてその通りにしてあげられないことは聞かないほうがよいと思うのだが、どうだろうか。
パソコンでやりとりする情報も、飛び交っている全体量のうち役立っているものがどれぐらいあるのか。たぶんナノレベルの割合ではないかと思う。
いま住んでいるところの放射線のレベルは、いずれ上がっていくことは想像がついても、急上昇は勘弁してもらいたい。だが、情報の活用レベルはどんどん高めてほしいものである。
情報の処理能力には受信側に必要なこともいろいろあるが、活用度に影響のあるのは発信側にかかることが多い。
いまテレビ情報の扱いで、もっとも知恵のなさが目立つのは、ACのCMと義捐金口座の番号と名称だ。
ひとつはウルサイと思い、もう一つはメンドウと思う。
くどすぎればうるさがられ、ややこしければ面倒がられるというごく当たり前のことに全然気を使わずに、ただ決めてそのとおりやっている。小学生並みの頭の使い方しかできなくなっているらしい。
公共の息がかかると、みな急に頭の働きが鈍くなるようである。
原発もそうだがこの方がもっと心配だ。
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